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Wikipediaが個人の歴史認識を左右する?

 いまや「草の根ネット」や「みかか」は死語なんだろう、と思うインターネット老人会の資格十分の人間なので、それなりにネットの歴史は見てきた。最近、近現代史を学び直していることもあって、Wikipediaによって歴史認識に個人差が生まれる時代になっていくのかもしれないと思った。

「コトバンク」によると、英語版Wikipediaが誕生したのは2001年。日本版は事典によって分かれている。「百科事典マイペディア」は2002年9月からだし、「日本大百科全書ニッポニカ」は2001年5月。私の記憶だと2002年のほうが正しいような気もするが……。日本版の始まりはざっくり調べただけでは確定しないが、すでに17、8年の歴史はある。

 私はWikipediaが始まる以前から生きているのと、ブログやWebメディアの黎明期に、書籍や雑誌からコピペした情報があふれていたのを目の当たりにしているので、ネットで見る情報は、媒体の種類や運営、執筆者など、発信元が責任を持っている情報以外は、信用度を下げて読むクセがついてしまっている。これには仕事柄、紙媒体しかない時代から、雑誌や書籍の情報でも、1次情報に当たってみると解釈が違っていたり、切り取り方に明確な意図を感じたり、取材してみると事実は違うという経験が多分に影響している。

 つまり、どんな情報でも鵜呑みにせず、限りなく1次情報に当たることが必須と思っているのだが、そんな私でも今は調べるきっかけ探しにWikipediaを利用することは多々ある。そして、何かしらのヒントが得られたら、仕事の場合は、必ず書籍や事典、新聞記事、公文書等の他の情報源にも当たる。時間が許す限り、当たれるだけの複数の情報源を照らし合わせて、間違いがないという確信が取れなければ、原稿に書くのは控えている。確信を持って書いた場合でも、私の仕事先は編集者や校閲者の目が厳しいので、怪しいものは指摘され、再度、他の資料を探すなど、調べ直すことが少なくない。

 それでも間違いを完璧にゼロにするのは難しい。上記の日本版Wikipediaの開始年がいい例だ。どちらも校閲しているはずだが、年にズレがある。もし私が仕事でこの2つの事典に当たり、違っていることに気づいたとすれば、さらに他の資料を探して事実を突き止めていくしかない。原稿を書くのは、情報の探偵家業のような面もあるのだ。

 これだけWikipediaも情報が集積されてくると、書籍や事典などの他の情報源までチェックすることなく、調べ物を済ませている人は多いだろう。もともとWikipediaは、多数の人の知識と情報を集約することで有益な辞書として機能させる目的で生まれたものだし、その使い方は悪くない。今の時代、テレビやネットを見ていて、気になったことを調べるくらいなら、Wikipediaで大抵の調べ物は済む。私も仕事が絡まず、なんとなく分かった気になって済むものは、そうすることもある。

 しかし、Wikipediaを眺めていると、項目によっては、開始以前の情報が薄かったり、情報が充実している分野がある一方で、書き込みが少ない分野があることに気づく。情報の濃淡と深度の差が大きいのだ。おそらく、よく書き込んでいる人の年代や指向、得意分野が影響しているのだろう。そして、Wikipediaへの信頼度は出合った年齢、書籍や映像などの他の情報源に接する機会の多少によって違ってくると思う。見つけた情報が違うのではないか、足りない部分があるのではないか、とカンが働くかどうかは、情報捜索の経験値が左右するからだ。

 そんなことをつらつら考えていたら、Wikipediaは、さまざまな分野の歴史認識に個人差を生み出していくかもしれないと思った。これまでも認識の程度に個人差はあったけれど、紙媒体しかない時代は、校閲者という柱があった。出版界以外の人には、校閲とはどんな仕事なのか、よく分からないかもしれない。校閲者を主人公にした小説とテレビドラマもあったけれど、私はチェックしていないので、現実と合っているかどうかはなんとも、だ。

 校閲者は、ある情報が正しいかどうか、根拠になる情報を探し出し、執筆者に指摘してくれる人だ。ベテランほど、知識の集積は広く深く、事実関係から言葉づかいの間違い、なぜ間違っているかも含めて教えてくれる。しかも、多数の出版物を校閲しているので、世の中で確定していない新しい分野の事柄に対しても、執筆者の判断材料になる現時点での特徴的な意見を情報提供してくれる。

 執筆者は「伝えたいこと」に原稿を集約させていくとき、資料として集めた情報を原稿の落としどころに向かって取捨選択していく。しかし、ときには、読みやすさや落としどころに目を向けすぎるゆえに、情報の取捨選択や解釈の仕方を間違うこともある。そこを校閲者は、執筆者とは違う角度と距離から、正しい情報を提供し、原稿のゆがみを修正してくれる。もちろん、執筆者も編集者も校正の段階で何度も読み直し、あやふやな所は調べ直すが、校閲者の指摘で間違いに気づかされることは日常茶飯事だ。出版物にとって、校閲者は事実関係や日本語の最後の砦的存在なのである。

 昔も今も、矜持を持つ紙媒体であれば、校閲者の豊富な知識と経験を拠り所に、執筆者や編集者の複数の目も重ねながら、間違いのない方向に可能な限り修正している。その積み重ねがあるからこそ、出版物は形態やジャンルが違っても、共通認識を基礎にする歴史を形作ることができた。しかし、Wikipediaにはそれがない。情報を厚くすることと複数の目でチェックすることを校閲代わりにしているが、責任の所在がはっきりしていないだけに、どこまで信頼できるのか、という疑問はいつまでも残る。情報の出典は記載されているが、そもそもの資料が正しいかどうかの問題もあるからだ。

 これからAIなどの技術が積極的に活用されるようになり、紙媒体が培ってきた情報も集積しながら修正されていけば、Wikipediaの信頼度は上がっていくだろうとは思う。Wikipediaの志は尊重するし、たまに寄付もしている。だが、Wikipediaはあくまでも情報ソースの一つだ。Wikipediaだけに頼ることは、判断を誤らせることにもつながりかねない。情報の責任は、誰が持っているのか、何を意図に発信した情報なのか。そこが気になってしまう私は、校閲の歴史を重ねることで、情報の精度を上げてきた紙媒体をやはり拠り所にしてしまう。

 とはいえ、紙媒体も編集の方針と実務の精度を見極めないと、間違った情報に振り回されることもある。情報は文字という記号に押し込められた形のない概念だ。携わる人のこだわりや良心も影響する。情報を扱うのは本当に難しい。

仕事に関するもの、仕事に関係ないものあれこれ思いついたことを書いています。フリーランスとして働く厳しさが増すなかでの悩みも。毎日の積み重ねと言うけれど、積み重ねより継続することの大切さとすぐに忘れる自分のポンコツっぷりを痛感する日々です。