情景描写としての訳文の差
名訳として定評のある実吉捷郎・訳と現在もっとも新しい浅井晶子・訳で冒頭以降の、情景描写としての訳文の差を見てみよう。言葉のリズムに合わせて、情景がどのように浮かび上がるだろうか。
「昼飯を目あてに、右腕で舵を取ってゆく」は観念的な表現であり、「氷のまじった汁を四方にはねかしながら」はイメージがわきにくい。「海豹皮の背嚢」は意味がわかるとしても、古めかしい。「ウォオタンのようなひげ帽子」はどうだろうか。
浅井晶子訳ではどうだろうか。
浅井晶子訳では体言止めや倒置構文が覆い。この冒頭「放課後。」も体言止めだが、朗読すると、時間副詞句に聞こえる。こうした文体は私は好まないが、現代の若い世代には向くだろうか。
情景はわかりやすい。学校の授業は午前中だけなのだろう。「昼食の待つ家へと戻っていく」は自然な日本語である。「雪混じりの泥があちこちに跳ね」も自然な表現であり自然な描写である。「アザラシ革のランドセル」の具体イメージはわかないが、現代語としてはわかりやすい。
「オーディンがかぶるような帽子」の「オーディン」はローマ神であるユーピテルとの対比として適切であるかにも思えるし、ここもその旨、注がついている。
ここの原語は、WotanshutとJupiterbartである。画像検索でわかるものかと思ったが、意外と出てこない。Erich M. Simonの 挿絵があるがここの帽子がそれだろうか。
英訳文でもここは、the hat of Odinとされているが、私はここは『ニーベルングの指環』のイメージではないかと思う。
Wotanはオーディンであるというのは正しいが、こうしたコンテキストにおいて、「ヴォータン」と訳すか「オーディン」と訳すかは難しい。基本的なヴィジュアルのイメージが決めるだろうが、このヴォータン帽子がわからなかった。どなたか、ご存知ですか?
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