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序文

 1847年3月18日、いつも好きでよくやっていた長い散歩から私の家に戻った。私が敷居を跨ごうとした時、配達人が私に手紙を渡した。

 大きな封筒と封印を見ると、戦慄が体を駆け抜けるのを私はすぐに感じた。私は震える手で不吉な知らせを受け取り、私が従わなければならない不幸な命令の一つが含まれているのではないかと予期した。私は家に入って書斎に行き、そこでその運命を決する封印を破いた。

 それは私の免職通知であった。

 奇妙で名状しがたい感情が私を襲った。私は目を上げて私の先祖たちの肖像画を見た。私はすべての肖像画の暗く思慮深い顔を眺めた。そうした表情にはまさに絶望が浮かんでいた。それはこれまでずっと私につきまとってきたものだ。私は、狩猟服に身を包み銃にもたれかかりながら犬をなでている祖父の姿を見た。おそらく犬だけが彼の唯一の友人だったのだろう。私は、手に帽子を持ち、よく着ていた黒貂の毛皮の服を身にまとった父の姿を見た。私は、こうした沈黙の目撃者たちの表情に重くのしかかっていた呪いに終わりが訪れたと彼らに今まさに伝えているのだと思えた。それから私はベルを鳴らして盥と水を求めた。我々の心をご覧になる神の下、私はただ独りで厳かに手を洗った。今後、私の同胞の血によって私の手が汚されることはないだろう。

 それから私は母の住居に行った。私は、ヴェルヴェットを張った安楽椅子にずっと座っている母を見つけた。哀れな老女が安楽椅子から立ち上がることはほとんどなかった。私は母の膝に司法省から届けられた報せを置いた。母はそれを読むと、優しげな目を私に向けた。

 母は「この日に祝福あれ、わが息子よ」と言った。「それはあなたの先祖たちの遺産からあなたを解放してくれるのですから」

 私が抑えられない気持ちを抱いてそのまま無言でいると、母は付け加えた。

 「こうしたことは遅かれ早かれ訪れることでした。あなたはあなたの氏族の最後の1人です。天はあなたに娘たちだけを授けました。私はそのことについていつも感謝しています」

 翌日、18人の競合者が私の血塗れの職務を求めた。代わりを見つけるのは難しいことではなかった。

 私自身に関して私が追及するべき方針は一つしかなかった。私は、悲しい思い出でいっぱいの古い住居を急いで売り払った。その古い住居の中では、7世代の中で3世代が軽蔑と恥辱にさらされながら生きてきたのだ。私は馬たちも馬車も手放した。馬車には亀裂の入った鐘の紋章がついていた。すなわち、私は過去を思い出させるような物をすべてを手放したのだ。それから私は私の足元から塵をふるい落として、代々受け継がれてきた住居に永遠の別れを告げた。その住居において私は先祖たちと同じく、昼に安寧を感じることもなく、夜に憩うこともできなかった。

 年月が過ぎ去って母が病弱になったせいで、私は新世界へ旅立ちたいと思うようになっていた。それは主に、私が憂鬱な職務を果たしてきた国と私を大洋で隔てたいと願ったからだ。アメリカには新しい慣習があり、未開拓の森があり、大河がある。私はアメリカについてシャトーブリアン[18世紀末から19世紀前半にかけて活躍したフランスの作家、アメリカを旅行した経験を持つ]とフェニモア・クーパー[19世紀前半に活躍したアメリカの作家]の作品で読んだ。私はその土地を見てみたいとずっと思っていた。歓迎されない知名度を得た名前を放棄することによって、私はアメリカの大地を踏みしめて人生という本の新しい頁をめくりたいと思っていた。しかし、私は責務によってパリにとどまらなければならなかった。私の年老いた母は私と同行したいと言っただろうが、母の体は船旅の疲労に耐えられなかっただろう。だから私は母の面倒を見るために母のもとに残って、多くの苦痛の涙を流してきた母の目を閉ざさなければならなかった。

 私はこうした神聖な義務を果たすようにすぐに求められた。私が処刑人の職を解かれてから3年以内に私は、命だけではなく賢明な助言の恩恵と美徳ある模範を私に与えてくれた母の死を悲しいことに看取ることになった。これは私にとって悲痛の一撃であり、ずっと私の心に残っている。時は過ぎ去った。私は新しい生活という幻想を育むにはあまりに年をとりすぎた。私は移民の計画を断念せざるを得なかった。

 しかしながら、私は急いでパリから離れた。私の先の人生における憂鬱な職務について思い出させるようなものが何もなく、安全で世間から離れた場所を隠棲の地として選んだ。私のものではない名前を使って私はそこで12年間暮らした。私は秘かに恥のようなものを感じながら友情と善意を得ていた。ただ私の昔の仕事が暴露されれば、そうした友情と善意が雲散霧消してしまうのではないかと私はいつも恐れていた。私は記憶から逃れようとこの人目につかない隠れ家に逃げ込んだが、過去はとてもはっきりと私の記憶に呼び覚まされる。今、私は年老いてわびしく空虚な生活に飽き飽きするようになった。そのため私は、この序文で説明されるような本を書きたいという強い誘惑に抗えなかった。

