無題

無法者の物語―第18章 パット・ギャレット

※『無法者の歴史』に関する説明は「はじめに—コンテンツ紹介」にまとめています。パット・ギャレットに関する第18章を抜粋して翻訳。ここではギャレットがビリー・ザ・キッドの墓前に行って自ら殺害の真相を回想しています。

西部の保安官の行動は、その大部分が記録されていないか、もしくは流血事件という恐ろしいフィクションとして売り出され、彼らの血腥さしか興味が持たれていないようである。フロンティアの保安官は自分自身の行動について自慢するような人物ではなく、歴史の舞台の裏側に静かに入ってしまって、文明の進歩において顕著な業績を上げたと声高に主張する他の者たちに取って代わられている。しかし、典型的なフロンティアの保安官は、悪者を追跡する善良な人物であり、普通に生活して財産を所有し、社会、国家、政府、そして、家庭を築き上げる人々に安全をもたらしているので、強い関心を寄せるべき歴史的人物である。多くの善良な男たちの中から一人の男の物語を取り上げることで彼らすべての性質について追究したい。また追跡しなければならない者たちでいっぱいの地域で追跡をすることがどんなに危険であったかを我々は知ることができるだろう。

パトリック・フロイド・ギャレット、すなわちパット・ギャレットは南部の生まれである。彼は1850年6月5日、アラバマ州チェンバース郡で生まれた。1856年に彼の両親はルイジアナ州クレイボーン教区に移った 。そこで彼の父は大土地所有者になり、その当時はよくあることだが奴隷主となった。そして、南北戦争後の新体制に反感を抱く者たちの一人であった。ギャレットが若い頃に父が亡くなると、その大きな地所は管理の悪さで下降線をたどった。しばらくして父に引き続いて母も亡くなり、3,000エーカー(約1,200ヘクタール)近くの二つのギャレット家の地所が豊かなルイジアナ州の土壌にありながらも、一家の財政は戦争の関係もあって困窮を深めた。1869年1月25日、背が高く細身の18歳の青年であるパット・ギャレットは、西部の荒野に幸運を求めてその身一つで出発した。

彼はテキサス州ダラス郡ランカスターに向かった。 あるテキサス州の大きな牧場主は男たちを求めていた。パット・ギャレットは荷物をまとめて彼の家に行った。世界は彼にとっては目新しいものであった。しかし、その当時の他の多くの若者たちのように、彼はすぐに北に向かう牛とともに出発した。牛の群れはイーグル・レイクで集められ、彼はデニスンまで牛の運送に同行した。そこで彼は、テキサス州パンハンドルの西に広がる平原で暮らすバッファロー狩人たちの荒々しい生活の楽しさを聞いて気もそぞろになり始めた。1875年から1877年の三度の冬にわたって、バッファローが住む領域と入植地の間を行き来した。この時までに彼はフロンティアでの生活にすっかり魅了されてしまった。

1877年秋、彼は再び西部に向かって、今回はさらに西に進み続けた。二人のたくましい同行者とともに、彼は人跡未踏のパンハンドルの大地を踏破した。「黄色い家」として知られる荷馬車を残していったが、彼がそれに戻ることはなかった。彼の毛布や個人的な持ち物を再び見ることはなかった。彼と友人たちは、重いシャープス銃[訳注:元込め式単発ライフル銃、米国で 1848 年に特許を得て1850 年代のアメリカ軍に採用]、十分な量の弾薬、再装填の道具のほかに何も持っていなかった。彼らのベッドは鞍下毛布であり、野生動物を殺して食べ物を得た。彼らは冒険を愛していた。彼らは人跡未踏の大地を横切り、1878年2月にペコス川のほとりにある小さなメキシコ人の入植地フォート・サムナーに到着した。

パットと友人たちは飢えていたが、彼らが持っている現金はわずかに1ドル半しかなかった。彼らはそのお金をパットに預けて、食事を提供する店を彼に探しに行かせた。彼が食事の値段を聞くと、一食あたり50セントだという。それだと一回しか食べられない。彼は1ドル半分の小麦粉とベーコンを買うことに決めた。それは2、3回分の食事になるはずだ。 彼は友人たちと合流して川のほとりでキャンプした。そこで彼らは調理をして食べた。彼らは完全に満ち足りていて未来について何も心配していなかった。

彼らが朝食を終えた時、上流で牛の群れが砂塵を巻き上げているのを見た。そして、牛飼いたちが何らかの目的で牛を群れから離そうとしているのに気づいた。

「あそこに行って仕事をもらおう」と少年たちの一人がパットに言った。 もう一人がさっそくそこに行ったが、 助けは必要ないと牛飼いに言われたと報告した。

「いやきっと助けが必要なはずだ」とパットは言った。そう言うと彼は起き上がって自分自身でそちらに向かって歩き始めた。

その当時からギャレットは非常に背が高く細身で6フィート4インチ半(約194.3センチメートル)に達していたと言われている。足の長さに合うズボンが見つからなかったために、3フィート(約90センチメートル)毛が生えたままのバッファローの革のすねあてを一番上等なズボンに縫い合わせて履いていた。ひょろ長くてほこりっぽく髭も剃らない彼は強面に見えた。彼が牛飼いに近づいて仕事を求めた時、牛飼いは喜ぶよりもむしろ警戒した。牛飼いは再び助力を断った。なおもパットは仕事をしに来たと食い下がったが、やはり助けは必要ないと言われた。ただギャレットの静かな声は牛飼いの注意を引いた。牛飼いは「ひょろ長いの、ではおまえに何ができるんだね」と聞いた。

