読書会『バートルビー』3/27Spaceの編集書き起こし。後編・課題図書『バートルビー』

読書会『バートルビー』3/27Spaceの編集書き起こし。後編・課題図書『バートルビー』

さて、話は今回の課題読書『バートルビー』に移ります。なぜバートルビーなのかと。これは簡単な話で、非常に面白いからです。文学的に非常に面白い。日本の純文学といった含みなしで、かなりド・ストレートに文学的に面白いのです。さらに、短編なので、それほど長編小説を読みこなせない人でも読めてしまう。

現代思想的にもこの作品は定番的な話題にもなっている。ドゥルーズなんかも取り上げています。21世紀的批評の中で、『バートルビー』はかなり再評価されている。それまでは、この短編は、ハーマン・メルビルの『白鯨』の後の小品といった文脈で取られがちでした。

しかし、現代の不合理な、善意の全体主義的なコロナ対策規制とかのなか、こうした現代の状況で、その中で、またあらためて『バートルビー』を読む。面白い。やはり面白い。多分、この状況下で、読まれた方、みんな面白いと思うでしょう。

『バートルビー』は文学として面白く、現代的にも面白い。それは、この作品の、わけのわからなさが強く関係している。文学の中では「カフカ的」とも言えますが、残念なことに、「カフカ」自体がもうそんなふうに代名詞化されちゃって、『海辺のカフカ』みたいに去勢されてしまう。『バートルビー』はカフカの先駆的な作品とも言われるんですけど、その不条理劇は、再読しても、どうにも「カフカ」的というだけでは、落ち着かない。ゆえに、多様に読める。

「多様に読める」っていうことは、「わけがわからないけど面白い」っていう力を未だに秘めているということです。なので、これを読書会でも取り上げたい。短編なんで、読書会を進めていく点では、まあ1週間ぐらいがいいかな。読まない人がいて、読まなくていいかな、という風に思います。

この作品、読まれた方は、ある程度文学的な感覚を持ちかつ、それをなんか心の中に響かせて語りたいっていう人だったら、心にぐさっとくるんじゃないかと思います。ただし、この文学の中心的な課題であるエモーションには、エロスの動きっていうのはないんで、そこはちょっと、エロス的な力の文学とは違う系統かなと思います。個人的には現代っていうか、人間の阻害された時代の人間っていうものを何が打ち破るかっていうと、やはりエロス的なものの復権じゃないかっていう風に思ってるんで、ちょっとこの辺はね、この短編だと物足りない。だから、村上春樹なんかエロスや暴力の揺さぶる力を意図的に考えてますけど。

純粋に形式的に文学を見ていっても、『バートルビー』は面白いのです。前回の読書会で『トニオ・クレガー』をやったんですけど、この作品、それほどは大した作品じゃなくて、どちらかというと、形式が技巧的できっちりとした小品です。お手本的な作品ですね。現代国語に載せてもいいよなっていうか。ですが、その点で今回読み返してみると、僕は基本的に文学をどちらかという言語学で見ちゃうくせがありますが、やはり非常にフォーマルでリジットな作品でしたが、特に「語り」の重層性を応用して、かなり深いレベルまで形式的に分析できる面白さがある。これも文学の面白さです。つまり、一般的に『トニオ・クレーゲル』は情緒的な作品であるとみられますが、形式的な作品としてもとても面白かった。

『バートルビー』も形式的に面白い。やっぱり「テリング(telling)」っていうか、ナレーションの面白さが際立ちます。この点で、今回の読書会的な意味で提起したいのは、ナラティブっていうか、ナレーションの妙です。この『バートルビー』という物語ってのは、誰が語ってるのかという視点が重要なのです。

文学では、語り手の嘘っていうか、偽の語り語り手、嘘の語り手、が重要な関心になります。作者メルビルは明らかに信用できない語り手として、この物語の語り手を意識的に作っています。それがどこで現れるかというと、バートルビーを語る弁護士事務所の主人です。彼は、自分をこういう人間だという風にぺろぺろぺろぺろと軽薄に語ってるんですよ。ところがこの語った自分というものと、自分が描き出した自分に明白なずれがある。その明白なズレから、語り手もその良心の痛みみたいなものを感じてるにも関わらず、ぺろぺろぺろぺろ語り出す。この軽薄な人間である語り手によって語られているバートルビーなのですが、奇妙なことによって、語られたバートルビーによって、語り手が批評されているという構造がこの小説には仕組まれています。語り手の嘘は、語られるバートルビーによって明らかにされてる。語られた内容の真実性ではなくて、嘘として語られたバートルビーに逆説的に、語りを超えたリアリティーが現れるという仕掛けを持っています。この構造から、読み手がドキッとする部分があります。文学的な衝撃とも言える箇所です。ちょっとネタバレっぽいんですけれど。それはこうです。

不可解に、そしてわけのわからないバートルビーがいて、結果的にこの奇妙なテリングの構造のしかけによって、誰もが、読者を含めて魅了されています。しかも、話者は自分の自己矛盾、自己基盤の危うさまでもが、バートルビーという存在によって暴露される。その緊張の、まさに頂点の中で、バートルビーが問いかけるのです、「あなたはこんなこともわからないのですか?」 ここで、読者も問いかけられ、衝撃を受けるのではないですか。

