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アメリカ人の物語【番外編】ポンティアック戦争

※アメリカ独立戦争以前、一八世紀半ばにイギリスに対して反旗を翻した「森林の英雄」ポンティアックのお話です。


フレンチ・アンド・インディアン戦争の終焉は、植民地人に意識の変革をもたらしたようにインディアンにも意識の変革をもたらす。

フランスの脅威が去った今、イギリスにとって我々はもう用済みではないのか。イギリスはフランスに続いて自分達も追い出そうとするのではないか。

インディアンの不安は間違っていない。そもそも北アメリカ植民地は、成り立ちからして他の西欧列強の植民地と異なる。スペイン人が収奪に勤しみ、フランス人が交易をおこなう一方で、イギリス人は新たに白人の世界を移植しようとした。言い換えれば、イギリスは農業を中心に着実に入植地を広げる施策を進めた。それはインディアンにとって最も恐るべきことだ。

不穏な空気が漂う中、インディアンの間で預言者ネリオンの教えが広まる。インディアン版大覚醒運動と言ってよいだろう。

それは、天国に至る道を示すものであった。ネリオンによれば、インディアンの人々は二つの領域に住んでいる。片方は容易に天国に至れるが、もう片方は炎の試練を受けて進まなければならず、少しでも間違えば地獄に至る。

ではどうすれば容易に天国に通じる領域に住めるのか。白人との交流を断ち先祖たちと同じ方法で暮せばよい。ネリオンは偉大なる精霊の言葉を伝える。

汝はなぜ白人どもを汝の土地に住まわせているのだ。奴らなしで汝は生きていくことができないのか。[中略]。奴らを追い出せ。奴らに戦いを仕掛けよ。我は奴らを好まぬ。奴らは、我を知らない敵である。汝の兄弟達の敵である。

ネリオンの教えに導かれたインディアンは連帯を強める。一七六三年四月二七日、オタワ族の族長であるポンティアックによってオハイオ地方から五大湖南部に居住する諸部族が招集された。

ポンティアックは、四〇代半ばで勇敢な戦士として多くの者たちに知られていた。そして、その巧みな弁舌でも有名であった。その場にたまたま居合わせたフランス人は、ポンティアックが「非常に雄弁であったので彼の演説は望む通りの効果を与えた」と記している。

ポンティアックは、「害しかもたらさない赤い服を着た犬ども[イギリス兵]をあなた達の土地から追い払う」ことが偉大なる精霊の意思だと述べる。インディアンはその言葉を待っていた。先のフランス人によれば、彼らは「彼が望むことであれば何でもすぐにできる準備ができている」と異口同音に述べたという。

ポンティアックが目を付けたのは、五大湖周辺で最も強固なデトロイト砦である。デトロイト砦をまず奪取できれば幸先が良い。しかし、犠牲を出すことを極度に厭うインディアンは、滅多に要塞を攻撃したがらない。ではどうすればわずかな犠牲でデトロイト砦を攻略できるだろうか。

奇襲しかない。

ポンティアックが思いついた作戦は、何気ない様子を装って砦に近付き、無警戒の守備兵を急襲して一気に砦を奪取する作戦である。

まずポンティアックは、五〇人のオタワ族の戦士を連れてデトロイト砦の前に出て、儀礼的な踊りを披露したいと告げた。守将のヘンリー・グラッドウィン少佐は、何の疑いもなく戦士達を砦の中に招き入れた。踊りの最中に秘かに数人が抜け出て、砦の防衛施設を探って回る。踊りを終えたポンティアックは、グラッドウィンに再会を約して去った。

他の仲間たちのもとに帰ったポンティアックは決起を前にして熱弁をふるう。

彼ら[イギリス人]が我々の破滅を願っていることは間違いない。したがって、我が兄弟たちよ、我々は彼らを撲滅しなければならず、これ以上、座視できない。我々を妨げるものは何もない。彼らの数は少なく、我々は容易に勝てるだろう。

それからポンティアックは作戦の説明に入る。

六〇人の戦士たちとともに砦に接近する。トマホーク、ナイフ、そして、銃などの武器はすべて毛布の中に隠す。そして、ポンティアックが貝殻玉のベルトをグラッドウィンに差し出す時に、それを表から裏に返したら一斉に襲い掛かる。

五月七日、ポンティアックは、グラッドウィンに約束した通りデトロイト砦に再び顔を出す。しかし、前回と様子が違って、イギリス兵の警備は厳重である。そうした中、貝殻玉のベルトがグラッドウィンに差し出される。戦士たちはいつベルトが裏に返されるか固唾を呑んで見守った。

しかし、ベルトが裏に返されることはなかった。

翌日、ポンティアックが再び砦の前に姿を見せて説得を試みようとした時、グラッドウィンは大砲をよく見える場所に移動させるように命じた。それが何を意味するのか分からない者は誰もいなかった。奇襲計画は事前に漏れていた。

ポンティアックは、デトロイト砦を奪取するために不本意だが包囲戦を始めるしかない。しかし、もともと奇襲の成功を確信していたので十分な食料や弾薬を準備していない。そこで周辺のフランス系住民に食料や弾薬などの援助を仰ぐ。フランス系住民からすれば、インディアンがイギリス人を追い払ってくれればありがたい。

デトロイト砦が万全の準備を整えていたためにインディアンは攻めあぐねる。ポンティアックができることは、デトロイト砦への物資の供給を止めることしかない。多くの犠牲を伴う突撃に賛成が得られないのでそうするしかなかった。焼き討ち作戦もフランス系住民の反対に遭う。ただ物資の供給を止めることには成功した。物資を運んで来た部隊は、インディアンの襲撃を受けて捕虜になった。

しかし、夜陰に紛れて束縛から逃れた捕虜の一人がグラッドウィンに朗報をもたらす。それは講和が成立して正式に七年戦争が終結したという報せである。なぜそれがこの辺境の砦にとって朗報になるのか。

