「大人になる」ことと「謝罪すること」について

最近とくに感じていることはこのことである。

とある件につき、警察の捜査に協力させて頂いているが、次の捜査協力を待っている今この間に、僕自身の課題として興味深い記事がいくつも出てきたので、その所感を記しておくことにする。

女性不信の根源

僕が自分と向き合う過程の中、何度女性と衝突したかわからないが、その根源的な原因は30年にも及ぶ女性不信という認知の歪みによる。ただしこの女性不信の回復にあたって、いずれどこかで衝突は避けて通ることはできず、僕はそこから逃げなかったということを最初に申し述べておく。

本題に入ろう。女性不信の根源を解き明かすのに興味深いのはこの記事だ。
池田小事件・宅間守の女性蔑視と大量殺人を生んだ「男らしさ」の呪縛

記者の慎重かつ丁寧な分析は、犯罪心理学などという暴論は徹底的に排除され、精神障害などの可能性の低さも出した上で、生育環境にきちんと言及している。そして唯一の特徴である「男性であること」についてもその所以を紐解いている。
つまり、この事件の本質を一言で言えば、歪んだ「男らしさ」の世代間連鎖にあるという。これを記者は「ジェンダーと犯罪」と表現している。

宅間守についての最初の新聞報道を読んだとき、まず「ジェンダーと犯罪」という言葉が私の意識に浮かびました。刺し殺した子ども8人のうち7人までが少女だったこと、さらに彼が妻たちに暴力を振るったドメスティック・バイオレンス(DV)の加害者であること、池田小学校事件の動機として、暴力を振るいストーカー行為をし続けた相手である元妻を殺す代わりにやったと証言していたことも、いっそうこの事件の本質は「精神障害者と犯罪」ではなく、「ジェンダーと犯罪」なのだと思わせる要因でした。

宅間が事件を起こすに至るまでに、女子への攻撃が一貫していたのだという。そしてその根源は、ほぼ間違いなく父親による暴力なのだろう。彼の公判の返答や池田小事件のターゲットの大半が女子児童だったことが、それを雄弁に物語っている。
父親の暴力に直結するのは、おそらく家父長制に大きな要因があると思われる。父親が家庭を統率するという考え方が、認知の歪んだ「男らしさ」を醸成してきたと思うのだ。

怖い、寂しい、自分に自信がないなどの気持ちを男子が口にすることを「女々しい」と嫌う男らしさの価値観は、体罰を受けたり、いじめられたりすることで生じる錯綜する感情を否認し、抑圧します。「男だったら泣き言を言うな」「女々しい奴」といった慣用句に表される男らしさを美化する社会の通念を、武士の血筋であることを誇りに思い、木刀で息子に懲罰を加えていた父親が体現していたことは想像に難くありません。強いことが期待され、苦しさ、悲しさ、寂しさ、自信のなさ、などの本音を口にすれば殴られるかもしれない環境に育った宅間は、怒りの背後にある「やわな感情」とでも呼ぶべき気持ちを表現することを許されなかったでしょう。 しかし、「男は強く、女は優しく」を信奉する社会が男性、男子に表現を許している感情がひとつだけあります。怒りです。悲しさ、寂しさ、怖さを口にすることは女々しいが、怒りを表現することは雄々しいのです。

この「怒りのみが男子に許された感情」というのは、まさに家父長制が生み出した賜物だと考える。家父長制から逃れるための感情をすべて抑圧し、反抗しない生存戦略を取らざるを得なかったことが、自分と他人の区別をつけることを阻害した結果、支配欲を生み出してしまったのだろう。

性暴力とは、加害者の抑えきれない生理的性衝動が引き起こす行動ではなく、他者を支配することへの心理的欲求行動です。誰かを貶めて自分の有力感を得たい、相手に強いという印象を与え、抑うつ気分を払拭したい、自分自身への怒りを発散させたい、そのために彼らは性器を武器として相手を力でコントロールするのです。

つまり、性暴力=女性不信の最たる行動、それは支配欲によって引き起こされ、その支配欲は家父長制など父親の暴力により反抗を封じられて自分と他人の区別をつけられなくなり醸成されたと考えられるのだ。
家父長制そのものが家庭で男を至上とする概念なので、家父長制原因論は納得のいく話である。

女性不信からの回復は「大人になる」こと

僕が長いこと思っていた女性不信の原因が女性であることは実は思い違いで、原因は母親ではなく父親(の暴力)であることはよく解った。ただしこれは表面的な要因であり、根源的には傷つき体験を感情に表すことを抑圧され、怒りのみが残された感情であることにより自分と他人を区別できないことにある。
女性不信とは大人になれなかった男子の成れの果てなのだ。

女性不信から話は逸れるが、「大人になる」ことをテーマとして内なる感情を如実に表したマンガ作品が「ななか6/17」である。

ななか6/17 1 - 八神 健 | マンガ図書館Z - 無料で漫画が全巻読み放題!

