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琉球処分でも琉球併合でもなく「琉球侵略」と定義されるべき!#39
琉球人の国である琉球国は、1879年3月27日に日本に侵略され崩壊しました。
琉球国初の正史『中山世鑑』(1650 羽地朝秀)に掲載される琉球国王の系図には、舜天が最初の王で、1187年に即位したとあります。
上記本の王の系図が以下の写真です。
![](https://assets.st-note.com/img/1651297193423-wuCUy2GyQo.jpg?width=800)
つまり、琉球国の歴史は文献によると、1187年から始まり1879年まで692年間、この地球上に存続していたといえます。
ただし、私は現在も琉球国は存続中という立場ですが、その理由を述べると長くなるので別の機会に譲るとして、下記琉球新報の過去記事をお読みいただければある程度は理解していただけると思います。
![](https://assets.st-note.com/img/1651664531508-AqvLb55LMJ.jpg?width=800)
さて、1879年3月27日に日本は琉球国の王宮である首里城に600人余りの軍隊を送り込み占拠し、沖縄県を設置すると一方的に宣言しました。
翌月4月4日には沖縄県を設置したと全国に布告します。
さらにその翌月5月27日には、拒否する尚泰王を東京へ拉致しました。
その後琉球国に違法駐留する日本軍は沖縄県を設置したので琉球役人に沖縄県の行政を始めろといいます。
当り前のことですが、琉球役人は「沖縄県」という日本が一方的に作った行政の仕事に就くことを拒否し続けました。
それに業を煮やした日本軍は同年8月18日から強硬策に出ることにし琉球役人の自宅などへ行き拘束し、首里と那覇の役場に拉致しそこで拷問を始めたのです。
その数は三百人以上にのぼります。
ちなみにその1879年8月18日当時ですが、5月27日以降は国王が東京に拉致されているので、次の座にある三司官が事実上琉球国のトップ(本来国王と三司官の間には摂政がいるが1875年以降欠如)であり、三人のうち一人は国王の付き添いで東京へ行っており、二人は首里に残っていました。
その二人のうちのひとりである浦添親方(うらすぃーうぇーかた)がなんと日本軍に拘束されたのです。
残ったのは富川親方(とぅみがーうぇーかた)のみとなってしまいました。
恐れおののいた富川親方は沖縄県の行政を始めないことを謝罪したいと直接日本軍のもとへ行きました。
そこで謝罪文を書けば許すと言われ、仕方なく今後日本に逆らいませんし、沖縄県の行政に就きますと述べざるを得ない状況になり、書いて提出すると拷問されていた琉球役人すべてが解放されました。
それが同年9月14日のことです。
その事件は琉球国王の側近をつとめた喜舎場朝賢が『琉球見聞録』(大正3年)の186~189ページに書き記してあり、下にその箇所の写真を掲載します。
![](https://assets.st-note.com/img/1651291834391-E8ZiA5Je5T.jpg?width=800)
![](https://assets.st-note.com/img/1651291841908-Tab2pVRbTa.jpg?width=800)
そして、ここからが本題です。
上記一連の事件をどう思いましたか?
日本は「琉球処分」という言葉を使いこの屈辱的な歴史を定義しています。
琉球国を処分?