この周辺のフランス系住民は、フランス軍の支援を期待してポンティアックに協力していた。しかし、講和が成立してオハイオ地方がイギリスの支配下に正式に入れば、もはや抵抗する意味はない。もし今後もこの地に残りたいのであれば、イギリス人と和解する道しか残されていない。

講和の内容が知れわたると、インディアンの間に動揺が走る。フランスの支援をもはや期待できないからだ。戦士たちはポンティアックのもとを次々に去り始める。

しかし、ポンティアックはまだ希望を捨てない。デトロイト砦は陥落していないが、他の多くの拠点や交易所はインディアンの手に落ちている。やがてグラッドウィンも抵抗を諦めるだろう。それにフランスがイギリスと講和したという報せも誤報かもしれない。フランスはきっと戻って来るだろう。

希望を捨てない戦士たちはポンティアックの旗下に留まった。さらにポンティアックは支援に尻込みするようになったフランス系住民を集めて語り掛ける。

我が兄弟たちよ、私は自分たちの土地が死肉ども[イギリス人]に荒らされるのに我慢できなくなりました。あなたたちも同じように感じているのだと思っています。[中略]。これまで繰り返しあなたたちに言ってきましたが、私がこの戦争を始めたのは我々の利益だけでなく、あなたたちの利益を考えてのことなのです。これまで我々がフランスとともにあったようにフランスとともにあり続けましょう。

ポンティアックの説得を聞いたフランス人の中には呼び掛けに応じて、できる限り支援すると約束する者が現れた。こうしてデトロイト砦の包囲は継続する。

フロンティアが戦火で覆われているにもかかわらず、北アメリカ全土の防衛責任を負うべきジェフリー・アマースト将軍は何をしていたのだろうか。アマーストの本営は、フロンティアから遠く離れたニュー・ヨークにある。彼は何を考えていたのか。

インディアンはまったく脅威にならないとアマーストは信じていた。そして、本国に残してきた妻が病に倒れたと聞いて一刻も早く本国に帰りたいと思っている。

アマーストが最初にインディアンの蜂起について受けた報せは、デトロイト砦に対する攻撃ではなくピット砦に対する攻撃であった。デトロイト砦と同じくピット砦も頑強に抵抗した。

もともとピット砦の守備兵は一五〇人ほどである。ピット砦の防衛施設は比較的強固であり、十分な数の大砲を備えている。砦の守将はフォーブズ遠征でも登場したヘンリー・ブーケ大佐だが不在であった。そのためシメオン・エカヤー大尉が留守を預かっていた。

インディアンの蠢動を察知したエカヤーは、抜かりなく籠城の準備を進める。周辺住民に砦の中に避難するように布告する。避難してきた男たちの中から民兵隊を結成して兵力を増強する。さらに兵士たちは、エカヤーの命令を受けて砦の周辺にある建物を取り壊してバリケードを築く。砦の中にはオーブンと鍛冶場が設けられ、水を詰めた樽が各所に配置される。火矢で攻撃された場合の消火に使う。地元の商人からすべての弾薬が買い集められ、弾薬庫に保管された。

リゴニアー砦から少し離れた場所に住むミーンズ夫人は、娘のメアリと一緒に夫の帰りを家で待っていた。血に飢えたインディアンが周辺を徘徊しているという噂が耳に入る。そこでミーンズ夫人は、メアリを連れてリゴニアー砦に避難に向かう。ところがその途中で二人のインディアンに捕まり、母娘は木に縛りつけられてしまう。

しばらくして砦の方角から銃声が聞こえた。戦いが始まったと思って二人のインディアンは、そのまま母娘を残して去る。

午後遅く新たに一人の戦士が森の中から姿を現す。頭皮を剥がれて殺されるのだと母娘は観念して目を瞑る。しかし、何も起きない。恐る恐る目を開けてみると、そこに立っていたのは顔見知りのインディアンだった。名をメイデン・フットという。

ミーンズ一家は、インディアンと白人の間で行われる交易を見物しにリゴニアー砦に行ったことがあった。その時、交易にやって来たデラウェア族の中にメイデン・フットがいた。メイデン・フットは、亡くしたばかりの妹にどこか似た面影がある小さなメアリを忘れられなかった。

母娘はメイデン・フットの手で解放される。そして、メイデン・フットの先導で安全な迂回路を通ってミーンズ家に戻る。そこで夫のロバートが待っていた。メイデン・フットは、沢に沿って山に逃げるほうが安全だとミーンズ一家に教える。小さなメアリは、感謝の印に「メアリ・ミーンズ」と刺繍したハンカチを渡した。ミーンズ一家とメイデン・フットの佳話は、たとえ敵対する陣営にいても人間が理解し合えることを示している。

フィラデルフィアでブーケは、ピット砦を救援しようと動き出す。モノンガヒーラの戦いやフォーブズ遠征の時のように、最大の問題は物資の調達と輸送であった。弾薬がほとんど手に入らない。しかし、小麦は豊富にあったのでさっそく駄馬で運搬する準備が整えられた。できることはやった。あとはニュー・ヨークから応援にやって来る部隊を待つだけだ。

ただ来援もあまり期待できない。アマーストの指揮下には、北アメリカに駐屯する総計八、〇〇〇人が入っていたが、ほぼ半数が新たに占領したカナダに振り分けられ、さらに一、七〇〇人がノヴァ・スコシア地方に配属され、一三植民地を守っていたのは残りの三、〇〇〇人に過ぎない。

しかもアマーストは三、〇〇〇人すべてをフロンティアに差し向けたわけではない。せいぜい五〇〇人程度である。

カナダから十分な兵力を転進させればよいのではという疑問が浮かぶかもしれない。しかし、よく考えて欲しい。カナダは征服が成し遂げられた後、まだ日も浅い。迂闊に駐屯する兵士を動かせない。したがって、フロンティアに割ける兵員は五〇〇人である。必要に応じて民兵を召集すればよいだろう。

北アメリカ全体の防衛を考えれば、アマーストの判断は現実的であった。ただ危機を想像する力には欠けていた。危機に対処するためには、これからどうなるかを予測して大胆な措置を取らなければならない。あまりに慎重に状況を計算できる者は却って果断な行動に出られないことがある。いずれにせよ、ブーケにはわずかな兵力しか与えられなかった。

