没原稿 橋本治『恋愛論』

以下、cakes連載ように書いた橋本治『恋愛論』の没原稿です。没原稿なんだから、そのまま捨てちゃうのが正しいのですが、まあ、これはこれで愛着がありあます。

というか、こう書いてみたら、違う、これじゃいけないと思ったわけです。思考過程というか。

正式原稿の元原稿はだいたい書き上がったので、そちらのほうはさらにブラッシュアップして、たぶん、cakesのほうで公開すると思います。

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橋本治『恋愛論』

 橋本治『恋愛論』を再読した。これほど難しいとは思っていなかった。これまでいくつか本を再読し考察してきたが、その際に核となるのは、その本の最終的な秘密が自分なりに直観できたという確信だった。直観に間違いがあっても、明確に自分の身体に凝縮する強度が感じ取れるならそれでいいはずだと思っていた。だが、橋本治『恋愛論』の再読ではそこで壁を感じた。自分の思いや理解に壁が立ちふさがって進めない。恐怖も感じる。恐怖はおそらく直観のあるべき姿を暗示している。恋愛は恐ろしく、暗黒でもある。その恐怖に持ちこたえることは今の自分にはできそうにはない。


前に「恋愛するっていうことは、実は感性的な成熟っていうものが必要なんだ」ってことは言ったけど、感性が成熟したればこそ、感動とか陶酔とかっていう、言ってみれば社会的には自分をあやうくしちゃうものを自分の内部で持ちこたえることができるんだよね。



もうちょっと突っ込んだことを言ってしまえば、人が恋愛をする、恋に落ちるということは、そこで初めて、自分を取り込む”暗黒”というものがある、そういうものがズーっと自分を取り巻いて来ていたんだということを知ることなんですね。


 情けないが、恋愛が恐ろしいということを私が理解したのは、人生の半ばを越えてからのことだ。初読の20代のころの私はその戦慄を十分に読み取っていなかった。時代が暢気だったせいもある。1980年代である。
 橋本治『恋愛論』はその時代に生まれた。1985年11月4日から開始された西武百貨店のコミュニティカレッジの講演をまとめたものである。私は講演を聴いてはいないが、その頃の橋本治について、自分ではファンとしてすっかりわかっている気分でいた。ちょうどその年に出版された彼の『親子の世紀末人生相談』は私の愛読書でもあった。記憶ではこの人生相談は出版前に週刊「プレイボーイ」に連載され、毎週読んでいた。だからこの『恋愛論』も、その時代のなかではすんなりと理解していた気分でいた。そのころ私は大学時代の恋愛を清算し、恋人のいない生活をしながら人生の期待と恋愛をやすやすと混同できた。
 その頃の自分を思い出す。この『恋愛論』は、自分の恋愛から少し離れた位置にあったが、橋本治の生き方には自然に共感できた。彼のような明晰な人生観がもてるなら、その恋愛観も自明なことである。難なく受け容れたつもりになっていた。この本が再版を繰り返して読み継がれた理由にも、そうした種類の共感があるだろう。同時にその共感と理解は、日本の社会と整合しない生きづらさの代弁でもある。
 その生きづらさを突き詰めると、やや乱暴だが、恋愛の本質が取り出せる。その理想的な形は同性愛である、ということだ。多数の人は、同性愛は、恋愛における人の性向だと思っているか、生まれつき決定づけられていると理解している。間違いとも言えないが、すべての恋愛の基本形・理想型が同性愛だろう。むしろ異性愛は、同性愛を人間種の特性から変更・修飾した結果だろう。
 この考えはプラトン哲学からはごく自然なものだ。恋愛とは、美と精神の融合への渇望であり、性を問わない。性の魅力そのものではない。魅力や異性への性欲は、生殖への欲望を社会制度のなかで「汚辱」を構造化させたものだ。でなければ、なぜ生殖器は排泄器に隣接しているのか。
 だが、性の欲望と社会制度への馴致には、他者の美とその精神の融合への渇望が重なるように潜んでいる。そこに恋愛がある。その渇望の純化は性差を超えたものとして同性愛にも異性愛にもなりうる。橋本の『恋愛論』が性交を排除し、そして実質同性愛を描いているのもそのためだろう。
 人が恋愛に遭遇してしまったら、あとから同性愛だったとわかることもあるということだ。そして、いずれ恋愛であれば、軽く生死を賭けるほどの重要な事態になる。その意味で、この『恋愛論』はその遭遇を人生として与えられた人間の探検記としても読める。忌憚なくその内面が語られ、その直接性がなによりも彼の魅力である。
 恋愛とはそういうものなのだ。だから、「同性愛に陥ることはない、不倫などもすることはない」と安閑としていられる人にとっては、この恋愛論はそもそも何を意味しているかわからないだろう。また、同性愛や不倫を恐怖として見る人にも、この本は読みづらい。正直に言って、今の私がその後者である。そう自覚することに奇妙な困惑を覚える。この『恋愛論』から見捨てられたようにも感じられる。
 なぜ私のような怯えた読者は見捨てられるのか。諦観が理由だ。私は、恋愛は、現実にはただの不運だとしか考えていない。恋愛にぶち当たってしまったら、隕石に当たって大怪我をしたように、残念でしたね、という類のものだと考えている。受け身として捉えている。
 橋本は恋愛というものを私のように受け身や不運とは考えていない。「自分で勝ち取るものだ」とうたい上げている。人間の成熟によってもたらされるものだともしている。恋愛の生き方をきちんと肯定している。恋愛の相手が、同性であろうが既婚であろうが関係ない。
 私はそれを羨ましいと思いつつ、橋本の恋愛論に異論ももつ。橋本の恋愛への主体的な姿勢は、「美」の魅了を覆い隠しているように見えるからだ。私が恋愛を不運とするのは、美に魅了され呪縛された人間の惨めさ知っているからだ。なぜ橋本はそこを見ないのか。
 橋本の考えの背景にも「美」の魅了という圧倒的な受動性があるはずだが、彼は「美」の受動性より、やはり主体意識を強調している。つまり、恋愛の存続は自ら「陶酔できる」能力として捉えられている。


