表紙使用画像

ビリー・ザ・キッド勉強会資料:カウボーイの話

カウボーイは19世紀後半のアメリカ西部で有名となった職業である。今、我々が思い浮かべるカウボーイという意味でその言葉が使われるようになったのは1860年代アメリカ西部である。ただ「カウボーイ」という言葉自体の起源は非常に古く11世紀頃から牛に関わる人に対して使われていたようだ。アメリカ建国期の史料にも「カウボーイ」という言葉が登場するが、あまり良い意味ではなかった。アメリカ人の牧場から牛を盗んでイギリス軍に売り払う王党派が「カウボーイ」と呼ばれていたからである。もともとカウボーイはcow-boyと綴るのが一般的であったが、現代のようにcowboyと一般的に綴るようになったのは20世紀に入ってからである。

卓越した乗馬術を駆使して牛の群れを管理する仕事をこなしていたカウボーイであったが、その背景はテキサス人であったり、南北戦争の退役兵であったり、元奴隷であったり、インディアンであったり、メキシコ人であったりとさまざまであった。現役のカウボーイの平均年齢は20代半ばであった。

カウボーイの数が多かったのはテキサスである。それはテキサスならではの事情が関係している。テキサスには牧牛に適した広大な草地があったが、牛を販売するための市場は遠く離れた北東部にあった。テキサスではわずか4ドルの牛が北東部の市場に持って行けば40ドルで売れたという。 

問題となったのが牛の群れどのように輸送するかである。そこで活躍したのがカウボーイである。カウボーイは最寄りの駅まで牛の群れを運んだ。まず牛の群れを運ぶ前にカウボーイは牛を駆り集めなければならなかった。なぜならその当時はフェンスがなく、牛が自由に放牧されていたからである。

駆り集めは1年に2回、春と秋に実施された。カウボーイは集めた牛に持ち主を区別するための焼き印を押した。また焼き印の他にも牛の耳に細工する方法もあった。焼き印や細工がどこの牧場のものかは帳面を見ればすぐにわかった。

ビリー・ザ・キッドが生きていた1880年代には、10人前後のカウボーイが1組になって2,000頭から3,000頭程度の群れを連れて約1,000マイルを踏破するのが一般的であった。組には役割分担があって、1人の頭の下、1人の馬の群れの管理人と1人の調理人、その他は牛追いであった。頭はどのような進路を採るか、どこにキャンプを張るかなどを決定する仕事であり、経験が必要であった。馬の群れの管理人も非常に重要な仕事であった。なぜならカウボーイは1日に数回、馬を替えていたからである。したがって、牛の群れとともにかなりの数の馬を連れていた。

カウボーイが1日に進む距離は約20マイルである。その途中、牛に草を食べさせたり水を飲ませたりしなければならなかった。カウボーイの仕事は非常に過酷であり、食事と睡眠以外にほとんど休息はなかった。 

料理人の仕事場は炊事用馬車であった。 料理人は毎日カウボーイに食事を準備した。料理人を務めたのは年老いて働けなくなった元カウボーイが多かった。そのため経験豊富な者が多く、頭に次ぐ地位に置かれた。炊事用馬車は厳格に管理され、料理人の許しなく食べ物を取ることは許されなかった。

頭がキャンプの場所を決定すると、まず料理人が穴を掘って火を熾す。燃料は乾燥させた牛糞である。それから火を使って調理が実施される。調理器具や食料はすべて炊事用馬車に収められている。1台の炊事用馬車で平均30日程度の食料を収納できた。食料は小麦粉、コーヒー、豆、砂糖、糖蜜、ラード、缶詰、乾燥果物などである。炊事用馬車にはその他にも蹄鉄、医療器具、寝具などが収納されていた。その中でも貴重であったのが水である。水は途中で補給するのが原則であったが、約30ガロン程度の水が詰められた樽が炊事用馬車に積み込まれていた。それだけの分量があれば最低でも2日間、水が見つけられなくても耐えることができた。なかなか水が見つからない時、カウボーイたちはトマト・ジュースや桃の牛乳の缶詰で渇きを癒した。 

カウボーイの食卓にほぼ毎日並んだのがビスケットである。料理人は小麦粉、イースト、ベーキング・パウダー、塩、砂糖を使ってビスケットを作った。パイ、プディング、 シナモン・ロール、ドーナツなどが作られることもあった。料理人が調理に使ったのはダッチオーブンと呼ばれる重い蓋付きの鉄製の鍋である。その蓋の上に熱した石炭を載せ、さらに周りも石炭で覆って加熱した。そうすることで内部に均等に熱を通すことができた。

もちろん食卓に並んだのはビスケットだけではない。インゲンマメも重要な食料であった。インゲンマメは乾燥されていたので非常に長く保存することができた。しかし、水で戻す必要があったために調理に非常に時間がかかるという欠点があった。 

もちろんカウボーイは牛肉を食べることもできた。ただし牛の群れの所有者から食べてもよい牛の数が制限されるのが常であった。他にもを途中で捕まえた野生動物を食べることもあった。牛肉はステーキやシチューとして食べられたが、残りは塩を使って乾燥肉に加工された。カウボーイを働きながらそうした乾燥肉を食べた。 

コーヒーはカウボーイにとって欠かせないものであった。飲み方は基本的にブラックであり、クリームや砂糖を加えることはほとんどなかった。コーヒーはビスケットを漬けて食べるのに使われた。この頃のコーヒーはいわゆる生豆であって、カウボーイは生豆を炒り、石で砕いてコーヒーを作った。 

カウボーイの服装は仕事に適したものであった。ゆるやかな綿やフランネルのシャツに厚いキャンバス地や毛織のズボンを履いていた。カウボーイが履いていたブーツはあぶみに簡単に足がかけられるようにつま先が丸くなっていた。そして、踵には拍車が取り付けられていた。バンダナはカウボーイにとって非常に大事な衣装の1つであった。首に巻かれたバンダナは埃を避けるために口を覆うのに使われた。傷の手当に使われることもあった。またバンダナで馬の目を覆って落ち着かせることもあった。バンダナに加えて帽子はカウボーイにとって欠かせないものだった。日差しや雨から顔を守るだけではなく、水をすくったり、火を熾したりするのに帽子は使われていた。 

荒野における生活にも不文律はあった。例えば見知らぬ者が食事を求めに立ち寄っても特に事情を聞かないのが礼儀であった。食事の際、カウボーイは自分で必要な分を皿に載せた後、地面に座って食べた。いったん皿に載せたものはすべて食べるのが礼儀であった。そして、戸外で食事する場合、帽子を被ったまま食事をするのが普通であった。帽子を着用する慣習はカウボーイに限らず、当時のアメリカ人にとってごく当然の慣習であった。そして食事を終える時にビスケットで皿を拭うのがマナーとされた。 

無事に駆り集められた牛の群れは列車に乗せられ、シカゴに運ばれた。シカゴには加工場があり、そこで牛は処理された後、北東部の消費地へ卸された。 

牧場に戻ったカウボーイは賃金を受け取って町に出た。町には温かい風呂と快適なベッドがあった。それに旅で擦り切れた古い服の代わりに新しい服を買うこともできた。次の仕事までカウボーイは町の居酒屋やレストランで時間をつぶした。

引用元:Mary Gunderson, "Cowboy Cooking" Blue Earth Books (2000)

サポートありがとうございます!サポートはさらなる内容の充実によって読者に100パーセント還元されます。