ブーケは、自らピット砦に救援に向かうことをアマーストに告げるとともに、防備が脆弱な砦を放棄して残る砦の守りを固めたほうが賢明だと提言する。

アマーストはブーケの提言に難色を示す。

砦の放棄は防衛力の低下を招く。そうなればイギリスは恐れるに足りないとインディアンに思わせてしまうので受け入れられない。

両者はまだ知らなかったが、この時、既にデトロイト砦とピット砦を除くほとんどの拠点が陥落していた。

周辺から逃れてきた人々を収容したために、ピット砦に立て籠もる人数は五五〇人近くになった。その中で二一〇人が女性や子供など非戦闘員である。衛生状態が悪化したせいで天然痘が蔓延した。そこでエカヤーは、跳ね橋の下に仮設の病棟を作った。治療というよりもさらなる感染を防ぐための隔離である。

周辺の砦を次々と陥落させて意気上がるインディアンによってピット砦は包囲された。夜、歩哨が「すべて異常なし」と叫ぶと、インディアンに真似をされて馬鹿にされる始末である。

包囲が始まって暫くして休戦旗の下、二人のデラウェア族の指導者がやって来る。そして、周囲の拠点が陥落したことを伝えたうえでピット砦から退去するようにエカヤーに求めた。

エカヤーは指導者に感謝したものの、ピット砦を最期まで守り切るつもりだと答える。そして、イギリスとの友好関係を復活させるように求めた。

二人の指導者は、エカヤーの提言を伝えることを約束した。

同日午後、二人の指導者はピット砦の前に帰って来て、もしエカヤーが十分な量の贈り物を準備すれば友誼を誓おうと述べた。そこでエカヤーは贈り物を準備したが、中には恐ろしい贈り物が含まれていた。それは「天然痘の病棟から出た二枚の毛布と一枚のハンカチ」であった。

これは一種の細菌戦である。天然痘をインディアンの間で流行させて撲滅しようという作戦である。このような恐ろしい作戦をエカヤーは独断で実行したが、アマースト将軍も「離反したインディアンの部族に天然痘を送り付けられるか。奴らを弱体化させるためにできる限りあらゆる戦略を使わなければならない」と述べている。ただアマーストはエカヤーと違って細菌戦を実行していない[ 細菌戦は失敗に終わったと考えられる。恐ろしい贈り物を受け取った二人のデラウェア族の指導者は、一ヶ月後、再び姿を見せたが、特に変わった様子はない。天然痘の潜伏期間は一般的に二週間なので、もし感染しているのであればすでに発症しているはずだ。

歴史家の中にはその当時、オハイオ地方で蔓延していた天然痘をエカヤーの恐ろしい贈り物のせいにする者がいるが、天然痘の蔓延はピット砦が包囲される前から起きていた。ただ天然痘でインディアンを撲滅しようとしたエカヤーとアマーストの悪意は記録しておかなければならない。

ブーケは着々とピット砦の救援に乗り出していた。五年前にフォーブズが切り開いた道を再整備し、家畜や小麦袋を集める。ピット砦から救援が到着するまで食料は何とか足りそうだという報告も届く。ブーケは愁眉を開く。すべての準備が終わって、フィラデルフィアとピット砦の中間にあるカーライルからブーケが出発したのは七月一五日のことである。

救援部隊は五〇〇人の兵士で構成され、駄馬や家畜の世話をする五〇人の民間人が続く。救援部隊があまりに少数過ぎると不安に思いながらもブーケは、「野蛮人どもにふさわしい復讐をします」とアマーストに約束した。

七月一九日、救援部隊はラウドン砦に到着する。

兵士達に一日間の休憩を命じたブーケのもとに後方から驚くべき報せが届く。ペンシルヴェニア植民地議会が民兵隊の投入を拒否したという。

ペンシルヴェニア植民地議会は、民兵隊をインディアンに攻勢を仕掛けるためではなく、多くの入植地があるサスケハナ川沿いの防衛に用いるべきだと主張した。そもそも民兵は郷土防衛のために招集される存在なのでそうした主張は間違いとは言えない。

しかし、ブーケからすれば受け入れられない主張であった。何とかしてフロンティアをインディアンの攻撃から救おうとしているにもかかわらず、なぜ協力を惜しむのか。

たとえ協力が得られなくてもピット砦を見殺しにできない。ブーケはピット砦への進軍を続け、七月二八日、ピット砦とカーライルの中間にあるベドフォード砦に到着した。

こうしてブーケがピット砦に向かっている一方で、アマーストもデトロイト砦の救援に着手していた。

副官のジェームズ・ディエル大尉がアマーストの命令を受けてオールバニーに急行する。ディエルが受けた命令は、オールバニーで救援部隊を編成するとともに北方のオンタリオ砦とナイアガラ砦の守備兵から割けるだけの兵力を加えてデトロイト砦に進軍せよというものだ。

オールバニーに到着したディエルは、まずウィリアム・ジョンソンを訪ねた。

インディアンに関する知識でジョンソンの右に出る者は誰もいない。戦争が勃発してからジョンソンは、どの部族が蜂起に加担しているのかを探り出すとともにイロクォイ六部族連合から友誼の確認を取り付けていた。ジョンソンはインディアンが蜂起しても驚かなかった。以前からインディアンを尊重して十分な贈り物を与えなければ不満が高まるとアマーストに警告していたからだ。

ジョンソンからインディアンに関する情勢を聞き取った後、ディエルは募兵を行う。そして、心強い味方が加わる。フレンチ・アンド・インディアン戦争で五大湖周辺の制圧に一役買ったロバート・ロジャーズ少佐である。

民兵を加えて総勢二〇〇人になった救援部隊は、インディアンの襲撃を受けて若干の負傷者を出したが、首尾良くデトロイト砦に滑り込む。約二ヶ月にわたってデトロイト砦の守備兵は、ほとんど支援を受けずにインディアンの包囲に耐えていた。まさに干天に慈雨を仰ぐ思いである。