 話は前に戻りますけど、恋愛に必要なのは陶酔能力だっていう話ね。人間ていうのは普段社会生活っていうのを営んでいて、それが為にガードっていうものは必要なもんなんだけど、陶酔能力っていうのは、それとは真っ向から対立して、相容れないもんだからね。普通の生活のなかで人間が突然ドロドロに溶けちゃったら困ったことになるけど、陶酔能力っていうものはそういうものなんだもんね。そんなもん前回にしたらテキメン社会生活不適応者になっちゃうけど、でもそれがなかったら、他人との親密なる関係――要するに恋愛だけど、そういうものって出来なくなるでしょ?




 愛されたいんだったら、自分でも自分を愛さなくちゃいけないんだよ。それをしないでいきなり他人を引っ張り込むから、恋愛というのは永遠に不毛なんだよ。



 橋本の『恋愛論』では、主体を持ち、感性の成熟の達成となる恋愛が描かれている。正しい恋愛論だと思うし、恋愛を生きる支えの思想ともなっている。しかし私は無理だと思う。美に魅了されて、すべてを失うことに恐怖を感じ、それでいながら魅了されたままでいるからだ。あるいは、精神の融合を他者に見いだしうることを望みながらも、その絶望に自堕落な安寧を見いだしているからだ。私を理解する人などこの世にはいないだろうし、私がそのすべてを理解したいと思えるような人もいないだろうと、暢気に絶望しているのだ。
 私はこれでいいのかと何かに問われているように思う。橋本には他者の生き方を断罪するような重苦しさはまったくない。付いてこない読者は無理なく置いていく。そこにうら悲しいような思いも残る。
 文庫きんが堂の復刻の帯で糸井重里は「若いときにも泣いたけど、いまでも、やっぱり泣いてしまう。」と書いているが、その感性が羨ましい。この恋愛論に泣けるような生き方を、後年の人生にまで維持できることが羨ましいのだ。私はそうできない自分の情けなさのほうに泣けてしまう。
 だがもしかすると、この論の復刻と再読の意味は、むしろそういう私のような、人生後半に諦観に至った人間にとってあるかもしれない。
 本書は意図的に、性交に至る恋愛を拒絶して書かれている。青年期の同性愛的な個人経験が語られているのもそのためだが、性交への関連が恋愛の本質ではないことが直観されているからでもある。
 だが逆に、本書の恋愛論は、性愛の手前にあるというより、性愛の向こう側にあるのではないか。性としての役割を終えた人間が、後半生のなかで恋愛を見つめ直すように読まれてもよいだろう。その微妙な戦慄の感覚に向き合いながら読み直されても。


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