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死者4,000人。18世紀アメリカで疫病が流行した時に起きたこと。

 一七九三年夏、数多くの亡命者がサン・ドマングからフィラデルフィアの港に到着した。それからしばらくすると、ひどい寒気で身体の震えが止まらないという奇病が沿岸部の住民の間で蔓延した。犠牲者は真っ赤な目をして黒い嘔吐物を吐いて呻吟する。奇病の最大の特徴は病人の黄ばんだ肌である。その年の夏は雨が極度に少ない猛暑であり、疫病の流行に拍車をかけた。

 八月二二日、疫病に警戒するように当局がようやく市民に警告する。街の医師たちは疫病の正体を探り始める。現代の我々は医学の進歩のおかげで疫病の正体を知っている。黄熱病である。しかし、当時、黄熱病は原因不明の奇病であった。沼沢地から立ち上る瘴気が原因だと主張する者がいた一方、人間の身体の中に黄熱病を起こす何らかの種がもともと内在していると指摘する者もいた。また黄熱病がどこで発生するかについても統一された見解はなかった。ある者は黄熱病が西インド諸島からもたらされると主張する一方、別の者は黄熱病はもともと北アメリカ大陸にあるものだと主張した。わかっていることは、黄熱病が人口が集中した都市、それも不潔な場所で起こりやすいということ、そして暑い季節に流行しやすいということだけであった。

 当局はサン・ドマングからやって来た人びとを隔離したが、人から人への直接感染の危険性がほとんどない黄熱病に対してあまり効果はない。どうすれば疫病を防げるかわからなかった医師たちは、疲労、厳しい日差し、夜気、過度の飲酒など抵抗力を損なうようなものを避けるように市民に勧告することしかできなかった。

 フィラデルフィアを襲った黄熱病に敢然と立ち向かったのは、街で一番の名医という評判を得ていたベンジャミン・ラッシュである。ラッシュは不眠不休で富者も貧者も分け隔てなく治療した。しかし、ラッシュが施した治療はとても恐ろしいものであった。瀉血と腸の洗浄である。下剤と浣腸を使って腸を空にして、それから瀉血するという何とも乱暴な処方である。瀉血はこめかみの血管に切り目を入れたり、蛭を吸いつかせたりすることでおこなわれた。特殊な治療法ではない。二日酔いの治療にさえ使われるようなごく一般的な治療法である。おそらく黄熱病には何も効果がなかったに違いない。ただ病気を恐れず患者を診察したラッシュの勇気を賞賛するべきだ。もちろんフィラデルフィアには他の医師たちもいた。彼らはいったい何をしていたのか。フレノーは次のように皮肉っている。

見よ、鼻に海綿を当てられて跳ね回る馬に乗って街からやぶ医者が逃げて行く。彼が行く所にはどこであれ樟脳とタールがある。疫病という名の死の棍棒はそのような物などもろともしないのに。香気の中に安全を求めて彼は自分自身を守るために我々を残して去って行った。

 医師たちよりも忙しく立ち働いている者がいた。棺桶屋たちである。市庁舎の前には、彼らの商品がずらりと並べられていた。やがて迎える主人を待って。中にはまだ生きているのに棺桶に詰め込まれる者もいたという。ただ誰もが立派な棺桶を永遠の眠りの場にできたわけではない。棺桶はそれなりに値が張る。さらに需要が高まってそれに応じて値段も上がっていたはずだ。貧しい人びとが買えるような物ではない。

 市民は、酢や樟脳を染み込ませたハンカチを鼻や口に当てて外出した。酢や樟脳は疫病の防止に効果があると信じられていた。いかなる迷信からなのか、にんにくを噛めば効果があると信じている者もいて、悪臭をまき散らしながら歩いていた。知り合いに街の中で会っても互いに感染を恐れて避け合ったせいで握手をする習慣は完全に廃れた。またこれもいかなる俗信なのかはわからないが、酸素の量を増やすために火薬が使用された。疫病で汚染された空気を除去するためにタールが燃やされたが、それは街の空気を汚染するだけであった。唯一、効果があったと思われる対策は通りと波止場の清掃である。

 黄熱病の流行をフィラデルフィア市民はどのように感じていたのか。フィラデルフィアのある商人は疫病について克明に記録している。実際にその目で見たものならではの生々しい記録である。

