finalvent読書会 『嵐が丘』今週(6/12〜)は、第15章から第21章

読書会のペースメーカー的には、今週は、『嵐が丘』の第15章から第21章。先週は数え違いをして、15章まで入れましたが、今週(6/12〜)でした。

『嵐が丘』の現在の読書でやっかいなのは、主要な新訳の1つ光文社版が上下巻に別れ、上巻は14章までで、15章が下巻の1章になることです。ここでは、一般的な通し番号で考えるので、

  通し章番号 = 光文社下巻の章番号 + 14

としてください。

とはいえ、この光文社の上下巻の2巻構成は、『嵐が丘』原作初版の2部構成を踏襲しています。しかも原作初版では、冊が変わると章立てがリナンバーされています。

で各章を見てる前に。この後半からの物語は、いわゆる「嵐が丘」のヒースクリフとキャサリンの物語が復讐劇に転じていく、ヒースクリフの狂気みたいに扱われますが、小説構造としては、ヒロインがキャサリン2に変わる物語で、あとで書いちゃうのですが、前半が1つの魂の分裂の物語、後半が分裂した魂が1つに戻る物語なんです。この奇妙なほどの対称性は、物語の入り口に3章分今語りがあり、物語の出口にちょうど3章分今語りがある構造でも示されていた、『嵐が丘』は奇妙な数学パズルのような謎をもっています。

では、各章へ。

第15章では、体調を回復してきたロックウッドが、ネリーの話を楽しみにするところから始まる。ネリーの語りに、小休止が付いた形式になっている。ここが上下巻の折り返しでもあるからだ。

ネリーが語る過去の物語では、ネリーは生気を失っているキャサリンにヒースクリフの手紙を渡す。が、すでにヒースクリフはその場に来ていて現れる。修羅場。圧倒的修羅場。

気になるのは、キャサリンはここで、この世に倦んで肉体を去り、天上に行くことを確信しているが、この願いは果たされず、キャサリンの魂はこの世に残り苦悶しつづけることになる。これが物語の初め、ロックウッドの夢にあらわれていたこと。

なぜ、キャサリンは天上に行けなかったかというと、ヒースクリフの赦しがなかったからだが、ヒースクリフもキャサリンの赦しがない・責め続けられる、と理解していた。ここから展開する残酷なヒースクリフの復讐劇、もちろんそれは復讐劇なのだが、キャサリンへの愛の表現でもあった。他者を苛むことが愛の表現であるというのは、単純に言って、変態、だろう。

第16章では、18歳のキャサリンは、娘キャサリン(同名)を産んで、死去する。ここにこの小説の典型的に奇妙な謎がある。なぜ、キャサリンの娘がキャサリンなのか? なぜ同名なのか? 第17章では、ヒースクリフは彼女を「キャシー」(愛称)で呼んでいる。このため、『嵐が丘』では、母キャサリンで、娘キャシーとされるが、この同一性と愛称はヒースクリフに由来している。

また、この章では、ネリーが気になることをロックウッドにこう問いただしている。

新潮訳
「キャサリン様のような方たちは、むこうの世界で幸せになれると思いますか? ロックウッド様? あたし、どうしても知りたいんですけど」
 わたしはディーンおばさんの質問に答えるのは御免願った。どうも異端の匂いを感じたからだ。
「こうしてキャサリン・リントンの生涯をたどってみますと、あの世で彼女が幸せとは思えない気がするんですよ。でも、彼女のことは創造主におまかせするしかないんでしょうね。」

原文
Do you believe such people are happy in the other world, sir? I'd give a great deal to know.
    I declined answering Mrs. Dean's question, which struck me as something heterodox. She proceeded:
    Retracing the course of Catherine Linton, I fear we have no right to think she is; but we'll leave her with her Maker.