砦の中に入ったディエルは早速、守将のグラッドウィンと今後の作戦について協議する。

問題になったのは、ポンティアックに復讐するためにオタワ族の集落に奇襲を仕掛けるか、それとも防衛に徹するかである。

グラッドウィンは、まだインディアンの兵力が多く残っているので奇襲を試みるのは危険だと主張する。しかし、ディエルは、インディアンを懲罰せよという命令をアマーストから受けていると反論する。

結局、グラッドウィンはディエルの反論に押し切られた。

七月三〇日午前二時三〇分、デトロイト砦の門が音もなく開く。そこから数人ずつ人影が滑り出る。月は明るく輝いているが夜霧で視界が遮られている。兵士たちは銃剣を装着していた。敵を発見した場合、発砲すれば気づかれてしまうからだ。隠密行動に銃剣は欠かせない。

水門から二隻のボートが川面に浮ぶ。旋回砲を運ぶためのボートである。兵士達と平行して進む。

ポンティアックは、イギリス側の動きを察知していた。そこで罠を仕掛けることにした。

オタワ族の集落に行くために渡らなければならない橋がある。橋を渡ったところを襲撃して背後を遮断する。そうすれば袋の鼠である。インディアンの戦士達は持ち場に散って身を潜める。

ディエルは見事に罠に引っ掛かる。突然の一斉射撃に多くの兵士が倒れる。ディエルも太腿に銃創を負う。士官は兵士に反撃を命じたが、物陰に隠れて巧みに銃撃を浴びせてくるインディアンにはほとんど効果がない。

ディエルに残された選択肢は二つだ。

このまま前進を続けるか、それとも態勢を立て直して後退するか。

ディエルが決断を下すことができずに躊躇している間にも死傷者の数は増える。敵の隙を窺いながら兵士達は、傷付いた仲間をボートに運び込む。

一時間程、銃火の応酬が続き、遂に退却が命じられる。

イギリス軍が退却するのを見たインディアンは容赦なく追撃を加える。道に沿って身を寄せ合いながら退却する兵士達は格好の的だ。

一軒の家から多数の銃弾が飛来するのを見て取ったロジャーズは、手兵を差し招くと吶喊して敵を追い散らす。そして、奪取した家に陣取って、目に付くインディアンを片っ端から狙撃して本隊の退却を援護する。

撤退を指揮するディエルの目に道端で倒れて呻いている軍曹の姿が映る。

誰もが自分のことで精一杯で手を差し伸べる者はいない。放置できない。もしそのまま軍曹が取り残されれば、インディアンによって頭皮を剥がれるだろう。

ディエルは、自分の立場を忘れて軍曹に駆け寄る。

そこへ近くで身を隠していたオタワ族の戦士が飛び出す。そして、ディエルに身振りで降伏するように示した。ディエルが降伏を拒絶するとマスケット銃が発射される。銃弾はディエルの生命を奪った。

指揮官を失った部隊は、そのままデトロイト砦に向かって敗退を続ける。

ロジャーズの一隊が立て籠もる家に負傷した士官と兵士が運び込まれる。他に安全な場所はどこにもない。家の外を跋扈するインディアンの数は増える一方で、盛んに銃撃を家に浴びせてくる。負傷者をどうすれば救えるか。

幸いにもロジャーズは見捨てられていなかった。二隻のボートが岸辺に姿を見せる。ボートに搭載された旋回砲から発射された葡萄弾が敵を一掃する。その隙にロジャーズは負傷者をボートに乗せるように命じた。

ボートを見送った後、ロジャーズと三〇人の兵士たちは、本隊の後を慕って撤退を開始する。向かう先にまた一軒の家が見える。

家の中を確かめたロジャーズは、すばやく兵士たちに守りを固めるように命じる。

そこへインディアンが追いつく。彼らはすでに本隊の追跡を諦めていたが、目の前の獲物を逃がすつもりはない。

四方八方から家の中に銃弾が飛び込み、硝煙が濛々と立ち込める。

この家の住民はどこへ行ったのか。実は逃げていなかった。地下室に隠れていた。主人だけが地下室の入り口に通じる跳ね上げ戸の上で頑張っていた。混乱した兵士が地下室に割り込むのを防ぐためだ。

兵士たちの中にはウィスキーを見つけて飲んでしまい酔っ払う者もいたが、ほとんどの者はロジャーズの下知に従って冷静に家の外へ銃弾を撃ち返す。

この小さな家をめぐる包囲戦は二時間続いた。ロジャーズの一隊を救ったのは、またもや二隻のボートであった。負傷者を送り届けた後、友軍を救いに戻って来たのだ。

ボートから発射される葡萄弾の威力を恐れたインディアンは、包囲を解いて姿を消す。こうしてブラッディー・ランの戦いは終わった。もしロジャーズの一隊の勇戦がなければ、死傷者はもっと増えていただろう。

デトロイト砦の包囲戦が続く一方で、ピット砦の包囲戦も続いていた。砦の外にいる部族の顔触れは、ミンゴ族、デラウェア族、ショーニー族、オタワ族、そして、ヒューロン族と枚挙に暇がない。しかも各地に散っていた戦士達が戻って来て、ますます意気盛んである。

しかし、族長達の表情は明るくなかった。攻撃側には、包囲戦を早く終結させなければならない事情があった。食料である。戦士たちの数が増えれば、それだけ多くの食料が必要になり、調達も困難を極める。

七月二六日、族長達の中から数人の代表が砦の前に出てエカヤーとの会談を要求した。デラウェア族の族長が一行を代表して演説する。インディアンができる限り友好関係を保とうとしてきたことを強調した後、イギリス人に対する非難を加える。

兄弟たちよ、あなたたちは街を作り、この場所をあなたたちのものにしようとしています。この場所が我々の土地だと知っているはずです。あなたたちがこの土地に入って来ることですべての部族を侵害しています。あなたたちがあなたたち自身の土地にいれば友好関係が破られることは決してないのです。

