finelvent読書会 初心者コース。『ジョゼと虎と魚たち』は、読みやすい小説でもない

『ジョゼと虎と魚たち』は、読みやすい小説でもない、と思う。初心者コースなのだから、読みやすい小説であるべきなのだが、とも悩んだ。しかし、ここでいう「読みやすくない」というのは、小説というものの面白さでもあるので、それもいいかなと思っていた。

手短な短編小説だし、複雑な人間関係はないし、複雑な事件も、込み入った伏線もない。そういう意味では、『ジョゼと虎と魚たち』は読みやすい小説である。特に、人物関係で言えば、クミ子と恒夫、しか、いないように先ず思われる。が、よく読むと、祖母は出てくる。クミ子と一緒に暮らしていた祖母である。

そして小説の表面には出てこないところで、クミ子の父と母が言及されている。この父母の存在は、クミ子という人間に深い陰影を与えている、こうした表に出てこない人間の影響の操作というのも、小説の技法である。

言及されている人物はそれだけかというと、恒夫と関係をもった女性たちというぼんやりとした複数の女性があり、これも恒夫に陰影を与えているがむしろクミ子を際立たせている。

名前に関してはそれだけか。そうでもないということろが、この作品の面白さで、これまでクミ子として言及していたが、ジョゼである。クミ子は「ジョゼ」になる。うかうかと読んでいるとどこで、クミ子がジョゼになったのか失念する。だが、それは作者がそう失念させようと目論んでもいるせいだ。なぜ?そこがこの小説の「読みにくさ」に関係する。(おまけでいうと、恒夫は「管理人」になる。)

どこが「読みにくい」のか。時系列である。こんなに短い小説なのに、時系列が、時間順序(chronological order)になっていない。これは、あれ?これは相当に不思議だ!という感覚がこの小説の際立つ魅力である。なぜこんなこと(時間の錯綜)をしているのだろうか?

そこに答えはないというか、答えを与えようとするところに小説を読むことの魅力がある。が、試みに答えよう。一つは、この物語は広義には、「Boy Meets Girl」である。「少年が少女に出会う」という意味だ。「主人公の少年が、少女に出会って恋に落ち、そこから関係が育っていく」ような物語で、若い恋のテンプレである。そしてこのテンプレの失敗は、それを時系列に描き、あたかもある事件で恋が引き寄せられるという構成を取ることの罠である。

私たちは、自身の恋を思う。どこかに出会いがあって、どこかに思いにとらわれる事件があって、そして恋のなかせ世界の色が変わっていく。それはとても凡庸なことで、だが、人は自身にはその物語を、せいぜい2つくらいしか持つことができない(多くの恋をもっている人は劣化コピーを持っているだけなのである)。だが、この大切な思いを、生(生きること)のなかに豊穣なものと変える文学は、だから、その順序の意識に疑念を投げる。かけがえないのない恋が、テンプレの時系列に封印されていいのだろうかと。

『ジョゼと虎と魚たち』は、実は、時系列に描くこともできる。そうなっていない。それは、恋の繊細さをテンプレの意識のなかで異化(あえて異物として提示すること)させている。読者は、この小説を読むとき、読み終えたとき、どこに物語の始まりがあり、どこに恋の奇跡があったか、思い返す。(余談だが、村上春樹の『風の歌を聴け』は当初、時系列に描かれていて、陽子さんにだめだしされ、ポストモダンふうに変えられ、当初の時系列は、『蛍』から『ノルウェイの森』になったのだろう。)

時系列が避けられている、もうひとつの理由は、というか、文学の王道技法でもあるが、この作品は、さりげなく、「意識の流れ」が使われているからだ。これはかなり巧妙に、それとなく、である。なので、「意識の流れ」というほどでもない、ともいえる。それでも、この小説は第三者が語る、少年と少女(言うまでもないが、Girl meets boyでもいい)の物語であるのに、ところが、小説のそこここで、二人の意識のなかに語り手がするっと潜み込む。読者を彼らの意識のなかに忍び込ませるている。これは、ほとんど催眠術に近い。

無粋だが、意識の流れ(Stream of consciousness)を補足すると、それは、小説に表現する思考を、事象・時系列・論理的に整頓して述べるのではなく、印象、感情、連想、など、不合理な意識の働きを生成消滅のままに表現することである。だが、小説なのだから、「生成消滅のまま」ということはない。それでも、小説の叙述の時間の流れは変わる。そもそもなぜそんなことをするかというと、物語によって到達できない物語の本質を描こうとするからだ。では、それはいったい何?というなら、永遠ということである。これを最大限に推し進めたのがプルーストの『失われた時を求めて』である。

さて、もうひとつの、時系列叙述が避けられている理由。本来はこれを先にすべきだった。名前の変化のトリックである。クミ子は「ジョゼ」に変わる。それはいつ? それを巧妙に隠すことだった。なぜ「隠す」のか? そして、その変化は、「虎と魚たち」を引き寄せている。なぜ、「ジョゼと虎と魚たち」なのか? もちろん、そんなことには、いちいち答えなくてもいい。正解もあるわけではない。でも、答えようと試みてほしい。そのことで、この小説の深みが現れるから。

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