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セイレム究極ガチ勢によるただの考察

セイレムとは神不在の場所
ただの地獄であると同時に演劇の舞台でもある。

裁判劇

演劇における神さまとは主に『デウス・エクス・マキナ』の事を指す。

デウス・エクス・マキナ(deus ex machina)とは演出技法の一つである。古代ギリシアの演劇において、劇の内容が錯綜してもつれた糸のように解決困難な局面に陥った時、絶対的な力を持つ存在(神)が現れ、混乱した状況に一石を投じて解決に導き、物語を収束させるという手法を指した。

wikipediaより引用


劇の内容が錯綜しもつれた糸のように解決が困難になった時に現れ、絡まった糸をほどいて事態を収束してくれる存在。

要するに"ご都合主義"の舞台装置である。

ご都合主義のための舞台装置


これは本来、人々(観客)に望まれて現れるもの。
しかしセイレムの神は人々に望まれなくとも形を成す異端だった。

つまりは事態が"解決に向かった時"に現れ、解けかけた糸を再び結び直してしまう舞台装置だったということだ。

六つの"結び目"



例えばこの場面、
ぐた達は捕われたティテュバ(シバの女王)を解放したい。そのためには裁判が必要。

だから裁判を有利に運ぶため演劇を成功させ、村人たちの信頼を得た。

陪審員たちの心証が重要
演劇は成功、村人たちの信頼を得る


しかし裁判は行われることなくティテュバは絞首刑にかけられてしまう。結果ぐだ達はシバの女王という重要な協力者を失ってしまった。

ティテュバが突然、不自然な自供を始める


こうやって事態が解決に向かい、物語が収束し始めると、ちゃぶ台返しのように事態が悪化して、より解決が困難になるという寸法。

事象に介入すると、事態が悪化する世界


作中はずっとこれの繰り返し。

協力者は次々に絞首刑へ
カルデアがセイレムに介入した結果、
現カルデアの解体に繋がる
未来視による助言ができない
罠の可能性
ピックマン夫人と老ジャイルズの娘を救う
結果、信頼を得た二人が共に絞首刑に




ただ一人、この仕組みに気付いたのが人物がいた。それがサンソンである。

錯乱した言動

サンソンは何故かホプキンス殺害の現場で一度正気を失っている。これはセイレムで度々起きていた現象だが、これによりサンソンはあらぬ疑いをかけられてしまう。

プロットという強制力

サンソンは自身がセイレムという物語のプロットに組み込まれたことで、この仕組みに気付いた。

これは彼がホプキンスと共に行動を続け、罪人たちの罪とひたむきに向き合ってきたからこそ。


そしてサンソンはラヴィニアと自身に起こった問題をあえて放置した。

ラヴィニアは"まだ間に合う"
なぜか弁明をしないサンソン
最後まで事態に介入しなかった
仮死薬による死亡回避を最後まで拒否したサンソン


セイレムという物語はもつれた糸を解こうとすると、逆に糸が結ばれる。解決困難な事態が、解決不能な事態になってしまうのだ。

つまり異端なる神とは、人々が神を必要としないときにこそ形を成す神さまだということ。

もつれた糸を結ぶ。
デウス・エクス・マキナの逆パターン

これはつまり、もしサンソンがラヴィニアを助けるために奔走したり、

逆に自分にかけられた嫌疑を晴らすためにぐだやマシュが行動していた場合

ラヴィニアという重要な協力者やぐだの命が失われる可能性があった。つまりサンソンはぐだやマシュ、ラヴィニアの命を救うため、自ら絞首台に上がる必要があったということ。

マスターの命が危険に晒される
それを阻止するため、あえて何もしなかった


最後の場面でラヴィニアという協力者がいたからこそ、ぐだたちはラウムを討伐することができ、

そしてサンソンの死があったからこそ、ぐだは正気を失う事態を回避できた。

ラヴィニアの協力
結界に穴

しかしサンソンに一度、命を救われたラヴィニアはぐだたちに協力したことで、ついに命を落としてしまう。

マシュが協力を依頼していた
ラヴィニア(6番目の客人)


そしてラヴィニアという六つ目の結び目によって、アビゲイルは降臨者(フォーリナー)として覚醒した。

ラヴィニアを狙った
六つ目の罪状
人の心を、言葉を、望みを捨て去る


しかし実際にはキルケーが止血のショックを緩和させ、ラヴィニアが息を吹き返したことで、六つ目の結び目(六つ目の罪)は成立しなかった。

息を吹き返すラヴィニア
ぐだは7番目の客
サンソンの言葉、望み
六つ目と七つ目の結び目は不成立

アビゲイルが最後まで人の心、言葉、望みを捨てなかったこと。それがカルデアに勝利をもたらした。

そして、それをさせたのはラヴィニアであり、サンソンが残した言葉と希望だった。

ラヴィニアとの友情
サンソンの言葉と希望
そしてマシュとぐだに答えを求めるアビゲイル 
それを断るぐだとマシュ 
(事象に介入してはいけない)


