finalvent読書会 『嵐が丘』今週は、第8章から第15章

読書会のペースメーカー的には、今週は、『嵐が丘』の第8章から第15章。もちろん、これはあくまで目安です。ぶっ通しで読まれてもいいし、遅く読んでもいい。ただ、ペースメーカーは読み通せるといいなという目安でもあります。

さて、この第8章は…

第8章は、1778年の夏から始まるが、ここからの2年に『嵐が丘』のある種のしかけがあるかもしれない。第7章を振り返ると、ここの回想話は1775年の時点で、この第7章の冒頭では、キャサリンが鶫が辻にクリスマスまで滞在していた。この章ではさらに、クリスマスの話になる。そして、ネリーはロックウッドにこう言う。

「(中略)じゃあ、三年ばかり話を飛ばすことをお許しください。そうこうしているうちに、アーンショウの奥さんは―」

これをロックウッドが押し止める。その結果、ネリーはこう続ける。

「(中略)三年も飛ばさず、翌年の夏から始めるのでよしとしますよ。それは一七七八年の夏、今から二十三年ほど前になります。」

時系列を整理すると、第7章ではクリスマスをもって1775年が終わり、ネリーの時間カウンターは1776年が基準となり、1777年の翌年ということで、1778年になる。ただし、原文では、the next summerとのみ記されている。先の3年は、some three yearsなので、厳密に3年ではないかもしれない。

ネリーが話を端折らないで語る1778年には何があったか? 6月にはアーンショウ家の次世代の跡継ぎヘアトンが生まれる。そして、この年の年末、生まれたばかりのヘアトンを遺して母フランセス(ヒンドリーの妻)が死ぬ。

先の第7章で、「三年ほど飛ばす」として、「アーンショウの奥さんは―」と言いさすが、その先は、「お子さんを産んで病気で亡くなった」が続くはずだったのだろう。ネリーは1歳にもならないヘアトンの養育係になったのでそこに関心を置いているかに見える。ただ、そう考えると、ここに話を端折って隠されるなにかはとりわけないかにも見える。が、先走るが、ネリーはヘアトンの擬似的な母親を自認する心情があり、この心情において、ヘアトンを実際のところ守っている父親的なヒースクリフに対して、嫉妬のような感情を隠している。

さて次の第9章だが、この章は、『嵐が丘』という物語において、2つの決定的な意味をもっている。ひとつは、ヒンドリーが殺害しかけた赤ん坊のヘアトンをヒースクリフが救っていること。ここで、ネリーはヒースクリフの胸中を「復讐をだいなしにしてしまったという、臍をかむような悔しさ」と語るが、これは、ネリーの嘘であろう。ネリーは、錯乱したヒンドリーにヒースクリフが近寄らないように画策していたからだ。ネリーは判断を誤っている。それは先に触れたヒースクリフへの嫉妬だろう。

ここであえて、ライトノベル的な想像をしてみたい。アーンショウ家の当主に未来予知能力があるとしよう。すると、ダメ息子ヒンドリーが次世代のアーンショウ家の跡継ぎの赤ん坊を殺害すると知る。どうすれば、この未来を回避できるか。この悲劇をタイムリープで繰り返しながら、アーンショウ家の跡継ぎの赤ん坊を救う誰かを頼まなければならない。それがヒースクリフだった、と。

そこまでライトノベル的な発想でなくても、アーンショウ家の当主は、本来ならその家を継がせるはずのヒースクリフという名前の子供が死んでも、もう一人のヒースクリフがきっと跡継ぎを救ってくれると信じていたのではないだろうか。ヒースクリフは、荒野(ヒース)の崖(クリフ)というより、そこで受け止めるキャッチャーなのかもしれない。

ネタバレになるが、実際、ヒースクリフは結局のところ、彼が赤ん坊のときに救ったヘアトンを育てて、アーンショウ家を実質、再興しているのである。

第9章のもう一つの決定的な話は、リントン家のエドガーからプロポーズされとき、キャサリンがネリーに語る変な秘密である。

ここは、文学Youtuberという人が13点の翻訳で比較していて面白い。

https://www.youtube.com/watch?v=j4YP0HN2MTo

Nelly, I am Heathcliff! He's always, always in my mind: not as a pleasure, any more than I am always a pleasure to myself, but as my own being.

