追悼・木村拓也 語られずにいるファイターズ時代の君へ  木村拓也、享年37歳。その年、2010年4月15日には38歳になるはずだった。

 木村拓也、享年37歳。その年、2010年4月15日には38歳になるはずだった。
 その直前の4月2日、巨人のコーチとして広島球場(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)での試合前、ホームベース付近でのノックのさなか、突然倒れ、意識喪失状態に。球場から救急車で病院に運ばれた。クモ膜下出血だった。

 4月7日、意識の戻らぬまま逝去。
 晩年の巨人での活躍ぶりから、TVや新聞で「広島から巨人にトレードされた選手」と紹介されるたびに、長年のファイターズ贔屓の私はいつも心の中で「最初は日本ハム」と呟いていた。


 1990年秋のドラフト会議。ファイターズは1位にアマ球界・全日本四番打者の住吉義則内野手を指名。その2年前にも全日本の四番、中島輝士外野手を1 位指名するなど大砲の獲得に力を入れていた(中島氏は新人の年の開幕戦でサヨナラ本塁打。のち中田翔の担当スカウトで、2009年まで打撃コーチ)。
 そんな時期に、173センチ、宮崎南高の木村拓也捕手は、住吉選手らの同期生としてドラフト外でファイターズに入団した。

 ドラフト外といっても、当時は必ずしも評価が低いというわけではなかった。 この年、ファイターズは3人の新人をドラフト外で獲得している。
 ドラフト制反対、自由競争を……と常に主張し続けていた読売球団の“活動”もあって、当時はドラフトで指名できるのは1球団6人以内と制限されていた。それ以外は、ドラフト外ということになり自由競争。ポジション別の指名予定、各球団の思惑、会議の展開のアヤもあって、力がありながら指名から漏れてしまった選手をドラフト外で獲得することは、当時、けっして珍しいことではなかった。

(現在は1 球団につき何人でも指名は可能。但し、総指名人数が12球団全体で120 名に達したら終了。なお、育成選手の指名は制限なし)


木村選手が指名された1990年と言えば、日本で唯一のドーム球場だった東京ドームができてまだ3年。
 それを目玉に、日本ハム球団も観客動員を伸ばしていた時期だ。余談だが、まだ携帯電話が普及する前。観客動員に苦心していた日本ハム球団は、“日本初のドーム球場”をウリに地方の中学高校から修学旅行を積極的に招いてスタンドを埋めていた。球場内にわずかばかり設置されている公衆電話は、その生徒たちによって占領され、いつも行列。生徒たちは、それぞれ自宅に「今、東京ドームに居るのォ」と嬉々として誇らしげに電話していた。
(こちらとしては、試合途中、イニングの合間に、用事があって自宅等に電話したくても、なかなか順番が回ってこず、次の回の先頭打者の様子はコーンコースのモニター画像で眺めていたものだ。スタンドの座席のほうは、あちこち空席だらけだから、指定券とは違う番号の座席に自由勝手に座れたが、電話だけは不自由だった)。

 そんな時期の新人。木村拓也が、球団のアンケートに答えた資料がある。 今回、改めてそれを手にし、私の目は、そのなかの二つ項目の上で止っ
た。

  問「好きな言葉は?」…………答「一生懸命」
  問「プロ野球選手以外に憧れた職業は?」……答「プロ野球選手のみ」

 その新人木村捕手の紹介文として、球団はこう書いている。
「高校時代、練習試合とはいえ、プロアマ問わずまず聞いたことがない記録、5打席連続三塁打という記録の持ち主。『捕手ながら走ることなら誰にも負けない自信がある』という俊敏さ……(後略)」

 ファイターズ入りした木村は、入団2年目、1992年のペナントレース最終盤に、待望の一軍出場を果たしている。9月末、東京ドームの西武戦。相手チーム西武の優勝がかかっていて、日本ハムの本拠地だが西武ファンで超満員。
 ゲームも既に終盤の7回になって、8番ベテラン正捕手の田村藤夫の代打として登場。三振に倒れた。背番号59番。このときは守備にはついていない。試合は引き分け。
 翌日、森西武はファイターズに勝って3連覇を達成している(日本シリーズでも野村ヤクルトを4勝3敗で破ってV3)。
 一方、木村の在籍していたファイターズは5位。この年も含め過去10年間でBクラス7回、4年連続Bクラスという低迷期だ。

 ペナントレースの行方も決し、消化試合となった10月3日、舞台を西武球場に移した西武戦で、木村はプロ初ヒットを打った。
 初ヒットは木村らしい三塁打。ヘッドスライディングで三塁ベースに飛び込んだ。
初打点もついた。代打で登場し、守備位置にも初めてつく。それはセンターだった。
 翌日、とうとう初めて先発メンバーに名を連ねる。9番センター木村。ヒットも1 本打った。渡辺久信投手(のち西武監督。現GM)からの三塁線へのセーフティバント。

 ヘッドスライディングの三塁打と、セーフティバント。
 どちらも、今思えば、あまりにも木村らしいヒットだった。

 その年のファイターズ最終試合、やはり9番センターで先発出場した木村は、トルネードの野茂英雄投手(この年も含め3年連続最多勝。のちMLB)からもヒットを放っている。プロ一軍初年度の安打は、この3本。

 翌1993年、ファイターズは胸元にオレンジとイエローの帯のある前年までのバーニングレッドのユニフォームを止めて、北海道に移転するまで続いた縦縞に。その地味めなユニフォームの似合う木村は開幕戦から外野の守備固めや代走要員、そして時に代打として、出場機会は少ないが貴重な働きをする選手になっていた。いつも全力プレー。最近のファイターズのチームカラーにぴったりの選手だった。