こうして、セイレムという地獄は幕を降ろし、アビゲイルは救われた。めでたしめでたし。


……ではない。
セイレムが面白いのは、ここから。

ここまで読んでくれた人なら、もう理解しているはず。このセイレムでは直接、事象に介入してはならないという法則がある。


この舞台に存在するデウス・エクス・マキナは逆パターンだからだ。

しかし、この物語では一度だけ事象に介入し、"ほつれた糸"をほどいた存在(デウス・エクス・マキナ)がいる。

めちゃくちゃなご都合主義展開

それはカーター叔父さんこと、
時空を旅する紳士…ではない。

彼は自力でこのセイレムにやってきた訳ではない。なぜなら、この舞台装置は本来、このセイレムに存在してはならないからだ。

ならば、この杉田さんによく似た人物はいったいどこからどうやってきたのか?

彼がやってきたのは2018年1月1日、ぐだが見た初夢の出来事。北斎ちゃん体験クエスト『元旦夢の枕』のシナリオ内である。

2018年1月1日
ノッブの怪しげな飲み物

ここでカルデアが別のクトゥルフ案件を解決して、ラウムに肉体を奪われていたカーターを救出したことでカーターは肉体を取り戻しセイレムへと向かった訳である。

カルデアにとっては未来の事象ではない
セイレムは2017年の出来事

ここで重要なのは、
この北斎体験クエストが更新された日付け。

2018年1月1日
これは2017年12月31日の先の出来事になる。

つまり、ここに存在するぐだは2017年12月31日に起こった"地球白紙化事件"を乗り越えたぐだになるということだ。

人理保証時計は2017年で停止中
ビーストⅦは詰みポイント

デウス・エクス・マキナとは解決困難な事態を解決する存在である。

2018年に存在するカルデアとはビーストⅦという解決困難な事態を解決している存在。


要するに、あそこへカーター(真)を導いたぐだこそが、この物語における真のデウス・エクス・マキナだったというわけだ。

"現実"の魔術師では"虚構"に対処できない
一度もアビゲイルを救えた者はいない
だから再びカルデアを招いたのだ

現実の魔術師では、虚構という脅威には対抗できない。そして、どれほど裁判劇を繰り返したところでアビゲイルが救われることは無い。

何故なら、アビゲイルこそが生ける銀の鍵、デウス・エクス・マキナに他ならなかったからだ。

セイレムという物語では、どれだけ試行し、調整し、不可欠な要素となる客を招いたとしてもアビゲイル自身が救われることはなかったのである。

アビゲイルにそうしてもらう
無計画に繰り返している

虚構にはお芝居で対抗する。
ロビンとぐだが見つけた対抗策を基に一連の流れを振り返ってみると、まずぐだとマシュはアビゲイルに即興劇カルデアを舞台にしたお芝居を披露する。

虚構にはお芝居で対抗する
即興劇
カルデアの物語

『アビー、君は結構わがままだねえ?』

『自分は、もっとわがままなんだ!』

『すごいよ。世界中の人がいるよ?』

セイレム  即興劇

そして最後の戦い。
裁判劇という結界の中で、アビゲイルは「お芝居の時間は、もう、終わり…」と自ら、舞台の幕を降ろす事を告げた。

そしてぐだが新たな舞台の幕を開いた。

お芝居(裁判劇)の時間は終わり
そして次の幕(カルデアの物語)が開く

そうか。『ああ、まったく──』

『きみはわがままだね、アビゲイル』

なにしろ、自分はもっとわがままで──

新しい友人に会いたくて、たまらないんだから

虚構にはお芝居で対抗する。
ぐだとマシュがアビゲイルの前で演じた"即興劇"はカルデアの物語

セイレムという地獄の幕が降りて、
そしてカルデアという新たな舞台の幕が上がる。

幕が降りれば、共にまた新たな舞台が開く


セイレムには鍵が二つ存在した。
この銀の鍵は"それぞれの物語"と、
"デウス・エクス・マキナ"という神(舞台装置)に繋がるための鍵だ。


一つはアビゲイルという『生ける銀の鍵
アビゲイルは"異端の神"に救済を求め、セイレムという閉じた楽園での物語を描いた。

生ける銀の鍵
異端の神による
"すべての地上の人々の救済"


そして、もう一つはぐだが手にしたペンダント。ぐだは"未来の自分たち"という、セイレムの外広がっていく世界の物語を描いた。

セイレムの外
ぐだの手に渡る
レイシフト前に感じた違和感
人間(じぶんたち)の
"明るい未来予想"


アビゲイルという鍵は"異端の神"に、
ぐだの持つ鍵は"未来の自分"に

それぞれのデウス・エクス・マキナに繋がっていたという訳である。



虚構に対抗できるのは、虚構だけ。
ならば2018年に到達したカルデアはフィクションの存在だったのだろうか?

初夢は正夢になると言われている
夢の内容は話すと叶わないとされている
離す、放すとかけらているから


それは言わぬが花。
神のみぞ知ることである。

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