演説を終えた族長は、各部族から受け取った貝殻玉の束をエカヤーに示す。それはすべての者の死を意味する。すなわち、もしイギリス軍が砦を放棄して撤退しなければ、全員の生命はないという最後通牒である。そして、族長達は無言で自分たちの陣営に引き返す。

族長の演説がエカヤーを反省させることはない。それはエカヤーがインディアンに送った返答を見れば分かる。

白人がアメリカに住み続ける限り、我々はここを放棄するつもりはありません。ここは我々の家です。あなた達は、理由もなく挑発されたわけでもないのに、我々を攻撃しました。あなた達は、我々の兵士たちや交易商人たちを虐殺したり、拉致したりしました。あなたたちは、我々の馬や牛を奪いました。それにも拘わらず、あなた達は、兄弟であるイギリス人に善心を抱いていると言いました。どうすれば私はあなたたちを信じられるでしょうか。

もちろんインディアンは、エカヤーの言葉に耳を貸さず、昼夜を分かたず銃撃を始める。弾薬を節約するためにエカヤーは、標的を十分に狙える時を除いて反撃を禁じる。さらにインディアンは火矢を放って砦を焼き払おうとする。幾つかの建物に若干の被害が出たものの、男たちが防戦に努めるかたわら、女たちが消火隊を結成して火の回りを食い止める。

銃撃が続く中、別の戦士たちがカヌーに乗り込んで水上から砦に接近を試みた。砦から六ポンド砲が火を噴いて次々にカヌーを沈める。戦士たちは命からがら川岸に泳ぎ着く。

八月一日午後、間断なく続いていた銃声が嘘のように止む。攻撃側の銃弾が尽きたのか。そうではなかった。

ブーケからエカヤーに宛てた手紙を持った使者がインディアンに捕えられた。その手紙は救援部隊がすぐ傍まで迫っていることを伝えていた。このままでは挟み撃ちにされてしまう恐れがあると族長たちは考え、今後の方針を決定するためにいったん、攻撃を停止した。

ピット砦の兵士たちも銃撃が止んだ理由をすぐに知ることになった。捕えられた使者が解放された後、その理由をエカヤーに伝えたからだ。

八月二日、ブーケ率いる救援部隊は、ピット砦の東にあるリゴニアー砦まで到達する。ブーケはインディアンが攻撃を仕掛けてくることを予測していた。荷馬車を後方に回して小麦袋を駄馬に積み替える。またこれまでの行軍で疲労した兵士達に二日間の休息を与え、軍務に耐えられそうにない者を後に残す。そして、行軍が再開された。

翌日、兵士たちはブッシー・ランの屯所まで辿り着いて近くの小川で喉の渇きを潤す。ピット砦に補給するための食料を積んだ駄馬が延々と続く。

ブーケは屯所に立って、これから向かう先に待ち受ける難所を眺める。険しい岩がちの丘陵が折り重なるように広がっている。背の高いオークの木が聳え、深い緑をなしている。もしインディアンが伏兵を配置していれば、これ以上、最適な場所はない。

午後一時、丘陵を縫う山道を救援部隊は進む。隊列は半マイル[約〇・八キロメートル]にわたって伸びている。

突然、前方から鬨の声が湧き起こる。

ブーケの対応は迅速であった。兵士達は背嚢を下ろして左右に展開して戦闘態勢をとる。さらに露払いを務める兵士達を支援する一隊が送り込まれる。

かつてモノンガヒーラの戦いでブラドック配下の兵士たちは、恐慌に陥ったが、ブーケ配下の兵士たちは違った。

命令を受けた一隊が、規律正しく銃弾を撃ち返しながら、高台に陣取るインディアンを追う。そして、そのまま高台を占拠して味方を援護する。

インディアンの戦士たちは、すばやく半月型の包囲網を立て直す。そして、木の陰から木の陰へ移りながら執拗に銃撃を続ける。

じりじりと腹背が蚕食されているのを知ったブーケは、このままだとモノンガヒーラの戦いの二の舞になると考える。銃剣を装着して突撃せよと全軍に命令が下る。突撃は包囲網を食い破る。しかし、身を躱した戦士たちは、すぐに別の場所に現れてまた攻撃を仕掛けてくる。

そこへさらに後方から銃声が聞こえた。駄馬が襲われているとブーケは瞬時に悟る。兵士たちは、駄馬を守るために整然と後退を開始する。それは戦略的撤退であって決して敗退ではない。

ブーケは、駄馬を中心に防御陣形を築くように命じる。道に沿ったなだらかな丘陵を中心に兵士たちは、決死の覚悟で円陣を構える。丘陵の片側が切り立っているので守るのに好都合だ。怯えた馬夫が藪に隠れる一方、ブーケは、兵士たちに駄馬から小麦粉袋を下ろして積み重ねるように指示する。即席の防壁だ。

硝煙が濛々と立ち込め、木々の間を栗鼠のように跳ね回るインディアンの姿を隠す。しかし、時折、赤や黒の鮮やかな顔料が塗られた戦士たちの体が見えた。

戦闘は夜まで続いた。兵士達は屈することなく耐え抜いた。日が落ちた後、小麦粉袋の防壁の中では、負傷者の呻きが充満していた。

ブーケが死傷者の数を確認すると六〇人にのぼった。怪我を負っていない者も疲労困憊して喉の渇きに悩まされている。流れ弾を受けて死んだ駄馬がそこかしこに転がっている。逃げてしまった駄馬もいるようだ。駄馬がいなくては負傷者を抱えて撤退することもできず、ピット砦に食料を運び込むこともできない。絶望的な状況に陥ったブーケはアマーストに次のような報告を書く。

我々がいかなる運命を辿っても、この地方の安全のために、そして、ピット砦を救援するためにできる限り適切な措置をとるように閣下に求める必要があると考えました。もう一度戦闘があれば、持ちこたえられないのではないかと思います。

