第8章は、デンマークの「オールスゴード」(Aalsgaard:Ålsgårde)のホテルでの話になる。Ålsgårdeは、デンマークのジーランドの北海岸にあるかつての漁村で、ヘルシンゲルの北西6kmに位置している。現在は隣接するHellebækの町と合併している。この地は、前章で『ハムレット』で示されたクロンボー城と近接していることで選択されているのだろう。なお、クロンボーグ城はデンマークのヘルシンゲル古城であり、現在はユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
この場所の設定は、端的に小説での機能としてみるなら、『ハムレット』がそうであるように幽霊の登場のためであろう。かくして、ここでトニオ・クレーゲルは、亡霊としてのハンスとインゲに出会う設定が仕組まれる。
原文では、「ハンス」以降は次のように隔字体になっている。
現代の印刷によってはイタリックになっている。浅井訳ではここでは傍点を付しているが、Kindle版の実吉訳はダッシュで囲んでいるだけである。植田訳では特に表記の工夫はされていない。
このハンスとインゲは、トニオ・クレーゲルの認識による、いわば亡霊であり、ハンスとインゲその人たちではない。この点について、浅井晶子訳ではかなりの工夫が盛り込まれている。この点について浅井は訳者あとがきでこう説明している。
一見、浅井訳が踏み込んだように見えるが、原文は、「Sie waren es」であり、「彼らはそれだった」を、各訳者はそれぞれに異なる踏み込み方をしている。
とはいえ、ここの訳文解釈で、インゲとハンス本人という読みになることはないだろう。北杜夫も実吉訳から次のように読んでいる。
だが、文学的な解釈としては、ハンスとインゲに似た人から、ハンスとインゲそのものの亡霊とハムレットの地で遭遇したと理解してよいだろうし、この第8章はいわは、自由間接話法の極限において、この世界に写し取られたクレーゲル自身の幻想世界と読んでいいだろう。
また、そのように読むことで、つまり、自由間接話法の無時間性によいて、第1章、第2章の回想的時間の叙述に接続する。
だからこそ、終章、第9章のなかで、彼はこう言う。
この未生の「茫洋とした世界」が、無時間性の叙述で生み出された幻想の世界であり、その幻想の回帰のなかで、トニオ・クレーゲルは再生する。また、そのような回帰の言葉を受け止めなくてはならない、エリザベータは、再生の「母」であるとも言えるだろう。