新潮訳
ネリー、わたしはヒースクリフとひとつなのよ―あの子はどんな時でも、いつまでも、わたしの心のなかにいる―そんなに楽しいものではないわよ。ときには自分が自分で好きになれないのと一緒でね―だけど、まるで自分自身みたいなの。

光文社訳
ネリー、あたしはヒースクリフなのよ―彼はいつでも、どんなときにも、あたしの心の中にいるの―べつによろこびではないわ。あたし自身が自分にとっていつでもよろこびではないのと同じで。そうではなくてあたし自身なのよ―

finalvet訳
ネリー、私がヒースクリフなのよ。彼は、いつでもいつでも、私の心の中にいるの。気に入ってはいないわ。私自身いつも自分が気に入っているわけでもないんだもの。違うの。彼は私自身なの。

ここはある意味、キャサリンの結論なので、さらにこの前段の自己説明が面白いというか、常人の頭では理解できないことを彼女が語っている。

この、キャサリンによる、わけのわからない話の原理は次にある。

I cannot express it; but surely you and everybody have a notion that there is or should be an existence of yours beyond you.

finalvent訳
私は表現できない。でも、確かに言える、あなたもそして誰でも、ある想念を持っている。それは、自分を超えた自分存在があるということ、それがあるべきだということ。

yours は yours bodiesだろう。キャサリンは、一つの魂が、2つの身体に分かれていて、その魂は、世俗の人の魂とことなり、永遠に存在すると考えている。

人間には魂があって、死後も存在すると考える人は多いが、一つの魂が2つの肉体にあると考える、というか、感じている人は、普通はいないだろう。そして、その一つの魂は、肉体に宿っているときは、相手の側に存在していると感じられる。それは、愛なんてもんじゃない。

ここで、ネリーは、結局、こう答えている。「くだくだ”秘密”を聞かされるのは、もうごめんです。秘密を守るとはお約束しませんよ」と。実際、ネリーはここでロックウッドにダラダラと語って、秘密を破っている。

このことは「秘密」なのだということも重要である。この物語の奇妙なことだが、おそらく、この秘密が漏れたことで、キャサリンの霊魂はその罰のようなものを受ける。そして、死後、苦しんで彷徨うことになる(ヒースクリフに愛されていないと苦しむ)。

ここにはある非対称性がある。キャサリンとヒースクリフが一つであっても、それを知るものはキャサリンであって、それをヒースクリフが感じているとしても、知られてはいけないものだった。この規則が破られることで、悲劇が勃発し、ヒースクリフはあたかも悪鬼に変貌しなければならなくなる。

そして、1780年ヒースクリフは立ち去る。

第10章ではロックウッドが間抜けにこう語りだす。ここに「三年」がまた現れる。時系列的には整合しないが、「三年」のキワードでいうなら、先の「飛ばし予定」はここが対応しているかもしれない。

 それにしても、じつに穏やかな休息。体が弱りきって本も読めないが、ちょっとした娯楽がほしい気分だ。ディーンおばさんを階上に呼んで、あの物語を最後まで話してもらってはどうだろう? 三年も音沙汰がないんだ。それから、ヒロインは結婚した。よし、ベルを鳴らしてみるか。

そして、1783年3月、キャサリンがエドガーと結婚。9月にヒースクリフが金持ちになって帰ってくる。

ヒースクリフが3年間でどのように財をなした理由は不明だが、ロックウッドは、アメリカの独立戦争をほのめかしている。アメリカ独立戦争は、1775年4月19日から1783年9月3日なので、この戦争の終わりで帰ってきた印象はある。ただ、ここに深い物語上の謎はないだろうと思う。それを匂わせるパーツもないからだ。作者は物語設定しか関心がないのだろう。

さらにこの第10章では、ヒースクリフの「復讐」の一歩として、リントン家攻略のために、リントン家の娘、イザベラを狙う。第11章ではこの愛憎劇が進展する。が、意外な重要点はヘアトンとヒースクリフの関係かもしれない。第12章では、キャサリンが狂乱する。

第13章は、1784年。2月にヒースクリフはイザベラと結婚するが、彼女は不幸をすぐに自覚する。ここの物語は、イザベラからネリーへの書簡という語りになっている。問題は、これがネリーとは異なる話者としてのイザベラなのか、いまだネリーの語りなのかは、よくわからない点である。おそらく、後者、ネリーの語りであろう。だとすると、イザベラの本当の胸中はわからない。個人的な推測では、イザベラはヒースクリフをずっと愛していただろう。

第14章では、イザベラの窮状を訴える手紙をネリーがエドガー・リントンに伝えるが、無視される。「嵐が丘」に戻るネリーと、イザベラとヒースクリフの対話。ヒースクリフの非道が彼の言葉として語られる(だがこれはネリーの回想)。それを喚起させるように、章末にネリーとロックウッドの対話が現れる。

第15章では、体調を回復してきたロックウッドが、ネリーの話を楽しみにする。ネリーは生気を失っているキャサリンにヒースクリフの手紙を渡す。が、すでにヒースクリフはその場に来ていて現れる。修羅場。圧倒的修羅場。

気になるのは、キャサリンはここで、この世に倦んで肉体を去り、天上に行くことを確信しているが、この願いは果たされず、キャサリンの魂はこの世に残り苦悶しつづける。これがロックウッドの夢にあらわれていたこと。

なぜ、キャサリンは天上に行けなかったかというと、ヒースクリフの赦しがなかったからだが、ヒースクリフもキャサリンの赦しがない・責め続けられると理解していた。

ここから展開する残酷なヒースクリフの復讐劇な、もちろん、復讐劇なのだが、キャサリンへの愛の表現でもあった。他者を苛むことが愛の表現であるというのは、単純に言って、変態、だろう。

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