朝日が昇ると戦闘が再び始まる。

イギリス軍を怯えさせようとインディアンの戦士たちは、不気味な鬨の声を上げる。流暢な英語で悪罵を投げ付けてくる戦士さえいる。

兵士たちは、即席の砦に忍び寄る戦士たちを銃剣でひたすら薙ぎ払い続ける。延々と同じことが繰り返される。いずれ銃剣は折れ、弾薬は尽き、その場しのぎの防壁は蹂躙されるだろう。

ブーケは、どうすれば難局を打破できるのか考えた。すべての兵士たちの生命が懸かっている。そして、ピット砦の命運も。

インディアンは銃剣突撃に弱い。またイギリス軍は、火力を集中させて一斉射撃をおこなうことに長けている。しかし、戦士たちは森の中に散開しているので銃剣突撃も一斉射撃も効果がない。それならば最大限に銃剣突撃と一斉射撃が効果を発揮する状況を作り出せばよい。どうすればそのような状況を作り出せるのか。

ブーケはさらに考える。インディアンを開けた場所に誘い出す必要がある。どうやって。抵抗を諦めて退却するふりをすれば、敵は油断して森の中から姿を現して追撃にかかるだろう。

午前一〇時、ブーケは士官たちを集めて作戦を伝える。士官たちは各自の配置に散る。一隊が持ち場を離れて後退を始めた。もちろん佯走である。

それが偽装とも知らずに戦士たちはマスケット銃を脇に置き、トマホークを手にして勝鬨をあげながら防壁に殺到する。

隠れていた一隊が立ち上がる。そして、至近距離から一斉射撃を行った後、広刃の剣と銃剣で切り付ける。強烈な不意打ちを受けて戦士たちは次々と倒れる。

さらに第二の伏兵が続いて混乱するインディアンに一斉射撃を容赦なく叩き付ける。

作戦成功。多くの犠牲者を残してインディアンは森の中に逃げ散った。

こうして優れた判断によってブーケはブッシー・ランの戦いで勝利を収めた。しかし、犠牲は大きかった。死傷者は多く、駄馬も失われた。兵士たちは、担架を作って仲間を運ぶ準備を整えた。防壁に使われた小麦粉袋は大部分が廃棄された。駄馬が足りず運べないからだ。

二日間にわたる熾烈な戦闘を終えた兵士たちは、小川のほとりに軍営を築いて身を休めた。インディアンの一隊が戻って来て銃撃を放ったが、すぐに追い散らされた。その後、襲撃はなかった。

八月一〇日夜、救援部隊はようやくピット砦に到着する。こうしてピット砦は窮地を脱した。

ブッシー・ランの戦いでイギリス軍が勝利を収めたという報せがフィラデルフィアに届いたのは、それから二週間後のことである。勝利を祝って街中の教会の鐘が打ち鳴らされた。さっそくペンシルヴェニア総督は、「インディアンに対して収めた大勝利」を賞賛する手紙をブーケに送った。

ブーケは、さらなる攻勢を仕掛けるために必要な兵力が送られて来るのをピット砦で待つ。しかし、その期待は完全に裏切られる。イギリス本国から兵員を削減するように命令を受けたアマーストは、ブーケにピット砦から兵力を移すように指示した。

さらにアマーストは、インディアンの集落を報復のために破壊せよと命じる。ウィリアム・ジョンソンは、破壊を止めて贈り物を渡せば和平に応じる部族も出てくるとアマーストを諫めた。しかし、アマーストはジョンソンの忠告を受け入れようとはしない。

アマーストの考えでは、何の挑発も受けていないのにイギリスの砦を襲撃して兵士達を虐殺したインディアンをとうてい許せない。そのような裏切り者にはまず然るべき罰を与えてから待遇を決めるべきであるとアマーストは固く信じていた。インディアンがどのような思いで蜂起したかアマーストはまったく理解していない。

ピット砦が窮地を脱した一方で、デトロイト砦の攻防はまだ続いていた。

長期化する包囲戦の中でインディアンは郷里の家族を思うようになった。そろそろ冬に備えて狩りに勤しまなければならない季節である。砦がなかなか陥落しないことでポンティアックの求心力が次第に低下し、一部のオタワ族の戦士達はポンティアックに背を向ける。さらに疫病の流行が追い打ちをかける。オハイオ地方で猛威を振るっていた天然痘がついにここまで感染の手を広げた。

一〇月一一日、ポンティアックに断りなく一人の族長がデトロイト砦に赴いて和平交渉を提案する。内心では渡りに船であったが、グラッドウィンは、自分の一存では講和に応じられないので、アマースト将軍を納得させられる友好の証が必要だと断る。

結局、族長は、冬に備えて狩りをしなければならないという言葉を残して去る。その言葉通り、インディアンはカヌーに乗って次々に去り始めた。こうしてデトロイト砦の包囲は終わった。

さらにポンティアックのもとにフランス軍の指揮官から流血を避けるように求める手紙が届く。七年戦争の終結を知った指揮官は、インディアンにもそれを正式に伝える必要があると考えたのである。遂にポンティアックも抵抗を断念する。

デトロイト砦を守り抜いた功績によってグラッドウィンは昇進したが、あまり喜んだ様子はない。昇進よりもグラッドウィンは、雪が深々と積もるこの辺境の砦から一刻も早く離れたかった。ブーケに宛てた手紙には、「私はすぐに解放されたいと望んでいます。もし解放されなければ、私は軍務を辞めるつもりです。というのはもはや悪辣で裏切り者の[フランス系]住民やインディアンに囲まれていたくないからです」と書かれている。

デトロイト砦の解放を喜ぶ余裕がない者は、グラッドウィンの他にもう一人いた。アマーストである。

ロンドンから念願の離任を認める指令が届いたのである。翌春の軍事作戦の段取りを性急に決めるとアマーストはイギリス本国へ旅立った。

アマーストの離任を惜しむ者はほとんど誰もいない。それどころかピット砦防衛の立役者であるエカヤーは、「彼の迅速な出発を喜ぶ声が上がり、大量のマデイラ・ワインが飲み干されました」とブーケに書き送っている。寡黙なアマーストが人好きがするような性格ではなかったことも影響している。