八月になって黄熱病が急速に蔓延したので、退去できるすべての市民は郊外に安全な場所を求めた。私の父はデラウェア川のほとりにあるブリストルに家族を移し、私も八月末日に父の後を追った。商業上の取引が残っていて、さらに波止場にリバプールへの積荷を載せた船が待っていたので、私は九月八日に街に戻らなければならなくなり、九日もそこで過ごした。[中略]。すべてが陰鬱に見え、九日に報告された使者は四五人を数えた。午後、郊外へ帰ろうとした時、私はフランス革命から逃れてきたノアイユ子爵の邸宅の前を通り掛かった。ノアイユ子爵が扉の前に立っていて、私を呼び止めると、街でいったい何をしてきたのかと聞いた。そして彼は「できるだけ早く逃げろ。我々の周りをすべて疫病が取り巻いている」と言った。[中略]。八月には一日当たりの患者が十人であったのに、十月には一日当りの患者が一〇〇人になるという黄熱病の急速な蔓延は、医師たちを恐怖に陥れ、しばしば矛盾した治療法が導入された。彼らは当局と同じく完全に不意を打たれた。気の毒な人びとの苦しみを和らげる準備をしている病院や薬局は一つもなかった。長い間、死者に棺をあてがって葬る以外にできることは何もなかった。[中略]。個々の家庭では、親、子供、召使が長患いの末にしばしば手を差し伸べる人もなく亡くなった。富裕な人びとはすぐに逃げた。恐れを知らぬ者や無頓着な者は自ら街に残ったが、貧者は仕方なく街に残った。住民の数は二分の一になった。疫病はますます猖獗をきわめ、前日に元気であった者が翌日に葬られるということもよく起きた。焼け付くような高熱は激しい発作を引き起こし、患者はベッドから起き上がって裸で通りに出て近くの川に向かうが、最後は溺死してしまう。狂気がしばしば疫病の最終段階になった。

 墓地の埋葬記録やその他の文書から推計すると、黄熱病の流行で少なくとも四、〇〇〇人が命を落としたと考えられる。九月末までに街の人口の半分近くの市民がフィラデルフィアから逃げ出したが、それでも二万人以上の住民が街に残っていた。

 荒れ狂う黄熱病の猛威に対して連邦政府ができることはなかった。そもそも黄熱病対策として何をすべきか知っている者は誰もいなかったし、連邦政府に対策を実施する権限はない。人民に施療や救恤をおこなう権利は伝統的に地方自治体や教会に属していた。連邦政府が自ら対策に乗り出せば、そうした権利を奪うことになりかねなかった。そもそも対策を講じようにも、多くの官吏が街から退避したので官庁はがら空きになっている。

 フィラデルフィア州議会は、州議会議事堂の前で死体が発見されたので感染を恐れて会期を切り上げて解散した。トマス・ミフリン州知事は体調を崩して、街を離れるように医師から勧められた。フィラデルフィアの銀行は通常業務を継続していたが、その活動は停滞していた。

 有効な対策がなくても無策のまま事態を放置することはできない。フィラデルフィア市長マシュー・クラークソンが立ち上がる。市議会議員のほとんどが街から逃げ出した後も街に残ったクラークソンは、対策委員会を組織して陣頭指揮を執る。対策委員会は、黄熱病患者を受け入れる病院を再編し、病人を病院に運ぶ荷馬車を準備し、食料を手配し、死者を埋葬地へ運んだ。

 ある病院の視察に訪れた委員の一人はその光景に絶句した。病人、死にかけている者、すでに死んだ者が何の区別されずに横たわり、床は排泄物で足の踏み場もなかった。委員の提言によってすぐに改善が導入された。ベッドは修繕され、死者は葬られ、快方に向かっている患者は近くの納屋に移されて区別された。

 官庁に残っていた官吏にも黄熱病の犠牲者が出た。財務省で六人、税関で七人、郵便局で三人の死者が出た。ハミルトンにも発熱の徴候が現れた。幸運なことに、ハミルトンの友人である医師がフィラデルフィアに来ていた。その医師は黄熱病を診察した経験を多く持っていて、瀉血と下剤という従来の治療方法は身体を弱らせるだけだと反対して別の治療方法を提唱していた。キナ皮とマデイラ・ワイン、そして、吐き気止めのハーブを処方した。ワシントンも疫病に効果があると信じてすぐに六本のワインを次のような手紙に添えてハミルトンに送った。

流行している熱病に罹ったのではないかとあなたが心配しているのを知って私はとても心を痛めています。それが事実無根であればよいのにと思いますが、病気の症状が緩和されるのであれば、適切で時宜に適った処置を恐れることはありません。

 はたしてワインが黄熱病に効果があったか疑問だが、瀉血と下剤よりはましだろう。発熱から回復したハミルトンは、オールバニーにある妻の実家に逃れた。ワシントンがハミルトンを心配する温かい手紙を書いた一方、ジェファソンはハミルトンの「熱病」をマディソンに次のように説明している。
ハミルトンは熱病に罹っているそうです。一昨日の夜、彼は二人の医師の診察を家で受けました。彼の家族は彼が危険な状態にあると思っていますし、彼自身も神経を尖らせてそのように思い込んでいます。きっと伝染病に罹ったに違いないと確信した彼はここ数日間、惨めな状況にありました。水上でも馬上でも病気の時と同じように臆病な男が、戦場で本物だという折り紙付きの勇気を持っているとは不思議なことです。彼と直接会っていない友人たちは、それが単なる秋風邪ではないかと疑っています。

