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第31章 王妃

10月16日の全文無料公開が終わりました。たくさんの方に読んでいただきありがとうございます。

 いかに熱狂的な感情で革命を見ようとも、王冠と自由を剥ぎ取られて1年もしない王妃、処刑人の斧によって未亡人になってしまった女、野蛮なパリ市当局のせいで子供に恩寵を与えるように神に祈るしかなくなった母親に最終的に死を与えようと躊躇せずに誰も考えることはできないように私には思える。マリー=アントワネットの悲運を前にすれば、寓話や詩作によって描かれたあらゆる古代の悲運も色を失うだろう。若い頃、私はコンシェルジュリと呼ばれる牢獄に行く父によく同行したが、悲惨な独房の前を通ると全身が総毛立つような恐怖のせいで心が締めつけられたものだ。この不幸な王妃が2ヶ月にわたってその背後に閉じ込められていた黒く錆びついた扉に目を留めると、彼女の没落で彩られているように見えた。彼女は昨日のことを考えないようにするばかりか、明日のことを考えるのを恐れ、さらに孤独による慰めさえ得られていなかったのだろう。この扉が蝶番で回転すると、牢獄の暗闇の中に頭に霜を戴いた威厳ある人影がちらりと見えたように思うと私はしばしば言った。それから私は体に戦慄が走り、膝ががくがくするのを感じたので、足を速めて父と合流してこの呪われた場所から離れた。

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 ルイ16世の死後、タンプル塔の牢獄にいた王族の囚人たちは忘れ去られてしまったようであった。パリの人びとのルイ16世への憎しみは政治的なものであり、それは王という存在に対して向けられたものであり、その人物に向けられたわけではなかった。マリー=アントワネットに対する民衆の憎悪は政治的かつ個人的なものであった。王妃には、君主制を打倒しようと望んだ革命を推進する者たちの中だけではなく、廷臣たちの中にも、それどころか王家に連なる者たちの中にも不倶戴天の敵がいた。彼女の独立不羈な精神、華美な嗜好、礼儀作法で禁じられているような悦楽を赦す者は誰もいなかった。彼女の意見を曲解したり彼女の行動を非難したりすることで彼女の敵は、彼女をほかのすべての女の憎悪の対象にしてしまった。革命を推進する者たちは、ルイ16世よりも王妃のほうが精力的であると知っていた。もし彼らの計画に抵抗する者がいるとすれば、それはマリー=アントワネットによるものだと彼らは理解していたので、あらゆる者の心を躍動させる自由の最悪の敵だと彼女を位置づけた。彼らは彼女をフランスのヴァンパイアであり外国人の共謀者だと見なした。私が言及したばかりの心を合わせた怒りが誹謗中傷を一斉に生む結果を招いた。革命の矛先は逸れたようだったが、彼女は忘れられていなかった。委員会の弱腰を非難するために王妃の名前が演壇から響くことがあった。大部分の国民公会議員の口の中では、そうした非難はマリーアントワネットの血に心から飢えていることを示すためではなく、政敵を保守派だと見せかけるためであった。しかし、[議場の]外でロンサン、ヴァンサン、ルクレール、ヴァレを指導者としてエベールを文筆家として擁する党派、すなわちマラーを復権させることで不吉な栄光を得た党派がカペー未亡人の裁きを声高に要求した。

 今やこの党派は山岳派という名称で知られるようになった。6月2日、国民公会に出席していた山岳派はその構成員が望むよりもずっと強大な影響力を持っていた。いかなる場合であれ、山岳派は取引の報酬、すなわち彼らの要求に応じて投げ出される首を諦めようとしなかった[この段落は仏原文が不明瞭だったのでかなり意訳している]。