 怠惰と孤独は病的な空想の安全な隠れ家とはならない。私の生まれもっての宿命や私の人生における最初の職業について絶えず思い悩み、これから語られる珍しい経験を体験した頃にしばしば心をさまよわせてきたが、私は家族に何も受け継がせずにすむことを神に感謝したい。先祖たちの中にはわずか7歳にして絞首台に行かなければならなかった子どもがいたことを私は覚えている。私の曾祖父であるシャルル・ジャン=バプティストは1719年4月19日にパリで生まれて、1726年10月2日にその父の後を受け継いだ。幼い子どもは処刑人の職務をまだ執行できそうにないので、議会はプリュドムという名前の助手兼指導者を幼い子どもにつけたが、処刑に立ち会って認可を与えなければならないと命令した。処刑台の歴史の中でこのような摂政制度があったことは本当に奇妙なことだ。

 フランス革命の間、国王や王妃や貴族たち、そして革命家たちの頭を斧やナイフで切らなければならなかった祖父に私は思いを馳せた。若い頃、私は老人の矍鑠とした姿を見たことがある。祖父はその恐ろしい仕事について日記をつけていた。そうすることによって祖父は、我々の氏族の行動を刻みつける記録を続けた。

 そうした類まれなる年代記、すなわち私が続ける順番となり、拷問室や相続用の粉[毒殺に用いる砒素のこと]で始められ、それから摂政時代[ルイ15世の幼少期にオレルアン公フィリップが摂政をつとめた時期(1715年~1723年)]とルイ15世の統治の騒擾について述べ、フランス革命を経た後で今世紀に至る年代記を読むと、私はあらゆる頁において、興味深い回想、その時代の逸話、わが家系に受け継がれてきた伝説、優れた者たちや卑しい者たちの無数の名前―プライエとカルトゥーシュ[両者は18世紀に活躍した盗賊]の間にホーン伯爵[Count Antoine-Joseph De Hornのこと]の名前があったり、ダミアン[フランスの軍人、1757年にルイ15世を暗殺しようとして逮捕されて処刑された]の隣りにラリー=トランダル[フランスの政治家]やシュヴァリエ・デ・ラ・バリ[François-Jean Lefebvre de la Barreのこと]の名前があったり、国王を筆頭に革命の犠牲者となった従者たちの名前があったりする―を見つけられた。私は、第一帝政の下でジェユ派[フランス南東部のリヨンで結成された反ジャコバン派の組織]のジョルジョ・カドゥーダル[フランスの反乱指導者、ブルボン王朝を擁護する一派を指導、ナポレオンに対して反乱を企てた罪でギロチンにかけられた]の策謀で開発された地獄のような器具に関して父と話をしたことを覚えている。また私は、私が関与する運命にあった劇的事件、すなわちジャック・クレマン[16世紀後半のドミニコ会修道士、1589年にアンリ3世を刺殺]とラヴァイヤック[17世紀前半のカトリックの狂信者、1610年にアンリ4世を刺殺]の信奉者であり、無謀にもルイ・フィリップ[フランス王(在位1830年~1848年)]を暗殺しようとしたラ・ロシェル[フランス西海岸の町]とルーブルの4人の下士官を断罪することになった事件を心にとどめている。司法の誤審の犠牲になったルサルカ[1796年に起きた駅馬車襲撃事件で逮捕されて、無実を訴える証言があったにもかかわらず処刑された]やパパヴォイン[1825年に2人の子どもを殺害した罪で処刑された]、カスタン[フランスの内科医、世界で初めてモルヒネを使って殺人を犯して処刑された]、ラスネール[フランスの詩人にして犯罪者、1836年に殺人罪で処刑された]、スフラー[1839年に殺人罪で死刑判決を受けた]、ポールマン[宿屋の主人を殺したことで収監された犯罪者]といった近年で最悪の種の悪党たちの処刑もあった。それらをすべて取り上げる際に、作品の重要性や有用性のせいで作者の独自性がほとんどなくなってしまうという問題があると私はふと思いついた。

 そこで私はこの本を書くうえでフランスの刑罰の概要と処刑人の職務に関する説明を付け加えることにした。私は今、このような本を公刊しようとしている。もし処刑台の上でくり広げられる情景をありありと描いた物を見て湧く感情を求めるような人びとの不健全な関心に糧を与えることが目的であれば、それは忌まわしいものとして受け止められるべきである。それなら私の書いた物を焼いたほうがましである。それどころか私の作品の方針において私は、多くの雄弁な声によって非難された刑罰や私が生ける権化になるという不運に見舞われた刑罰のおぞましさに心動かされている。そして、もし今、私が断頭人という役割をどのような感情を抱いてそれほど長く務められたのかと問われれば、私は私の生まれにまつわる特別な環境について読者に伝えるだけである。私がまだ少年だった頃、父を手伝うことは私の苦悩のもとだった。私は先祖たちの信念で育てられ、当然のようにそれを守らなければならないと教えられた。私の家系において法の剣は、王族における王笏のように世代から世代へ受け継がれた。私の家系と老齢の父を侮辱することなく私はほかの職業を選べただろうか。近親者たちの気持ちを傷つけたくないという私の願いと一致する限り、私は職務を保持した。もし近親者たちの気持ちを顧みずにすむのであれば、私は喜んですぐにそうしていただろう。私が今、とても気にかけていることは、ちょっとした時間でこれらの頁を読む者が本を置いて、それは最後の処刑人によって書かれた死刑に対する遺書[死刑の廃止を望んでいるということ]だと言ってくれるかどうかである。

                          アンリ・サンソン

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