 なかなか辛辣な手紙である。この手紙からジェファソンのハミルトンに対する敵意が並々ならぬものだとわかる。戦場に立った経験を持たないジェファソンがハミルトンの勇気について批評するのはいささか筋違いのように思える。

 本来備わった勇気からか、それとも死に対する諦観からかワシントンは疫病を恐れず泰然自若としていた。しかし、事態が悪化していると認めざるを得なかった。そのためワシントンは、ネリーとウォッシュを連れてマウント・ヴァーノンに退避するようにマーサを説得しようとした。しかし、マーサは夫のそばから離れようとしなかった。この死に魅入られた街にどうして夫を独りで残して行けるだろうか。

 ワシントンはマーサと子供たちを守るためにフィラデルフィアを離れることにした。ワシントン夫妻は、マウント・ヴァーノンに一緒に来るようにポーウェル夫人に呼び掛けた。しかし、ポーウェル夫人は、公務を続ける夫を助けるためにフィラデルフィアに残る道を選んだ。

 硫黄で燻蒸消毒された各省庁では一握りの職員だけが残って奮闘していた。大所帯の財務省でさえ残っているのはわずかに二、三人しかいない。病魔に倒れたハミルトンに代わって陣頭指揮を執っていた財務次官のオリヴァー・ウルコットは、フィラデルフィアの状況について次のように報告している。

恐ろしい病気の惨害は拡大していて、状況はますます困難と恐怖に陥っています。今、多くの人びとが看護を受けることなく死んでいます。心のこもった看護や哀悼と同情の涙は苦痛を和らげ、死に行く者がその運命を受け入れられるように慰められますが、最も親しい友人や親戚でさえ、しばしばそのようなことをおこなおうとしないのです。

 財務省はまだ恵まれたほうであった。国務省に至っては登庁する官吏はたった一人の事務官だけになった。これでは仕事にならないと判断したジェファソンもヴァージニアの自宅に向けて旅立つ。

 マウント・ヴァーノンに落ち着いたワシントンは、政府機能を維持する方策を検討する。どのような非常事態でも共和政体が揺らがないことを示さなければならない。疫病が蔓延するフィラデルフィアの代わりに閣議や議会を開催できる都市はないか。ただ一つだけ問題がある。大統領の独断で首都機能を移してもよいのか。とりあえず議会をどこで開くべきか相談する手紙が閣僚に送られた。

 ランドルフは、大統領がそうした権限をはたして持っているか疑問に思いながらも、黄熱病が沈静しそうにないのでランカスターを議会の開催地として選択してはどうかと回答した。その一方でジェファソンは、憲法の厳密な解釈によれば、どのような状況であろうと連邦議会の開催地を首都に限るべきだと主張した。ジェファソンの解釈に対してハミルトンは、大統領が首都機能の機転を勧告できると断言した。そして、ジャーマンタウンがフィラデルフィアから一番近く最適の場所であると勧めた。

 十月二二日、ティモシー・ピカリングは、政府を移せるかどうか確認するためにジャーマンタウンの視察に向かった。ジャーマンタウンにある建物を使えば、政府を機能させられるとわかった。フィラデルフィアからジャーマンタウンに避難した人びとは、さらに他の地方に散ってしまっていたので、政府関係者の宿舎として使える部屋を十分に確保できた。翌日、ピカリングはワシントンに報告を送った。

第一の目的は、近隣で最も便利な家をあなたのために準備することです。もしあなたがそれを適当だと考えればすぐに滞在できます。準備が整いしだい、私はすぐにあなたに伝えます。先の手紙で言及したように熱病は、街[フィラデルフィア]から感染を持ち込んだ者を除いてジャーマンタウンでは蔓延していないようです。

 十月二八日、ワシントンはジャーマンタウンで開かれる閣議に出席するためにマウント・ヴァーノンを出発した。ボルティモアでジェファソンと合流した後、十一月一日、ジャーマンタウンに到着した。

 ジャーマンタウンは首都から逃れてきた人びとでごった返していた。ワシントンは、小さな家を借りて大統領官邸から運び出した家具を据えつけた。その一方でジェファソンは、宿屋の隅に押し込まれた狭いベッドで一夜を過ごさなければならなかった。やがてジャーマンタウンで閣議が開かれ、小なりといえども政府機能は維持された。ただハミルトンは発熱の後遺症に悩まされていたようで、閣議に顔を出さなかったり、何かを忘れてしまったりすることがよくあった。

 気温が下がるにつれて黄熱病の猛威は沈静化した。これでフィラデルフィア以外で議会を開催する必要はなくなった。それでもフィラデルフィアが首都機能を取り戻すためには時間を要した。

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