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『ロビン・フッド選集』(1820年)

この普通ではない人物の生涯と事件について誰かが信頼できる話を提示することはほとんど期待できない。彼が生きていた時代、彼の生活様式、同時代の著作家の沈黙や喪失は、ロマンスにとって非常に好ましい環境であるが、歴史的事実について非常に不利である。したがって、読者は、僅少で不完全な詳細であっても、ある者がこの問題について熱心に追求した詳説で満足しなければならない。たとえそれが満足できるものでなかったとしても、おそらく楽しめるものにはなるだろう。

偽りの伝記作家の労力から参考になることはない。この問題に関して満足できる説明をしてくれるだろうと人々が期待をかけている勤勉なサー・ジョン・ホーキンスでさえも「この人気がある英雄の歴史はほとんど知られておらず、彼に関するあらゆる散らばった断片をつなぎ合わせても、本当に信頼できる事実でしか満足できない質問者を満足させることは到底できない」と認めている。サー・ジョン・ホーキンスは「我々は彼の歴史を我々が見つけたままに受け止めるしかない」と言っている。したがって、サー・ジョン・ホーキンスは、二つか三つの些細な抜粋しか我々に示してくれていない。この問題に関して興味を抱くあらゆる者は、そうした抜粋さえ見ればサー・ジョン・ホーキンス自身と同じように熟知していることになる。ただ同時に、これからしようとしていることは、熟達した歴史家が言及している散らばった断片をまとめる以上のことだと触れ込んでいるわけではない。しかしながら、編者はできる限り集めた情報をもとにそうしようと努めた。情報と能力が不足していると痛感しながらも、その結果については公平な読者の判断に委ねたい。

ロビン・フッドは、ノッティンガム州のロックスリーでヘンリー2世の御代、すなわち西暦1160年頃に生まれた。彼の出自は高貴であり、彼の本当の名前はロバート・フィッツオースである。その発音がなまってロビン・フッドになった。一般的に彼はしばしばハンティントン伯と呼ばれたり見なされたりしている。その称号は、少なくとも彼の生涯の後半においてある種の僭称であったと思われる。若い頃、彼は荒々しく放蕩な性質であったと言われている。浪費のせいで相続した財産を使い果たしたり差し押さえられたりして、彼自身は債務によって追放された。必要性に駆られたのか、それとも選択によるのかはわからないが、彼は森の中に隠れ家を求めた。その当時、特に王国の北部は広大な森林地域で覆われていた。その中でも彼は、特にヨークシャー州のバーンズデールとノッティンガム州のシャーウッドに愛着を感じ、ある者によればカンバーランドのブロンプトンの御料林にも愛着を感じた。そこで彼は同じような境遇にある多くの者たちを見つけて仲間に加えた。「敬虔な人々の集団から追放された荒れ狂う若者たち」は彼を自分たちの指導者として従った。彼がそうした者たちの中で最も気に入っていた者や勇気や誠意があるとして最も信頼していた者は、リトル・ジョン(その姓はネイラーと言われている)、スカーロック(スケーズロックもしくはスカーレット)、家畜の囲い場の所有者(もしくは番人)のウェイクフィールドのジョージ・ア・グリーン、粉屋の息子のマッチ、そしてタックという名前の修道士である。また彼は、隠れ家に愛人の女を伴ったと言われている。その本名、もしくは仮名はマリアンである。

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