夕顔は自身を海人の子だと言う

光源氏が夕顔に名を問うと、「海人の子なので」というふうに答える。瀬戸内訳では「〈海人の子〉なんですもの」とあり、注がつく、が、それに対する光源氏の答えには注はない(あるべき)。ここはさすがに、原文が生きるところだなと思った。なお、谷崎源氏には両歌の括弧注があるが、解説はない。

箇所はここ。

「尽きせず隔て給へるつらさに、あらはさじ、と思ひつるものを。今だに名のりし給へ。いとむくつけし」と宣へど、「あまの子なれば」とて、さすがにうちとけぬさま、いとあいだれたり。「よし。これもわれからなめり」と、恨みかつは語らひ、暮らし給ふ。

(「尽きることなく心隔ていらっしゃるつらさに、表にすまい、と思っていたが。今こそお名のりください」とおっしゃったが、「海人の子なので」と、さすがにうちとけないようす、とてもはにかんでいた。「いいですよ、私のせいです」と恨みがましく語り、暮れるまでお過ごしになった。)

夕顔の歌は、新古今和歌集・第十八・雜歌下1703の
  よみ人知らず、題知らず、
白波の寄する渚によをすぐす海人の子なれば宿も定めず

もあるが、時代的に新古今和歌集のはずもなく、和漢朗詠集721の「遊女」の源順の「和琴緩調臨潭月 唐櫓高推入水煙」に続く、

しらなみのよするなぎさに世をすぐす
 あまのこなればやどもさだめず 海人詠

のほう。そして、光源氏のほうは、古今集恋五(807)とされる。

 あまの刈る藻に住む虫のわれからと音をこそなかめ世をば恨みじ

だが、これは、伊勢物語65の次にも対応している。

かかるほどに、帝きこしめしつけて、このをとこをば流しつかはしてければ、この女のいとこの御息所、女をばまかでさせて、蔵にこめてしをりたまうければ、蔵にこもりて泣く。

  海人の刈る藻にすむ虫のわれからと音をこそ泣かめ世をば恨みじ

と泣きをれば、このをとこ、人の国より夜ごとに来つつ、笛をいとおもしろく吹きて、声はをかしうてぞ、あはれに歌ひける。

問題は、夕顔と光源氏の会話が、その際の古典的な知識の対応だったのか、である。もちろん、源氏物語という創作のなかだが、その自然性は問われるが、もっと自然な背景があったのではないか。

気になるのは、鎌倉期だが『海人の刈藻』という物語である。ニッポニカより。

鎌倉後期に改作された物語。4巻。原作は平安末期に成立したらしく、『無名草子(むみょうぞうし)』『風葉和歌集』にその名がみえるが、散佚した。故兵部卿(ひょうぶきょう)の宮の次男三位(さんみ)中将が藤壺(ふじつぼ)の女御(にょうご)(故按察使大納言(あぜちだいなごん)の三の君)に密通し、男君が生まれるが、ふたたび会うこともかなわず、長谷寺(はせでら)での夢想にまかせて出家し、即身成仏するという悲恋遁世譚(とんせいたん)。兄弟姉妹の助け合いや他家との交流など、貴族の生活の広がりのなかで、幾組かの恋愛、結婚を年代記風に描く。

重要なのは、「原作は平安末期に成立したらしく、『無名草子(むみょうぞうし)』『風葉和歌集』にその名がみえるが、散佚した。」ということで、源氏以前に存在した可能性がある。また、この伝承は、能「海人」にも関連するのではないか。

いずれにせよ、海人の子=遊女の子、という源氏物語の時代に伝承があり、さらに、「われから」と関連する伊勢物語の原形もなにかありそうだ。ただし、源氏物語のここ重要なのは、夕顔が自身を遊女として光源氏と接しているということで、その含みにもしかすると、物の怪の因果も関連するのかもしれない。

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