finalvent読書会 『ゴリオ爺さん』最終週! ここで問われている大きな倫理的課題

finalvent読書会 『ゴリオ爺さん』最終週です。思わず、最終週!と言いたくなる爽快感があると思います、ここまで踏破されたかたは。この作品、まさに、序破急という感じで最後にグイグイくるところがよいです。

というわけで、最終週、つまり第4章まで読み切れたかたは、最終週の完走はたやすいでしょうから、あらすじなどの補助はありません。

私自身はというと、まさか自分の人生この時期において自分が娘との関係において「ゴリオ爺さん」になろうとは、とほほと、いう経験をしているので、まあ、他人事じゃねーよ、です。自分の娘の思い、葛藤、現実それをぜんぶゴリオが引き受けてくれているので、感情没入ですね。文学というのは、若い時に読めばいいというものじゃないというのが、がつんがつん来ます、といって、別段、娘をもった老男でないとこの作品がわからないというものでもないでしょう。というか、多様な人生を送った人の多様な人生に、世俗の人生の総体というものが、ぐいぐいくる作品だと思います。

とかいいつつ、バルザックの、このインテリというか知的な人生をぶちのめしにかかってくるおっさん臭さもたまりません。ヴォートランは当然。そしてゴリオもそうです。ゴリオはいい年なのに、銀食器をぐわっとたわめる怪力。なんかも、そばにこんなやつがいたら、匂い立って来るようなおっさん。そして、彼らのぐいぐいくる人間関係への力。これは愛なんてなまっちょろいもんではない。

それはさておき。この作品の本質は何か?という真面目くさった話も、もうしましょう。もちろん、この古典作品、おそらく人類が残す10個の小説があれば、楽勝でノミネートされるだろうこの古典作品は多様に読み取れるでしょう。そんなことは当然ですが、それでも、作品構造が示すものは読み解いてもいいでしょう。それは何か?

第4章で追い詰められたラスティニャックはこうつぶやく。

「もやはそこでケチな罪を犯すほかないのだ!」 彼はひとりつぶやいた。ヴォートランのほうが立派だ。ラスティニャックは社会を大きく三つの表現で捉えていた。服従、逃走、そして反乱。あるいは家族、世間そしてヴォートラン。そしてどれを選ぶか迷っている。服従するのはつまらない。反乱を起こすのは不可能だ。闘争はどうなるのかも不確かだ。
-- Il ne s'y commet que des crimes mesquins ! se dit-il. Vautrin est plus grand. Il avait vu les trois grandes expressions de la société : l'Obéissance, la Lutte et la Révolte ; la Famille, le Monde et Vautrin. Et il n'osait prendre parti. L'Obéissance était ennuyeuse, la Révolte impossible, et la Lutte incertaine.
(試訳: 「あそこではちょっとした犯罪をするしかない!」彼は自分に言った、「ヴォートランの方が偉大だ。」
彼は社会の三大表現、すなわち、従順、闘争、そして反乱。つまり、家族、世界、そしてヴォートランを見てきた。そして、彼はどの側につくこともできなかった。従順は退屈で、反乱は不可能で、闘争は不確実である。)

 バルザックはここで社会を3つに捉えている。

従順 l'Obéissance = 家族 la Famille
闘争 la Lutte = 世間 le Monde
反抗 la Révolte = ヴォートラン

 バルザックは明示しないが、ヴォートランには闘争の要素があり、ゴリオにも闘争の要素がある。そして、ここでいう闘争=世間は、社交界の意味でもある。
 つまり、ラスティニャックは、田舎の家族との幸福は捨て、ゴリオ的な家族愛も超えて、そしてヴォートランのような反社会にも与することができないのに、いまだ、闘争=社交界に躊躇している。
 このつぶやきに続けて、ラスティニャックは、まず、家族を思う。だが、そこで自身に転機が生じていることを知る。「すでに彼という人間の基礎形成は終わりつつあった。彼の愛しかたはすでにエゴイストのそれだ。」
 つまり、『ゴリオ爺さん』という物語は、ゴリオ(不正)とヴォートラン(反社会)、そして恋愛を契機に次のような、新しい市民社会の像を肯定するところにある。

 家族愛 ⇨ 反抗的自我 ⇨ 社会的闘争の肯定

 この肯定にあるのは、ひとつのBildungs(ビルドゥングス=成長)の成果でもあるが、ゴリオとヴォートランによって示される倫理・価値の問題でもあり、それは、端的に言えば、ゴリオの父性と、ヴォートランの同性連帯(フラタニテ)であろう。

 フランスという国の理念は、日本では軽薄に、「自由・平等・博愛」とされるが、Liberté、Égalité、Fraternitéであり、博愛はフラタニテである。同性愛的連帯である。が、さらに、この国が、Marianne(マリアンヌ)として、聖母マリアと、その母の聖アンヌという血統の象徴をもっているが、この血統原理は、実際は、父性の倫理によって担保されている。そこをこの小説は端的にゴリオのセリフで表している。

父親が足蹴にされているようでは、この国は滅びるぞ。それは明白だ。社会は、世界は、父性愛という土台の上で回っているんだ。子供が父親を愛さないようでは、すべてが崩壊する。
La patrie périra si les pères sont foulés aux pieds. Cela est clair. La société, le monde roulent sur la paternité, tout croule si les enfants n'aiment pas leurs pères.
(父親というものが足元で踏みにじられれば、祖国は滅びるだろう。これは明らかだ。社会、世間、父性の上で回っているものだ。子供が父親を愛さないなら、すべてが崩壊する。)

これらの父性を社会原理として打ち出す倫理は、バルザックの市民革命後にあってなお、古臭いものに感じられただろう。だが、おそらく、この意図はその表層にはない。物語を通して語られるのは、ゴリオという父性の死、というより、死体の埋葬のありかたにある。つまり、ここでの要点は、ゴリオという父性の死体をフラタニテとしてのラスティニャックが埋葬するところにあり、その倫理そのものが、社会への闘争の起点となることだ。

これは、フランスの思想家ジャン=リュック・ナンシーの『無為の共同体』の主張に近いと私は思う。

フランス革命を経た近代社会は、一見、共同体の解体と市民主体の自立から始まったかに見える、が、その到着したところは、全体主義=ファシズムといってよく、これらは、歴史の誤りというより、必然的な帰結であっただろう。なぜなら、近代市民社会では市民という個人の生は死をもって完成される。だから、ここでの哲学は、個人の死の実存限界と個人の意味として問われる。あるいは、社会正義を介した共同体への屈服・犠牲となる。だが、ナンシーはここで、他者への露呈のいて情熱がある、とする。この論の展開は割愛するが、ようするに『ゴリオ爺さん』における他者との熱い関係そのものだろう。ここで人々は共同体の関係性のなかで情熱を剥き出しにする。

そしてその結末は、『ゴリオ爺さん』の結末でもあるが、つまるところ、市民は一人では死ぬことができないことに至る。それは、死の理念化ではなく、死体は共同体の他者が埋葬という形で引き受けなくてはならないという倫理の形である。

ナンシー哲学のキーは、「分有(partage)」とされ、多く解読が試みられるが、私はこれをこのように、埋葬者の倫理として捉えてよいだろうと考えるし、『ゴリオ爺さん』の究極的なテーマは、この明瞭な提示であっただろうと見る。フランス革命という痩せた言説の戦場にあるものたちに対しても、ラスティニャックは挑むのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?