琉球国は1854年には米国と琉米修好条約を結んだこともある世界でも認められた独立国です。
その後1855年にはフランスと、さらに1859年にはオランダとも国と国の条約を結んでいるのです。
しかしここで、1609年以降は薩摩に侵略され支配されていたのに独立国なわけはないという反論があるでしょう。
確かにそれは事実です。
けれども、薩摩は外国、特に中国に知られないように琉球支配を隠す政策を取っていたのです。
したがって1850年代に琉球国が欧米列強との条約を結んだ際、薩摩は裏から琉球を支配している事実を隠せと琉球に命令していたのです。
その隠蔽策はやめて今度は直接支配をすると言い出したのが1870年代のことで、それが1879年の沖縄県強制設置という事件に繋がって行ったのです。
つまり琉球国として欧米列強と条約を結んできた独立国を処分するというのは完全に日本人史観なのであり、我々琉球人からは到底許容できない歴史定義だといえるのです。
それではここで「処分」という言葉の定義を見てみましょう。
デジタル大辞泉には
しょ‐ぶん【処分】
1 取り扱いを決めて物事の決まりをつけること。処理。「書生下女を差図して家事を―し」〈鉄腸・花間鶯〉
2 規則・規約などを破った者に罰を加えること。処罰。「処分を受ける」「違反者を厳重に処分する」「懲戒処分」
3 不要なものや余分なものなどを、捨てる、売り払う、消滅させる、など適当な方法で始末すること。「古いノートを処分する」「家を処分する」
4 ㋐公法上、具体的事実や行為について、行政権または司法権を作用させる行為。行政処分・強制処分・保護処分など。㋑私法上、処分行為のこと。
とあり、まずは定義1の「取り扱いを決め物事の決まりをつける」で考えて見ましょう。
我々琉球人の国は1187年より692年もの間存続してきたのに、なぜ日本が勝手に決まりをつけて琉球人の許可なく沖縄県を設置するのでしょうか?
とんでもないことですし、琉球人側の民意を完全に無視した定義です。
さらに、定義2の「罰を加えること」なんてふざけるなとしか言いようのない定義です。
我々琉球人は何か日本人に対して悪いことをしたのですか?
なぜ独立国である我々琉球国民が日本から罰を受けなければいけないのですか?
定義3や4なども琉球国が日本に侵略された事実に反する定義です。
1879年以降近年まで琉球の歴史に関する論文、書籍、教科書などは上記一連の琉球国民が日本に国を奪われた大事件を「琉球処分」と定義してきました。
けれどもようやく近年「処分」ではなく他の定義を用いる気運が高まっています。
その一つが琉球処分ではなく「琉球併合」という定義をここ数年、沖縄県内の新聞社や琉球の歴史に関する論文などで目にするようになりました。
しかしながら「併合」という言葉は「処分」よりはましな定義ではありますが、この語も事の本質を伝えていません。
さて、それでは「併合」という語の辞書での定義も見て行きましょう。
まずデジタル大辞泉には
へい‐ごう〔‐ガフ〕【併合】
1 いくつかのものを合わせて一つにすること。また、合わさって一つになること。合併。統合。「大手のメーカーが中小の会社を併合する」
2 国際法上、ある国が他の国の領土の全部または一部を合意によって自国のものとすること。
とあります。
定義1ですが、「合わさって一つになること」だなんてありえない定義ですよね?
日本は1879年3月27日に首里城を600人近くの軍隊で占拠し、その後国王を東京へ拉致し、さらに琉球役人三百人以上を拷問し、それに屈伏させられた琉球役人は強制的に沖縄県の行政に従事させられたのです。
こういう一連の屈辱的事件を「合わさって一つになる」と我々琉球人が考えるわけがないし、琉球側は日本と一つになろうなんて考えは毛頭ありません。
だから日本の沖縄県設置を拒否したのです。
そして拒否したら国王を東京へ拉致し、琉球役人は拷問を受けたのが歴史的事実です。
さらに問題なのは、定義2の「国際法上、ある国(日本国)が他の国(琉球国)の領土を合意により自国(日本国)のものとすること」
の箇所です。
これはつまり国際法上、日本国と琉球国の間に合意文書があれば沖縄県の設置は国際法では合法となるといえるのでしょう。
はい、私は沖縄県公文書館に1879年当時何らかの合意した文書が日本と琉球の間で交わされているかどうか調査してもらいました。
