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ビリー・ザ・キッド、最後の日々―第11章 スティンキング・スプリングスへの道

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グラントが死んだ後、ルス・マクスウェルは[1879年]12月1日に居酒屋を閉店するようにボブに命令した。彼女は、あまりに騒音がうるさいのでその家をもう貸し続けたくないと考えていた。 言い換えれば彼女は彼女の町に居酒屋を置きたくなかったということだ。それからボブは 居酒屋をアレハンドロ・セグーラに売った。セグーラは居酒屋をアレノソに移転させた。その場所でセグーラ一家は町を始めた。ビリーは娯楽のためにアレノソにしばしば行った。 そこではセグーラ一家とマクスウェル一家の間でたくさんの競馬が催された。

11月の終わり頃、私の姉妹であるマキシミナ・アナヤがひヒギニオ・ガーシアと結婚した。ビリーと仲間たちは全員結婚式に出席した。それは非常に賑やかなパーティーだった。パーティーが終わった後、タイバンにある牧場に向かった。 そこには牛を所有するウィルコックス氏が住んでいた。彼らがそこにいた時、チャールズ・ボウディーはたくさんの牛の所有者であるトム・ヤービーのもとにいた。ビリーはルダボーとビリー・ウィルソン、そして、デーヴィスとともに、マーフィーの牛を多く所有しているシフグレイド氏に属する牛を駆り集めるためにカピタンに立ち寄ろうとそこに行くことに決めた。

トム・オフォラードとトム・ピケットはチャーリー・ボウディーとともに滞在していた。ビリーと仲間たちは1879年12月12日[おそらくアナヤは1880年と間違っている]頃にシフグレイド氏の牧場に向けて出発した。彼らは約80頭の牛を追っていた。何らかの方法で彼らは探知され、シフグレイドはリンカンに行ってペピン保安官に助けを求めた。ペピン保安官は馬に乗った40人の武装した男たちを連れて出発した。彼らは牛が通った跡を簡単に見つけることができた。

ビリーと仲間たちはギャロ湖を通ってギャロ渓谷に入った。この渓谷は非常に長く、その当時、北側の一つの出口と南側の一つの入り口を除いて通過できなかった。既に言及した湖は渓谷から20マイル[約32キロメートル]ほど離れていた。ペピンは同行した40人の男たちを分けて20人を南側に配置するために送り出した。したがって彼らは西に向かってビリー一行に遭遇することになるはずだ。ペピンは西側にとどまってゆっくり進んで、東側に送り出した者たちが南端の配置についてビリーと遭遇するのを待った。

この遭遇に居合わせた同じ男たちの話からすれば、そして、私がリンカンに住んでる間に聞いたことからすれば、この話の著者である私、A・P・アナヤは、この話を語ることができるし、ビリーが私に話したこととそれを比較できると思っている。

それからビリー一行は渓谷に追い詰められたと悟った。40人の男たちが急速に彼らに迫ってくる。ビリーが彼らを見た時、彼らは非常に接近していたので「とにかくできるだけ逃げろ」と仲間たちに叫んだ。

ビリーは「俺は南側に出て、険しい高台の麓に着くまで馬を走らせた。そこで俺は馬から下りて徒歩になった。ライフルとピストル以外は何も持って行かなかった。俺の仲間たちは渓谷の北側に逃げた。徒歩の男たちが俺を追ってきた。奴らが俺を視界に収めて以来、俺は仲間たちがどうなったかわからない。そこから俺はガリナ山脈に向かった。山脈はリンカンに通じる道の東側にあった」と語った。

「そこには、ピノスとホワイト・ホークスの間を結ぶ郵便の中継場があった。そこで俺はきっと良い馬がいるに違いないと思った。俺は急いで進んだが、俺を追ってきた者たちは視界に入っていたし、奴らも俺を視界に収めていただろう。俺が中継場に着いた時、すでに暗くなっていた。渓谷で俺たちを奇襲した者たちの中の3人がそこにいることに俺は気づいた。中継場の近くには、俺が知らない一人のメキシコ人がいた。俺は『俺の帽子をやるからおまえの帽子をくれ。おまえの帽子のほうが軽そうだから。俺の帽子は戦うには重すぎるからな』とそのメキシコ人に言った」

「俺の帽子はシウダード・フアレスで25ドルもした。俺の帽子は見たところ新しかったのでメキシコ人は嫌がらずに交換に応じた。それから俺はその男に小さな丘があるところに出て行くように言った。そして俺は家の中にとどまった。それからその男が出て行くのを目で追った。奴らは俺の帽子を被っている男を俺だと勘違いして取り囲んだ。男は何本かの木の根元で立ち止まった。そして、それ以上事もなく、俺を追跡していた者たちは男を射殺した」

「しばらくの間、俺は休憩所から来た男と一緒にいたが、それから反対側から立ち去った。奴らは俺のことを見つけられなかった。そういうわけで俺は奴らが殺した男に何をしたか知らなかった。俺はオークの矮木に隠れながら翌日まで隠れて進んだ」

「別の機会があるまで俺は、俺たちのもとから牛を持ち去った男たちと再会することはなかった。俺は中継所に戻って2頭の最も良い馬を奪った。俺は鞍を持っていなかったので毛布を馬に置いた。それから仲間たちを探しに行った。仲間たちは山の中から出てこなかった。それは当然だろう」

ビリーは「俺はギャロ渓谷の高台の北側に向かった。『トリンチャーズ』という小さな高台を登った。俺は仲間たちの目印となるように狼煙を上げた。そうすれば仲間たちは俺がここで生きていることがわかるはずだ。すぐに俺は山中から彼らの答えを得た。それからしばらくして彼らは俺がいる場所にやって来た。彼らは徒歩だったが俺は馬を持っていた」と言った。

「彼らがトリンチャーズの高台に到着した時、ビリー・ウィルソンが『おいビリー、俺たちは羊飼いのメキシコ人と一緒にいたぜ。そいつが俺たちを食わせてくれたんだ。おまえをフォート・サムナーで知っていたと言っているぞ。そこに戻るのも悪くないかもな。そんなに遠くないし、家を貸してもらえるかもしれん。もしおまえがそいつを本当に知っていればだが』と言った」

「彼らが言っていた羊飼いのキャンプまでそれほど遠くないようだった。フィロメノ・ザモラがそのキャンプの主であることを知って俺は喜んだ。この友人はリミタールから来ていてが、彼と彼の父であるジーザス・ザモラはペコス川周辺で羊を飼っていた。そこでフィロメノは俺たちのことを知った」

「俺が挨拶した時、フィロメノはとても喜んで『こんな山中でいったい何をしているんだい』と聞いた。俺は、マガドのシフグレイドの牧場から牛の群れを駆り集めていた途中だったが、40人の男達に追跡されて運が悪いことにギャロ渓谷で追いつかれたと彼に言った。奴らは、最善を尽くさないと出られないところに我々を追い詰めたと俺はフィロメノに答えた」とビリーは言った。

「その日、俺たちはそこにとどまって、その夜はキャンプで寝た。そして、翌日は1879年12月22日[1880年だと考えられる]だった。23日、我々はアントン・チコに到着して俺の友人の家に行った。友人の名前はホセファ・マルティネスだ。この女はアントン・チコの町の南側に住んでいて、彼女の家の近くには隣人はいなかった。ホセファの叔母のディマスは俺たちがアントン・チコに滞在する時はいつも俺たちによくしてくれた」

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