この作品のヒロイン「霧里七華」(17歳)は事故により記憶が6歳に幼児退行するのだが、読み進めていくと、幼少期に母親を亡くしたことが自分の感情を封印するきっかけになってしまったようである。
記憶と感情の揺れは最終的に、父親が再婚した義理の母親を受け入れたところから急展開するが、それまで表に出せなかった母親への感情を6歳の「ななか」が17歳の「七華」にすべて届けたところで完結する。これは即ち、母親の死という形でそれまで抑圧されてきた自分を許すことなのだということを感じた。自分のために相手を許し、それが同時に自分を認めることになるのだと。

宅間の話に戻ろう。宅間は感情を抑圧されたことにより大人になり損ねてしまった。彼が大人になるには、自分の辛かった過去と向き合う勇気を持たなければいけなかったのである。
しかしながら、そのような好機には恵まれなかったのであろう。彼は他人を支配するにあたって自分を殺してしまったことが不幸であったと言わざるを得ない。

宅間は公判でも手記でも、自分を苦しめていた本当の感情を言葉にしたことはありませんでした。快、不快の感覚はくり返し表現するが、関係性における悲しみや、寂しさや、喜びなどの感情については、弁護人からの質問があっても、答えることができなかったのです。「むしゃくしゃする」気持ちとは何だったのか、その感情に向き合うことなくして、宅間が被害者や遺族の苦しみに共感することも、したがって謝罪することもありえません。

要するに「自分の気持ちがわからないのに他人の気持ちがわかるわけがないので謝罪のしようがない」という話である。大人になり損ねた人間はまず自分を許さないといけないのだ。

大人としての謝罪とは何か

このように見れば、謝罪は相手から許しを得るため(相手のため)の行為であるというのは違うということがわかる。相手から許しを得ることを目的としてしまうと、それは自分の感情を抑圧することになる。
大人になり損ねた人の謝罪は、相手を優先することによって自分と他人が違うということの認識を阻害する行為にならざるを得ないのだ。自分が許しを得るために他人に合わせすぎるのは自己否定にほかならない。

謝罪するということは、自分も相手も肯定するということである。それを明確にするにあたり、2つの見解を比較しておきたい。

ひとつめに、謝罪のステップについて。これは贖罪という語を用いている。

セックス依存症になりました。第56話

これはちょっと違うと思う。贖罪とは自己犠牲のもとに相手に許しを請うことで、苦しみ(内なる感情)を手放す行為としている。内なる感情に縛られていることに向き合わない行為と言っていい。
謝る態度を示すことは大切だが、それは罪の本質を見極めることとは関係ない。現にこの話の続きでは、苦しみを認めるのではなく「手放す」という自己犠牲の表現を用いている。
罪の本質が見えなければいつまでも自己犠牲と自己否定に終始してしまう。

そしてふたつめは宅間の記事から。

本当の謝罪は、自らの怒りの仮面の下に隠れている悲しみと喪失を感じることからしか始まりません。「遺族に謝りなさい」という弁護人たちの願いが届くためには、まず、「あなたの心の奥底で、怖くて、寂しくて、声を出さずに泣いている小さな少年を何十年間も無視し続けてきたことに謝りなさい」という働きかけが必要です。自分への怒りを他者攻撃行動で発散する「怒りの仮面」の裏側をのぞき込み、そこで今も父からの体罰におびえている少年に共感し涙を流して寄り添えたとき、彼の中に他者への共感が生まれます。その作業には勇気がいる。傷口のまわりに巻きつけた包帯とガーゼを剝ぐ勇気がいる。痛みを痛いと感じる勇気がいる。

相手の悲しみと喪失を感じることが相手を認めることに繋がる。それを感じるには、まず自分が抑圧されてきた内なる感情を認めて感じ切り、今まで自己否定してきた自分を許さないといけないのだ。それは他の誰かではなく、自分自身にしかできないことである。
謝罪に勇気が要るのは、いかなる自分をも認めることが無条件にできるのは自分しかいないからだ。自分が加害者側であるにしろ被害者側であるにしろ、自分を認めることをしないで相手を認めることはできないのだから、そこから目を背けてはいけない。

謝罪と贖罪の違いは、過去の苦しみを「共感する」(肯定する)か「手放す」(否定する)かの違いである。つまり贖罪は謝罪と違い、自分と他人を区別することとは関係ないので、贖罪をするのは大人になったとは言えないと考える。
相手が許すかどうかは相手の課題であると同時に、自分を許すかどうかは自分の課題である。だから、罪を犯すに至った自分の内なる感情を肯定して許すことでしか、相手に態度で示すことはできないのである。

自分の課題点

実は、4月から5月にかけて母親から父親の生育環境について聞き、父親を許す最初の一歩を踏み出している。それは母親代わりにしていた相手への反抗によって自分と相手を区別することができるようになった証なのだ。
結果的に相手には悪いことをしてしまったが、このことによって自身の成長を証明できたこともまた事実である。

前進するためにはまず、父親を許さなければならない。そして内なる感情を認めることができなかった自分を許さなければならない。
それがまず自分にできることであると心して、自分を認めて生きていくのだ。

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