得られたのは、「まったく合意文書などは存在しない」という回答でした。
これで明らかになったように琉球国は日本に併合などされていないという事実です。
さらにもう一つ「併合」が定義されている日本大百科全書(ニッポニカ)の定義も紹介します。
併合 へいごう
annexation
国際法上認められる領域取得の方式の一つで、ある国が他の国との合意によって、領域の全部を譲り受けることをいう。
割譲と異なるところは、譲渡国の領域の一部でなく、全部を取得することである。
併合により、併合される国は国家としての存在を失って消滅する。
この点で征服と同じであるから、併合と征服とをあわせて広義の併合として理解するむきもあるが、征服が実力を用いて一方的に行われるのに対し、併合は合意によるものである点で区別される。
しかし、征服は国際法上、国際関係における武力行使禁止の原則の成立に伴い、もはや今日では認められない。
併合も、昔から合意に基づくとされながら、実は強制によるものであった例が少なくない。
1969年の「条約法に関するウィーン条約」で、武力による威嚇および武力の行使に基づく条約の締結は条約の無効原因とされたので、今後は、併合条約が成立しても、見せかけの合意か真の合意かが、あとで問われなければならない。
はい、上記にも「併合は合意によるもの」とあるように琉球国と日本国の間には何の合意文書もないし、何度も上で述べてきたように、琉球国王は東京へ拉致され、その家臣たちは拷問を受けたのであって何の合意もないというのが歴史的事実です。
したがって「日本は琉球を併合」とは定義できませんし、あくまでもそう定義したいのであれば琉球人の立場に立って歴史を視れない人だといえるでしょう。
上記定義にはさらに「併合も、昔から合意に基づくとされながら、実は強制によるものであった例が少なくない。」ともありますが、日本は韓国を併合した際は完全に強制でしたが、その際には合意文書を交わしており「日本は韓国を併合した」と言えるのです。
さらに総項目数50万の日本最大規模の国語辞典『日本国語大辞典 第二版』(小学館 2001年)には
へい‐ごう【併合・并合】〖名〗
あわせること。一つにすること。合併。
とだけあり、琉球人が日本に「あわせること」をして沖縄県が設置されたわけではないのでこの定義も全く的はずれだといえます。
さらに国語辞典といえば『広辞苑 第五版』(岩波書店 1998年)も有名ですが、そこには
へい‐ごう【併合】
いくつかのものを合せて一つにすること。合併。
と上記辞典と変わらない定義で琉球人にとって併合され沖縄県が設置されたといわれたら怒りしか出てこない定義だといえます。
さらにネット上で、例えばGoogle検索で「併合」と入れると、Wikipediaやgoo国語辞書、Weblio辞書などが上位にあり、それらのサイトでの「併合」の定義は上記辞書とほとんど変わりません。
要するに1879年に「日本は琉球を併合した」と定義することは、琉球人側の立場に立っていないといえるのです。
それではいよいよ結論ですが、1879年に日本が琉球人から国を奪った事件はどう定義すれば良いでしょうか?
私は「日本の琉球侵略」と定義することこそが琉球人の立場に立った歴史定義だと考えます。
ここで「侵略」の定義も見てみましょう。
デジタル大辞泉には
しん‐りゃく【侵略/侵×掠】
[名](スル)他国に攻め入って土地や財物を奪い取ること。武力によって、他国の主権を侵害すること。「隣国を―する」「―戦争」
とあります。
どうでしょうか?
これならば琉球人が国を奪われた大事件を定義していることになるでしょう。
日本は琉球国に攻め入って土地や財物を奪ったし、武力により琉球国の主権は未だに侵害されています。
さらに『日本国語大辞典』(第二版)には
しん-りゃく【侵略・侵掠】
1⃣ 他人の領分または他国に侵入して財物や領土を奪い取ること。
とありデジタル大辞泉とほぼ文章は同じです。
まとめると「1879年に日本は琉球国を侵略した」というのが琉球人側から視た歴史だといえます。
短くするのであれば「日本の琉球侵略」とも定義できるでしょう。
1879年に日本は私たち琉球人の国を「処分」もしていないし「併合」もしていない。
日本は琉球国を「侵略」したというのが琉球人側から見た歴史的事実です。
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