その一方、懐かしいロンドンに降り立ったアマーストは、自分が戦争に勝利した英雄として迎えられると思っていた。しかし、思惑は完全に外れる。インディアンが一斉蜂起したのはアマーストのせいだという論調が支配的であったからだ。

アマーストは決して無能ではない。フレンチ・アンド・インディアン戦争でルイブールの攻略を手始めにカナダ征服に成功している。ではなぜ失態を演じたのか。

謹厳実直な性格は、軍事作戦の遂行には向いているかもしれない。しかし、長所と短所は表裏一体である。アマーストは、他人の意見を容易に受け入れられない。冷静に状況を分析できるが、だからこそ自分の判断を強く信じてしまい、他人の意見を受け入れる余地がない。そういう人物は軍事的状況には対応できるが、政治的状況には対応できない。軍事には妥協は必要ないが、政治には妥協が必要だからだ。

ポンティアック戦争に対処するために求められた資質は、軍事的能力ではなく、むしろ政治的能力であった。インディアンの性質を理解して慰撫に努めれば、早々に事態を収拾できただろう。

その証拠に、インディアンが一斉蜂起したのはアマーストのせいだという論調は、彼の軍事的能力の欠陥を指摘しているわけではない。北米イギリス最高司令官として必要な政治的能力がなかったと批判されている。

アマーストの代わりにトマス・ゲージ将軍が北米イギリス軍最高司令官に新たに着任する。

モノンガヒーラの戦いで前衛部隊を率いたゲージ中佐である。その後、北部に転戦して、アマーストがカナダ征服を完了させた時にモントリオールの軍政長官に任命された。そして、今に至る。

ゲージの着任は多くの人々に歓迎されている。なぜならゲージは、狷介で他人の助言を聞き入れようとしないアマーストと比べて、温和で確かな政治手腕を持つ人物だと見なされていたからだ。前任者と違って新しい最高司令官は、インディアン問題を経験豊富なウィリアム・ジョンソンに一任する。

ゲージは当分の間、インディアンの脅威を心配する必要はない。食料が少ない冬にインディアンが大掛かりな軍事行動をとることは稀であったからだ。さらに一七六三年の国王宣言が公表されたという報せが届く。

インディアンが蜂起したという報せを受けて、イギリス本国は方針の転換を図る。アマーストのインディアン政策の失敗を何とか是正しなければならない。インディアンが最も神経を尖らせているのは西部の土地に入植者が侵入して来ることだ。これ以上、インディアンを刺激すべきではない。入植をしばらく抑制して毛皮交易で当面の利益を確保する。インディアンに贈り物を与えたり交易したりして馴撫したほうが武力で制圧するよりも安上がりである。またフランスから獲得した新しい領土を帝国制度に組み入れる過程をできる限り障害なく進めたい。

一七六三年の国王宣言はいったいどのような影響を及ぼすのか。ウィリアム・ジョンソンは冷静に分析する。

インディアンは、イギリスが本気で入植を止めようとしているとは容易に信じないだろう。したがって、春になれば再び武器を取って立ち上がる恐れがある。

そこでジョンソンが駆使したのは外交である。インディアンの部族間の勢力均衡を利用して、蜂起を抑えようという画策である。インディアンのことを熟知していたジョンソンならではの作戦と言えよう。

まずジョンソンは、個人的に深い関係を持つイロクォイ六部族連合の結束を固めた。そして、イロクォイ六部族連合の矛先を、ポンティアックと連携して蜂起したデラウェア族、ショーニー族、ミンゴ族に向けさせる。彼らが防戦に追われれば、ポンティアックに協力できなくなる。

ジョンソンは、インディアンを利用することを知っていた。ジョンソン自身がインディアンの力を借りてのし上がった人物である。前任者のアマーストは、インディアンを同盟者として扱うという考え方を軽蔑していたが、ゲージはジョンソンを全面的に信頼してその画策を支持した。

ジョンソンに唆されたイロクォイ六部族連合は、デラウェア族、ショーニー族、ミンゴ族の集落に次々と戦士たちを送り込んだ。ジョンソンは、そうした遠征のために物資を準備して応援するだけではなく、血気盛んなフロンティアの住民を同行させた。集落を襲撃されたデラウェア族、ショーニー族、ミンゴ族は完全に沈黙する。

次にジョンソンが目を向けたのは、デトロイト周辺の敵対部族である。ポンティアックのオタワ族をはじめとして、ヒューロン族、ポトワタミ族、チペワ族を合わせると、おそらく三、〇〇〇人の戦士を擁する。それに対してイロクォイ六部族連合は、フランスに友好的なセネカ族が離反していたために、集められる戦士の数は九〇〇人にすぎない。

武力による脅迫は、相手よりも圧倒的な実力がある時にしか効果を発揮しない。したがって、デラウェア族、ショーニー族、ミンゴ族に対してとったような画策を強行できない。

そこでジョンソンは、ゲージと相談のうえ、五大湖周辺の諸部族と正式に講和することにした。ジョンソンの考えでは、五大湖周辺の諸部族は、フランスからの支援が絶たれ、交易が滞っているために困窮しているはずだ。交易の再開を条件にすれば素直に講和に応じるだろう。

ジョンソンの緩急を抑えた外交のお蔭でゲージは、非常に有利な状況で翌春を迎えられた。しかし、インディアンの蠢動が完全に収まったわけではない。

ジョンソンの外交手腕によって羽翼をもがれたポンティアックは、フランス軍の指揮官を頼って、はるばるミシシッピ川の東岸まで赴いて説得に努める。フランスが大人しく手を引くとはどうしても思えなかったからだ。

フランス軍の指揮官は、ポンティアックの話を聞いたものの、イギリスに敵対する意思を持たないと明言した。そして、弾薬やその他の物資を求めるポンティアックの要請を斥けて、早急に郷里に帰るように促す。再びイギリスに対して立ち上がろうとするポンティアックの努力は水泡に帰す。

