finalvent読書会 D 田中小実昌・短編集『ポロポロ』 、『大尾のこと』。そして読了。

finalvent読書会 D 田中小実昌・短編集『ポロポロ』の最終の『大尾のこと』を読み終えた。これは、あまり面白くはなかった。『寝台の穴』で縷説した、物語への忌避をそのまま叙情的に延長しただけだった。もちろん、それが悪いわけでもなく、田中小実昌自身の内面での、思索的な咀嚼のようなものだろう。その分、仕掛けを恐れるでもなく、普通の小説でもあった。

「大尾」に仮名が振ってないのは奇妙に思えた。「だいお」である。表題が『大尾のこと』とする意匠はわからない。存外にということもないが、くだくだと物語どうのと書いているが、単純に、追悼の思いではないかと思う。

作中、「北川」の話が出てくる。そこでは、「日本兵」とされていて、さては私は読みを間違えたかなとも思ったが、そうでもないだろう。

(中略)北川が、おそらくひとにははなさなかったそのことを、ぼくにはなしてくれたことが、すべてだったのに、ぼくは、それを北川がはなした内容にし、つまり、物語にしてしまった。

つまり、北川が話さなかった物語、を書いたのだとしている。とすれば、逆に私の読みで、そう間違ってもいないのだろう。

さて、短編集『ポロポロ』を読み終えた。正直なところ、私の読みが異端的であり、それを強弁したいとも思わないので、なんとも奇妙な読後感になった。田中小実昌が縷説する「物語を避けること」は、それほど私は重要だとは思わない。

田中小実昌の父については関心はあるので、『アメン父』も読みたいとも思うが、少し間を起きたい。

原点に返り、私の先輩が昔この本を勧めた理由は、たぶん、戦争というもののリアリティであり、私の読解はたぶん、それとずれてしまっていだろう。あるいは、若い日の私が過度に物語を志向したせいもある。実際、今回の私の読みは過度な物語であることは否めない。

ただ、私自身は、物語のほうにコミットしている。田中小実昌のこの小編群は規定において追悼で成りなっているし、追悼の意識は物語そのもだろうと思うからだ。


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