無題

西部開拓時代設定資料集1―A House Divided 1857-1860

挿絵入りで西部開拓時代アメリカの生活文化を紹介します。ここで言う西部開拓時代は一般的に1860年頃からフロンティアの消滅が宣言された1890年までになります。

当時の人々はどのような生活を送っていたのか。『Adventures of America, 1857-1900; A Pictorial Record (1938)』からの抜粋をもとに適宜、私の解説を入れます。

シリーズは以下の4つから構成されます。挿絵は各50枚ずつくらいです。

西部開拓時代設定資料集1, A House Divided, 1857-1860

西部開拓時代設定資料集2, The Scourge of War, 1861-1865

西部開拓時代設定資料集3, A New Nation, 1866-1876

西部開拓時代設定資料集4, The Stormy Present, 1877-1893

西部開拓時代設定資料集5, 古写真(1890年代西部)

1~4について対象はアメリカ全土なので西部以外も含まれます。後から大幅に加筆する場合もあります。お知らせが自動的に届くようになっています。

※高精細な画像が必要な場合は、別途、希望に応じます。原本を持っているので自由にスキャンできます。

※本当はPart 5, The Progress of Our Arms, 1894-1900もありますが、フロンティアが消滅しているので対象外にします。

ニュー・ヨークの光景(1857)

1857年のニュー・ヨークについて以下のように『ハーパーズ・ウィークリー』は記録している。

「巨大な半野蛮状態の大都市、良く管理されているわけでもなく、悪く管理されているわけでもなく、単に管理されていないだけであり、不潔で灯りもない街路、身体も財産も十分に保護されず、警察はその名前に値せず、経費は確実に嵩みつつある」

ニュー・ヨークは、急速に成長しつつあるアメリカで最も発達した商業都市であった。ニュー・ヨークの人口は10年で30万人も増加した。

参考:1860年のアメリカの都市人口トップ10

1、New York 81万3,669人

2、Philadelphia 56万5,529人

3、Brooklyn 26万6,661人

4、Baltimore 21万2,418人

5、Boston 17万7,840人

6、New Orleans 16万8,675人

7、Cincinnati 16万1,044人

8、St. Louis 16万0,773人

9、Chicago 11万2,172人

10、Buffalo 8万1,129人

ニュー・ヨークの中心部のフィフス・アヴェニューを見下ろしている。手前にある教会はブリック・プレスビテリアン教会(焼失)。少し拡大して各所を見てみよう。

街路を見るとかなり広い歩道が見えるが、ほとんど舗装されていない。当然、信号もない。家の屋根には煙突が見える。入り口に階段がある形式は今でもニュー・ヨーク市内で見かけるがこの頃からあった。その下は地下室になっている。

旧大陸からアメリカに押し寄せる移民の大部分はニュー・ヨーク港に到着した。その数は1850年代において年平均で23万5,000人である。1860年、ニュー・ヨークの街の人口の実に半数は外国生まれであった。ニュー・ヨークにそのまま留まる者もいたが、多くはさらに西部を目指して散っていった。

挿絵を見ると蒸気船が見える。19世紀の初頭から蒸気船は徐々に増え、運河が次々に開削され広く普及した。各州は運河会社に独占運航権を与えて運河の発展を促した。左側には昭明が見える。ガス灯やアルガン灯といった昭明もあったが、安価な昭明として鯨油ランプが一般的であった。

アミューズメント・ホールは、道に迷った外国人が通訳、案内人、チケット販売人を見つけるのに最適な場所であり、情報交換の場であった。

アメリカ大都市では、一般的な住民はこうした高層の建物に住んでいた。1860年までにニュー・ヨークにはこうした借家が1万軒以上に増えた。ただニュー・ヨークの人口の約20分の1は、不潔で汚くて暗い地下に住んでいた。したがって、住環境は劣悪であり、ニュー・ヨークの死亡率はロンドンの死亡率の2倍に達した。借家は火事に弱く、いったん火がつくと大きな犠牲を出すことが少なくなった。

ブロードウェイはすでにアメリカで最も有名な通りであった。大きな商店、立派なホテルが建ち並んでいた。挿絵を見ると、帽子屋、毛皮屋、馬車の修理屋、ビリヤード屋、本屋、宝石屋などの文字が見える。雪の時期なので橇で走っている。

少し拡大してみると、乗合馬車が見える。料金は6セントだったようだ。現代の感覚だと100円程度だろうか。

ボストンで一番賑やかなワシントン通りの様子。季節は春。レースとファンシー・グッズの店がある。輪回しの輪を持っている子供やパラソルを持った女性がいる。贅沢品は一般にも普及するようになったとはいえ、やはりレースのような品物は高級品であった。右端の女性は貧しい女性でライラックを売り歩いている。

ニュー・ハンプシャー州の州都コンコードの様子。この地域では有力ないくつかの家系が土地を占有して靴や布地などを製造する工場を建設した。そうした工場で働く移民が大量に流入して15年間で人口は150%増大した。

街の中を走る蒸気機関車。

先程の州都コンコードからはるか2,000km以上内陸に入ったカンザス準州の都レコンプトンにある長官の住居。このわずか6室しかない小さな家で長官は奴隷制度の是非をめぐる流血に対処した。

さらに西にあるユタ準州では、ブリガム・ヤング長官(モルモン教の指導者)が共同体を建設していた。グレート・ソルト・レイク渓谷に1,600kmに及ぶ灌漑網を巡らして周囲の山々から水を農園に供給した。美しい計画都市であるソルト・レイク・シティーは1万5,000人まで住民が増加した。

中央部にあるデザレット・ストアは政府が管理する店で地元の産物を販売している。その隣にはモルモン教徒が収める十分の一税を収める倉庫がある。右の三角屋根がたくさんある一角はヤングの妻達と子供達が住む場所である。モルモン教は一夫多妻制を採用していた。

「デザレット」という名称は、ユタ、アリゾナ、ネヴァダを中心とした地域を指し、モルモン教徒によって州として連邦加盟が申請されたが、一夫多妻制が特に問題視されて連邦議会によって否決された。


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