 新潮訳はかなりわかりやすく訳出している。光文社訳でも同箇所は「異端の匂い」としていて新潮訳との参照が感じられる。問題はここの含意であるが、おそらく新教から旧教への感覚ではないだろうか。ただし、『嵐が丘』は長老派の批判もある。

 いずれにせよ、ごく単純に考えれば、キャサリンは天国に行けないために、この地上に転生していると見ていいが、この転生については、その身体はキャサリンの娘だが、精神は幽霊となってこの地上で苦しみ続けている、という設定だろう。この点についても、同章でヒースクリフに語らせている。

「(中略)そうだ、過去にも幽霊たちはこの地上をさまよってきたじゃないか。いつまでもそばにいてくれ―どんな姿でもいい―俺をいっそ狂わせてくれ! おまえの姿の見えないこんなどん底にだけは残していかないでくれ!ちきしょう!どう云えばいいんだ!自分の命なしには生きて行けない!自分の魂なしに生きていけるわけがないんだ!」

第17章は、通解では、ヒースクリフの復讐劇が始まる。ヒースクリフは、妻にしたリントン家の娘イザベラを暴行し、一端「鶫が辻」に戻るものの、さらにイザベラはロンドンへ逃げる。そこでヒースクリフの子供を産み、リントン・ヒースクリフと名付ける。

ここでまず注意したいのは、リントン・ヒースクリフは、洗礼名がリントンであること。ヒースクリフは家名になっている。

そして、この名前も含めて、イザベラはヒースクリフに復讐を行っている。その第二弾はヒンドリーを絶望の死に追い詰めること。

ここでの物語をネリーの語りを通して見ると、いかにもヒースクリフが残酷で非人間的に見えるのはしかたがないが、イザベラとヒースクリフの愛情関係も加虐・被虐の変態的なものにも見えるし、ヒンドリーは単に自滅にも見える。むしろ、ヒースクリフは、彼がなすべきことをただきちんとなしているだけかもしれない。そう思わせるのは次のヘアトンへのつぎの言葉だ。

「やあ、俺の坊や、やっと俺のものになったな!この木はほかと違ってまっすぐ育つかな。風が吹いてねじ曲げようとしても。ま、ひとつ見てやろう」

第18章、ここで時間が13年、リープする。キャシーは、エドガーの元で13歳になる。また、イザベラは病を得て、リントン・ヒースクリフをエドガーに預ける。この間、キャシーは野生児のように育てられたヘアトンに出会う。

第19章では、リントン・ヒースクリフが「鶫の辻」にくる。キャシーは、同年代の親族に会えて喜ぶが、リントンはひ弱で陰気な少年となっていた。

ここで、ようやくヒースクリフが動き出す。リントンを息子だからとして取り返す、というのだが、ヒースクリフは自分の実の子供には、道具として見る以外に関心がない。

第20章と第21章では、ヒースクリフの陰謀が動き出す。

リントンとキャシーを婚姻させることで、復讐を兼ねてリントン家「鶫が辻」を奪う。と、されているが、ヒースクリフが結果的に行ったことは、没落すべき二家をその正統に継がせるための行動であり、むしろリントン・ヒースクリフは正統ですらない。

第21章では、さらに時が3年進み、キャシーは16歳となり、ヒースクリフに向き合う。この「3年」は上巻のヒースクリフの沈黙の3年に呼応している。

またここで面白いのは、ヒースクリフへの対抗心が彼女の恋情を燃えさせることで、ロマン主義のある種の諧謔的テキストにもなっていることだ。

そもそも、ヒースクリフは悪人なのだろうか? キャシーはヒースクリフの陰謀の手に落ちているのだろうか? 

ヒースクリフとキャシーの対決で彼が言うのはこれである。

「うわっ、ちくしょう、やめろ! キスが余っているなら、リントンにしてやってくれ、俺にしたって溝に捨てるようなものだ」

ここには、キャリンがエドガーの妻となったことへの、ヒースクリフの歪んだ後悔の回想が隠されている。もはや、ヒースクリフの魂は死んでいるも同じで、その後悔の回復は、ヘアトンがキャシーの愛を獲得することしかなく、そのとき、ヒースクリフは魂とともに肉体も死ぬほかはなくなる(ネタバレ的)。

さらに俯瞰すると、ヒースクリフとキャサリンの物語は合一から分離に進行し、ヘアトンとキャサリン(キャシー)の物語は分離から合一に進行する。そして、この2つの運動に対する物語の文章比率は同じになっているので、ヒースクリフとキャサリンの物語を中心に考えると、非常にバランスのわるい物語のように勘違いしてしまう。

おそらく、エミリー・ブロンテは完璧な物語を書いている。数学的に完璧というべきだが。で、我々はこの数学問題が十分に解けないでいる。理由は簡単で、私たちは、魂の合一の感覚を忘れいているからだ。

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