情景描写としての訳文の差

名訳として定評のある実吉捷郎・訳と現在もっとも新しい浅井晶子・訳で冒頭以降の、情景描写としての訳文の差を見てみよう。言葉のリズムに合わせて、情景がどのように浮かび上がるだろうか。

実吉捷郎・訳
 学校が退けた。鋪石の敷いてある中庭を越え、格子門を潜って、自由になった者たちの幾群は、潮のように流れ出すと、互いにわかれて右へ左へ急ぎ去った。年かさの生徒たちは、昂然と本の包みを高く左の肩に押しつけたなり、風に向かって、昼飯を目あてに、右腕で舵を取ってゆく。小さい連中は快活に駆け出して、氷のまじった汁を四方にはねかしながら、学校道具を海豹皮の背嚢の中でがらがらいわせながらゆく。しかし折々、従容と歩を運ぶ教諭のウォオタンのようなひげ帽子とユピテルのような髯を見ると、みんな神妙な眼つきでさっと帽を脱いだ・・・・・・

青空文庫

「昼飯を目あてに、右腕で舵を取ってゆく」は観念的な表現であり、「氷のまじった汁を四方にはねかしながら」はイメージがわきにくい。「海豹皮の背嚢」は意味がわかるとしても、古めかしい。「ウォオタンのようなひげ帽子」はどうだろうか。

浅井晶子訳ではどうだろうか。

浅井晶子・訳
 放課後。解放された生徒たちの群れが、石畳の校庭を横切り、格子門からあふれ出ると、右へ左へと家路を急ぐ。上級生たちは恰好良く本の束を左肩にかつぎつつ、向かい風をこぐように右腕を振りながら、昼食の待つ家へと戻っていく。年少の生徒たちは陽気に駆け出すので、雪混じりの泥があちこちに跳ね、アザラシ革のランドセルに入った勉強道具がカタカタと音を立てる。それでも、オーディンがかぶるような帽子にユーピテルのような髭(3)で悠然と歩く教師の姿を目にすると、そこここで誰もが従順な顔になり、帽子を頭からさっと取る。

光文社

浅井晶子訳では体言止めや倒置構文が覆い。この冒頭「放課後。」も体言止めだが、朗読すると、時間副詞句に聞こえる。こうした文体は私は好まないが、現代の若い世代には向くだろうか。

情景はわかりやすい。学校の授業は午前中だけなのだろう。「昼食の待つ家へと戻っていく」は自然な日本語である。「雪混じりの泥があちこちに跳ね」も自然な表現であり自然な描写である。「アザラシ革のランドセル」の具体イメージはわかないが、現代語としてはわかりやすい。

「オーディンがかぶるような帽子」の「オーディン」はローマ神であるユーピテルとの対比として適切であるかにも思えるし、ここもその旨、注がついている。

ここの原語は、WotanshutとJupiterbartである。画像検索でわかるものかと思ったが、意外と出てこない。Erich M. Simonの 挿絵があるがここの帽子がそれだろうか。 

Erich M. Simonの 挿絵

英訳文でもここは、the hat of Odinとされているが、私はここは『ニーベルングの指環』のイメージではないかと思う。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ring40.jpg

Wotanはオーディンであるというのは正しいが、こうしたコンテキストにおいて、「ヴォータン」と訳すか「オーディン」と訳すかは難しい。基本的なヴィジュアルのイメージが決めるだろうが、このヴォータン帽子がわからなかった。どなたか、ご存知ですか?

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