「どんな馬でも乗れるし、ここにいるどんな男たちよりもうまくロープを使える」とギャレットは答えて周りにいる男たちに批判的な目を向けた。

牛飼いはしばらくためらった後に「じゃあやってみるか」と言った。パットは一団に加わった。そして、そのまま一団の中で暮らした。2年後、彼はフォート・サムナーで結婚した。

結婚直後、ギャレットはフォート・サムナーから1マイル(約1.6キロメートル)東にある今、ロズウェルの町として栄えている場所に移住した。ホンド川のほとりに泉があって、未開拓地の真っ只中にあった。そこで彼は土地を選んで1,250エーカー(約510ヘクタール)以上を所有した。もし彼がその土地をまだ所有していれば、50万ドル以上の財産を持っていることになるだろう。

しかし、彼はフロンティアの農夫として安定した生活を送ったわけではなかった。 彼の友人であるロズウェルの住人キャプテン・J・C・リアが彼のもとにやって来て、リンカン郡の保安官として立候補しないかと聞いた。 ギャレットは立候補に同意して選出された。彼は保安官にならないように警告を受けた。その地域の名うての無法者たちからもし自分たちに何かしようものなら殺してしまうぞという脅迫の言葉が彼に届いた。彼はそれに注意を払わなかった。まだ新しく、人がまばらにしか住んでいない地域でほとんど誰にも知られていない彼はきっと殺されてしまうように思えた。長年にわたって住民の財産と命を危険にさらし、準州を名ばかりの文明の地にしてきた一味を法的手続きを無視してでも壊滅させよと訓示した準州長官から彼は絶対的な信任を得た。もし真相を暴露すれば、ギャレットが悪者を逮捕して入植地に向かった後で令状を発行したことが時々あったかもしれない。彼は6連発銃こそが最善の令状であると知っていた。 そうすることで彼は我が道を貫き、我が手によってニュー・メキシコ南西部に統治を確立した。彼こそが法という体系であった。時に彼は自分のお金を出して囚人たちを宿泊させた。彼自身が国家であった。彼の言葉は、逮捕した最悪の強盗に対してでさえ丁寧であった。しばしば彼はもし求められれば、法に照らし合わせて留めておく義務がなくても囚人を監視下に置いた。しかし、彼はどのような要求があろうとも囚人を留めておいた[訳注:他の誰にも引き渡さなかったということ]。この地域で最悪の囚人でさえパットの手の中にいれば何が起きようとも安全だと知っていた。もしパットが誰かをある場所まで連行すると言えば、彼は絶対にその者を連行した。

彼が保安官と合衆国執行官として最初の季節を終えた後、しばらく牧畜業に携わった。犯罪を撲滅する者としての彼の名声は広く知れわたり、1884年、彼はテキサス州ウィーラー郡でテキサスの牧場主たちの組合を組織して運営するようになり、アタコーサとその周辺を1年半の間、本拠地にした。今や捕縛者としての名声が非常に大きくなったので、牛の行方を追跡する組織を管理するために雇われた。男たちが自分たちの牛について心配しなければならないとはまったく文明とは程遠いことである。彼は、テキサス北部で活動している略奪者たちを壊滅させれば1万ドルを与えるという申し出を受けた。しかし、彼は略奪者たちを捕縛するのではなく、その1人か2人を殺すことで報酬が得られると悟った。そして、誰かの復讐を代行するために働きたくないと思った。彼はその仕事を辞めてホワイト山脈にある「V」牧場のために働き始めた。1887年春、彼はロズウェルに再び移った。そこで彼はペコス峡谷灌漑会社を設立した。彼は地面から泉が湧き上がっているのを見てこの地方で初めて掘り抜き井戸を作ろうと考えた人物である。彼の努力のおかげで掘られた掘り抜き井戸は、この峡谷すべてに革命をもたらした。彼はチャベス郡の保安官に立候補したが落選した。政治的逆境に腹を立てた彼は、ロズウェルに立ち寄って、得られたであろう利益を犠牲にして土地を売り払った。今日、その土地は穀物や果実で覆われ、1エーカー(約0.4ヘクタール)あたり60ドルから100ドルの価値になっている。

ギャレットはテキサスに戻ってユヴァルデ付近に住んだ。そこでギャレットは再び灌漑事業に従事した。彼はそこに5年間いて、牧畜業に手を出したがお金を失った。ニュー・メキシコ準州長官W・T・ソーントンは、ヌマ・レイモンドの未完了の任期を満たすためにドナ・アーニャ郡の保安官職を彼に申し出た。彼は2期連続でドナ・アーニュ郡の保安官に選出された。勇敢さにおいてギャレットよりも優れた記録を残したフロンティアの保安官はいない。

1901年12月初め、ギャレットのことを聞いたセオドア・ルーズベルト大統領は、ギャレットと会談して非常に気に入って、彼をテキサス州エルパソの徴税官に独断ですぐに任命した。そこでギャレットは4年間、公正で恐れ知らずの人気のある徴税官として過ごした。

ギャレットが得た名声は、主にビリー・ザ・キッドという無法者を殺したことによるものである。 その出来事についてここで記録を遡ることが適切だろう。 なぜならフロンティアの保安官がどのようなやり方で悪者を逮捕したかを示す最善の例だからである。

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