失意のポンティアックに止めを刺したのがジョンソンである。一七六四年7七月七日、ナイアガラ砦に一、七〇〇人のインディアンが集まった。戦うためではない。友好のためである。

続く三週間、ジョンソンはオタワ族、チペワ族、ヒューロン族の代表と会談して多額の贈り物をばら撒いた。その後、ブーケの手で大規模な部隊が編成されて遠征が行われたが、それは軍事行動というよりもインディアンの恭順を確認する作業であった。友好の証としてインディアンから捕虜が次々に返還される。

捕虜の中には残虐な扱いを受けた者も中にはいたが、集落の一員として迎えられた者も少なくなかった。戦士達は、そうして迎え入れた妻や子供を慕ってどこまでも付いてきた。しばしば途中で捕まえた獲物を手土産に妻や子供の顔を見に軍営を訪れたという。

遠征隊がピット砦に帰還した時、多くの再会劇がくり広げられた。そうした再会劇はどれもが愉快なものだとは限らなかった。あまりに長い間、インディアンとともに暮らしていたせいでもともとの習慣をなかなか思い出せない者もいたからである。あるインディアンの族長は、「我々は捕虜達に十分に配慮した。まるで自分の血肉のようにだ。彼らはあなたたちの習慣や作法を忘れているかもしれない。だからできるだけ彼らに親切にして欲しい」と言い残した。

捕虜たちの帰還でポンティアック戦争は幕を閉じた。一般的にポンティアック戦争はイギリスの勝利だと言われている。しかし、本当にそうだろうか。

イギリスは、少なからぬ戦費と数百人の犠牲者を出してオハイオ地方と五大湖周辺の諸部族の蜂起を鎮圧した。それだけ見るとイギリスの勝利のように思える。ただ得られた成果は非常に少ない。

インディアンは譲歩したものの、イギリスに完全に従属したわけではない。アパラチア山系以西の土地は当然ながらすべて自分たちのものだと思っていたし、もしイギリスが今後、新たに砦を築くつもりであれば貢納金を出すべきだと思っていた。

その一方でポンティアック戦争は、フロンティアの人々の心に重大な変化を与えた。後に独立戦争が起きた際にフロンティアの人々はその多くが独立を支持した。なぜか。

ポンティアック戦争を経験した人々は、イギリス本国のインディアン政策について不満を抱いた。そうした不満がイギリス本国に対して武器を取る大きな原動力になった。そもそもフロンティアの人々は、ウィリアム・ジョンソンに言わせれば、「無法者の集団であり、自立を何よりも好み、無知と偏見と衆愚的な原理を持っているので政府を意にも介さない」人々であった。彼らの精神を一言で表せば独立不羈であり、どのような権威であろうとも容易に認めようとしなかった。

そのうえポンティアック戦争の副産物として生まれた一七六三年の国王宣言も植民地人にその政策意図をほとんど理解されなかった。入植の禁止は、土地投機に手を染める者を憤慨させた。また見過ごされがちであるが、一七六三年の国王宣言には、入植の禁止の他にインディアンとの交易に関する規定もある。すべての交易商人は、交易に従事する際に総督の許可を要するという規定だ。

なぜこのような規定を付け加えたのか。イギリス本国は、悪質な交易商人によって騙されたインディアンが腹を立てないようにしたかったのだ。しかし、それは、植民地人、特にインディアンとの交易で潤っているフィラデルフィアやニュー・ヨークの商人たちにとって自由に交易する権利を侵害する政策であった。

さらに一七六三年の国王宣言は、フロンティアを統治する現実的な方策という行政的な面に加えて、北アメリカ植民地の西部への拡大を阻止することでその自立精神を挫こうという政治的な面がある。アメリカ人を海岸地帯に縛り付けておけば、イギリス本国から今後もずっと品物を輸入し続けてくれるだろう。しかし、遠く手の及ばない西部にアメリカ人が入り込めばどうか。本国への愛着と依存を忘れて独立国を作ってしまうかもしれない。

つまり、一七六三年の国王宣言は、イギリス本国にとってインディアンの不信感を払拭して将来の紛争の種を取り除くだけではなく、北アメリカ植民地の自主独立へ向かおうとする動きを牽制するという一石二鳥の政策であった。

その後のポンティアックについて簡単に触れておこう。

一七六六年七月二三日、ウィリアム・ジョンソンは、オスウィーゴ砦でポンティアックと正式な講和を結ぶ。ポンティアックは会談の場で「私の指揮下にある西方の諸部族」といった呼び掛けを用いたのだが、こうした態度は他の指導者たちの反感を買う。インディアンからすれば、それは権威の壟断に他ならない。尾羽打ち枯らしたポンティアックはオタワ族から追放される。ある交易商人は「もしイギリスが十分な注意を払わなければ、ポンティアックは一年以内に殺されてしまうだろう」と述べている。

一七六九年四月二〇日、ポンティアックはピオリア族の戦士とともに交易所にやって来た。おそらく何か必要なものがあったのだろう。用事を済ませた後、ポンティアックが交易所を出ようとした時のことである。

ピオリア族の戦士は、突然、棍棒を振り上げるとポンティアックの後頭部に渾身の一撃を与えた。その場に崩れ落ちたポンティアックに馬乗りになった戦士はナイフでとどめを刺した。

政治的暗殺ではない。詳細は不明だが、個人的怨恨による殺人だとされている。

イギリス帝国に敢然と挑戦した男にしてはあまりに呆気ない死であった。歴史家のフランシス・パークマンは次のように嘆いている。

森林の英雄の墓の上に街ができている。彼が憎んだ人種[白人]が忘れ去られた墓の上を騒々しく歩いている。

※メイデン・フットのその後についてはアメリカ人の物語【番外編】老戦士

※この時代についてもっと詳しく知りたい方は『アメリカ人の物語1 青年将校ジョージ・ワシントン』を参照して下さい。書籍版とKindle版がありますが、前者は編集の手が入った商業版、後者は未整理の内容も含む私家版です。私家版は『アメリカ人の物語合本版1』です。

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