バートルビーの中の世界においては、この世界は整合的にできていると言うのです。またそのことを、話者も衝撃を受けている、という面白い小説の構造をしている。当然ながら読者としても、「こんなこともわからないのですか」と言われ続けるわけです。ここで我々は、この文学の力にすっかり囚われているのです。「こんなの、わからなきゃいけないものなのか?」と拒否したいと思うかもしれません。しかし、もうできないのです。読者はもう引き込まれるわけですよ。しかもこの、ある種泥沼のような、微妙な苦痛こをが純文学の甘美な体験です。

さらに加えて、この作品が非常にトリックフルで、かつ現代的で、ある意味でポストモダン的なのは、「わかるべき」なにかに偽の答えが用意されていることです。それが、 Dead lettersです。こんなのは、これはちょっと文学的な関心のある人なら、仕組まれた嘘だとわかるはずです。偽の答えが、しらじらと与えられていることによって、この作品がますます。わからなくなってるという面白い効果がここにあります。

このなんとも胡散臭い世界は、まさに、「現代批評」という偽の答えをも暗喩しているのです。現代批評的なバートルビー解釈、それ自体が胡散臭さくされてしまう。「ああ、また新しいDead letterをお作りなのですね、批評家先生!」

なぜこんな影響が生じるかというと、バートルビーのリアリティが圧倒的に強く、我々読者もその力に屈服しているからです。

現代の小利口な批評家が、バートルビーを引き合いにして、「あのウォール街に表象される現代資本主義による人間疎外」みたいなことを語るとたに、「ああ、その読みはおばかだな」とわかるようなトリックがこの小説には仕掛けられるっているのです。この小説の語り手のような醜態をさらさざるを得ない。バートルビーの中から教訓を読もうとしたり、3行でまとめてくれみたいなことを願ったりする、救いようのない現代的な軽薄さに、この作品は批判を与え続けます。このあたりが、一巡回って、『バートルビー』の面白さです。って言うと、それまた嘘になるっていうんですか。そういう意味でも、この作品を読むという、しかも短編で簡単に読めて、おそらく何度も読みたくなるような仕掛けがこの作品にはあります。この読書体験は、非常に面白い体験だと思います。

似たような仕掛けでいえば、この作品前半のある種の「くだらなさ」、それと語り手の軽薄さ、さらに、登場してくる人物がいつもこいつも馬鹿じゃないのかなみたいな、凡人っていうか、平凡な人間っていうのはこうも薄ら寒い存在なのかという、不愉快な喜劇があります。こうした浅薄さがこの作品の表層においてもしっかり描かれています。恐ろしい作品なのです。こういう言い方は自分でも啓蒙的で臭いんですけど、厳かに真理を語る、スマートに真理を語る、感動をお安く配布する、なんていうのは、くだらない文学作品なのです。

最後にちょっと、なんで『バートルビー』を課題図書に選んだのかっていう話をします。自分のバートルビー体験です。私が大学生の時、ちょうど20歳の時ですね、授業でアメリカ短編集、あのペンギンブックスの中のアメリカ短編集っていうのがあって、カポーティとかアンダソンとか色々入ってるんですけど、その中にこれが載っていました。メルビルの代表短編だから載っていたというのもあるのでしょう。で、この英語、日本の普通高校を卒業した日本人20歳が読めって言われても、読めるわけはないです。僕は読めませんでした。同級生のネイティブに近い子もなんか読みづらいとか言ってましたが、他方、ネイティブ自身は面白がってました。私は当時、けっこう苦労して原文を読んだ覚えがあります。あれからそんなに英語力は上達してないし、これを原文で読むだけの力は今もないんです。読書って、ある程度リズムっていうか、速度が必要ですから、この作品を日本文学を読むように読むっていうほど僕に英語力ないんですよ。それでもまあ、原文について色々思うことあります。で、なんで原文の話をしたかっていうと、この『バートルビー』をどう翻訳するかっていうのは、なかなか翻訳者にとってね、非常にチャレンジングな誘惑なのです。

『バートルビー』の邦訳例として、柴田元幸先生が訳されてるののリンク先を読書会のnoteの方にあげましたが、あれは、放送大学の教材がたまたま削除されず残って、放置されてほ公開されてるんでしょう。たぶん、柴田先生の本に再収録されていると思います。著作権的にはあれはどうなってるかよくわかんないんですけど、公開はされていますし、簡単に入手して、無料で読めます。という話をしたのは、柴田先生の翻訳は優れているのですが、自分でも意外なんですけど、なんかこの翻訳は違うかなっていう感じはありました。

『バートルビー』は現在、比較的有名というか、この10年間っていうのか、全世界的にも関心持たれてるんで、翻訳も増えています。日本にも翻訳は何種類かあります。基本的には、読書会では、光文社の訳を使おうと思ってます。光文社訳はプレーンでいいんですけど、それでも、これもなんか違うかなという引っかかりがありますね。

この引っかかりが最終的に強烈に現れるのは、作品の最後の最後の1文字です。これは、ちょっとさすがにネタバレなんで言わないんですけど、この一語をどう訳すかっていうのに、翻訳者の技量の全てが問われるような感じがします。

ところで、この『バートルビー』はこの1週間で終わって、次はバルザックの『ゴリオ爺さん』にします。これ、ちょっときついんですよ。でも、ちょっときつくやっていこうかなと思います。こういう言い方はよくないんですが、本当に強い読書人と読書会が持てる幸福を希望しています。難しい作品にもだんだん取り組みたい。やっていけるのか? こういう時、自分の経験から言うと、自分が折れない限りは続くので、まあ、どこまで僕が維持できるか、臭い言い方をすると、文学がもう一度僕を魅了してくれるかどうかに挑戦したいです。


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