見出し画像

強い意見がなくてもいいのだ

日本にいると、自分の考えを発言することは、特に女性や年齢の若い人は、よく思われないことがある。

そのため、私のような自分の意思があり、それを発言する人は、生意気とか、気が強いとか、そういう風に捉えられてしまう。

じゃあ、外へ出てみたらどうだろうか?

ヨーロッパ、ドイツとスウェーデンで過ごす時間の長くなった私は、日本で感じていた、気が強いと言われる居心地の悪さから解放されて、自由な気持ちになれた。

でも、そう思っていたのは、最初だけだった。

その後、感じたのは、真逆。私には、意見がないんだってこと。

インターンをしてみたり、スタートアップの集まりに行ってみたり、いろんな経験を重ねて、発言できない自分を認識した。

言いたいのに言えないのではなくて、言うことがないのだ!

そう、私は何も感じてないんだ。何か感じていても、そこから掘り下げたり、派生させたりができない。全くできないというより、鼻から考えようとしてないんだって気付いた。

それから、必死に考えて、何かを見つけて、意見を述べようって行動を変えた。頭を使うと、すごく疲れる。だけど、発言すると評価されていると実感できた。

でも、いつのまにか、強すぎる意見を言うようになっている気がした。本当の自分じゃないような気がした。

SNSで、フォロワーがたくさんいる人の中には、非常に激しい意見を言う人も多い。もちろん、正しいことを言っていたり、誰も追求しなかったことを言っていたり、全て間違えている訳ではないが、強いメッセージを発信している傾向にある。

私は、強すぎる意見を発言するのに、疲れていた。

もう、自然な私のままでいよう。

強い意見を言う人は、とても魅力的に見える。たくさんフォローする人がいて、私もそうなるべきだって思ってしまう。

でも、自分の意見は、強い意見である必要は、全くない。

強い意見で固められた自分に違和感を感じたら、やめていいと思う。強い意見を持つ人の真似もしなくていい。

ありのままの自分でいい。それだけ。

自分の話をするのが得意な人、会話が得意な人、意見が言える人、そうでない人。みんながみんな、何かを言うことが絶対的に大切な訳じゃない。

いろんな人がいることを認めることがフェミニズムでしょう。

それが、ジェンダーによるものや、年齢によるもの、生まれ育ちによるものに対しての平等だけじゃなくて、性格の多様性も認めあうことなんじゃないのかな。


そう、だから、もし強い意見がなくても気にしない。

あなたは、フレキシブルに対応できる人でもあるんだよ!

素敵なことじゃない?

ありがとうございます!でも、他の必要なところへサポートをお願いします!お気持ちだけで嬉しいです!