 8月1日、国民公会はマリーアントワネットを革命裁判所の前に引き出すことを決定する法令を布告した。

 8月2日午前2時、この法令が王妃に提示された。彼女はまったく動揺せずに法令が読み上げられるのを聞いていた。彼女は服をまとめると娘に接吻した(7月3日以来、王太子は彼女から引き離されていた)。それから彼女は子供たちの後ろ盾になってほしいとエリザベートに依頼すると、市当局の者たちの後にしっかりとした足取りで続いた。出口を通ろうとした時、彼女は頭を下げるのを忘れて激しくぶつけてしまった。そのせいで傷から血が流れ出た。監視人のミショニは怪我をしたのかと聞いた。彼女は「もうまったく痛くありませんから」と答えた。

 コンシェルジュリの牢獄の管理人は、シャルロット・コルデーから深い感銘を受けたあのリシャールであった。リシャールは王妃の悲運に同情して丁重に受け入れた。彼女は最初の夜を管理人の部屋で過ごした。翌日、リシャールはフーキエ=タンヴィルの同意を得たうえで監視の重い責任を負っているという口実を構えて、査問室と呼ばれている部屋を彼女にあてがった。そう呼ばれていたのは、旧制度の法官たちがその部屋で囚人たちの申し立てを聴取していたからである。その部屋はコンシェルジュリの暗い様相の一部をなしていたとはいえ、牢獄の中で最も広く健康的な部屋であった。その部屋は礼拝堂に至る廊下の端に位置していた。鼠に食われた壁掛けがぼろぼろになって落ちていた。広場で使われるような煉瓦が敷き詰められていた。二つの扉(D,H)[アルファベットは仏原文にはない。邦訳者が付け加えた。牢獄の図で示されたアルファベットに対応する]と二つの窓(B,G)があった。窓には頑丈な鉄格子がはめられていた。向かいの建物によって遮られていたせいで重苦しい空気とおぼつかない陽光だけが通り抜けていた。二つの扉のうち一方の扉は塗りつぶされていた(D)。フーキエ=タンヴィルは、2人の憲兵に昼夜を分かたず囚人を見張らせることを決定した。部屋は、中央部分が開いている仕切り壁(E)によって二つの部屋(A,F)に分けられた。開口部は間仕切りで覆われていた。憲兵たちは一方の部屋(F)に立っていた。マリー=アントワネットはもう一方の部屋(A)にいた。彼女のベッド(C)は塗りつぶされた扉の前に置かれていた。

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 予審は延長に延長を重ねた。王妃に対する非難について調査すればするほど、王妃が罪を犯したという証拠を見つけることが困難になった。フーキエ=タンヴィルはそのせいで眠れなくなり、告発状を書かなければならなかったが、それはとてもできそうにないことのように彼の目に映っていた。

 数人の善良な心を持つ者たちが王妃を救出しようと決意していた。恐怖政治のせいで彼らは逼塞を余儀なくされていた。2人の献身者が互いに心を開こうと決意せずにばったりと出会った[仏原文が不明瞭で意味がつかみにくいが、ルージュヴィルとミショニはそれぞれ王妃に献身的であったが、共謀して逃亡計画を練ったわけではないということだろう]。没落した王族に奉仕していた1人であるルージュヴィル騎士は、ミショニの仲介でマリー=アントワネットの独房に入った。彼はボタン穴に挿していたカーネーションを彼女に渡した。そのカーネーションには紙片が含まれていた。その紙片には王妃に対する献身の申し出が書かれていた。王妃はこの勇敢な若い男がきっとまた戻ってくると確信したうえで、ほとんど価値がないと思っている自分の命を救うためにほかの者の命を危険にさらしたくないと考えて、紙片に謝絶の言葉を刻んだ。彼女を見張っている1人の憲兵が突然部屋に入ってきて、その紙片を押収した。憲兵の告発でマリー=アントワネットは公安委員会による尋問を受けることになった。リシャールとその妻、フォンテーヌという名前の男、そして監視人のミショニが収監された。その時まで王妃の世話をしていた女は引き離された。王妃はより厳しい監視の下に置かれた部屋に移された。

 この[カーネーション]事件は告発の事由を提供することになった。そうした事由は、テュイルリー宮殿で押収された書類から公安委員会が選んだ文書によって補強された。

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