 ちょうどSMAPのキムタクの人気が沸騰し始めていた時期でもあり、私はひそかに「うちにもキムタクがいる」と、なんとなく嬉しいような、木村拓也選手の存在を知らないだろう他球団のファンたちに教えてあげたいような、キムタクという名にしてはオヤジ顔だよなとツッコミを入れたくなるような……そんな気持ちで、レギュラーにはまだ遠そうだが楽しみな若手の一人として、同選手を眺め始めていた。


 それにしても、今回、逝去を報じるTV画面で見る木村拓也コーチの最近の笑顔が、あまりにも若々しいのが悲しい―――。あの急死の当時、そんな思いが湧いてきた。
 オヤジ顔だと思っていただけに、その笑顔をしげしげと見つめれば、かえって37歳という年齢の若さを感じてしまう。よく見れば、案外、若々しい顔だなあと。37歳の死という早さを思ってしまう。

 その死より16年前、ファイターズにとっては既にもう一つの別れがあった。これから本格的に成長し、野球ファン全体の知名度もアップするだろうと思っていた矢先の1994年末、そのキムタクは広島にトレードされてしまう。
 ファイターズ時代を知る者たちにとってさえ、「木村拓也」の印象を明確に残すには、早過ぎる移籍だった。
 だから、その後は、私も次第に「かつて短期間ファイターズに在籍したことのある選手」という、遠い存在として頭の片隅に置く程度になってしまう。

 トレードの交換相手は、かつての新人王・長富浩志投手。広島時代には何度も2桁勝利を挙げていた。ドラフトはKK(桑田・清原)と同期。パの新人王が清原和博だった年のセの新人王。実績の長富と、可能性の木村の交換。長富投手は新天地で3年程度は救援投手として活躍したが、大卒・社会人経由でプロ入りしたベテランに、もうそれ以上の十分な力は残っていなかった。


 一方、木村は、トレードから6年後、気がつけば広島のレギュラー内野手として大活躍していた。プロ10年目で初の規定打席にも到達。懐かしいような、嬉しいような、もったいないような、でも遠い存在。
 努力を重ねたのだろう、スィッチヒッターにもなっていた。でも、私にとっては、スポーツ・ニュースで、内外野を守れるユーティリティー・プレイヤーとして評価を上げている姿に、たまに接する程度の選手となっていた。
 やがて、巨人へ……。


 いま振り返ってみれば、それは2006年シーズン途中のトレードだった。当時の私は、野球に関しては、北海道に移転したファイターズの25年ぶりの優勝のことで、頭がいっぱいだった。
 ヒルマン監督の下、投手陣はダルビッシュと左腕八木を両輪に、武田久―マイケルの盤石の救援陣。稀哲がいて賢介がいて小笠原がいてセギノールがいて稲葉がいて、そして、SHINJOの涙の引退劇・・・・・。


 さらに3年後の2009年の日本シリーズ、北海道日本ハムVS巨人。
 東京時代の大沢ファイターズが初優勝を遂げた1981年に、“後楽園のチーム”同士の対決となって以来の、F対Gの闘いだ。
 その初戦、巨人の先発メンバーは、一塁木村拓也、二塁古城茂幸(2006年複数トレードで岡島秀樹投手と交換)、三塁小笠原道大(2007年FA移籍)だったっけ。
 かつてのファイターズ戦士たちが晴れ舞台で主要な地位を占めているのは、悪い気はしないが、私にとっては今や倒すべき憎い相手だった。あの日本シリーズ、負けたのはとても悔しいが、木村選手の現役最後の真剣なプレーを、対戦相手のファンとして十分に見ることができたのは、ふり返ってみれば幸せなことだったのかもしれない。

 宮崎南高校から捕手としてプロ入りした木村拓也。
 だが、記録によれば、捕手としては、イースタン・リーグでも1年目と2年目の途中ぐらいまで控え捕手として試合途中から出場した程度。2年目の半ば過ぎ、外野も守るようになってから二軍でも先発出場が増え、やがて前記の一軍初ヒットへと繋がる。

 まだ日本ハムのファーム施設、鎌ヶ谷球場(ファイターズタウン)ができる前。東京と神奈川の県境である多摩川沿いの、質素な多摩川グラウンドや相模原球場が二軍の本拠地だった時代のことだ。

 F対Gの日本シリーズとなったのと同じ2009年の出来事だが、まだシーズン中の9月、木村が緊急で捕手を務めたとき、「えッ、元々は捕手だったんだね」と世間では大きな話題となった。
 阿部ら3人の捕手をベンチ入りさせていた巨人は、守備交代や代打起用で2人がベンチに退いた後、最後の捕手として加藤を起用。しかし、その加藤が打席に立った延長12回裏、頭部に死球を受けて退場。
 捕手が誰もいなくなってしまったという緊急事態のなか、木村拓也が急遽マスクをかぶり、その起用が大きな話題となったのだった。
「かつて捕手だった木村を緊急起用」と。

「何を今さら騒いでいるの。そんなこと、とっくに知ってるよ」と、言いたい気持ちが大きく膨らんだまま、私は、すっかり巨人の選手になってしまった木村選手の眩しい姿を横目で一瞥しているだけだった。

 そんな私でさえ、実際は「木村捕手」をナマでは見ていない。
 今思う。ファイターズ時代の捕手姿を見ておけばよかった。
多摩川のグラウンドで、強い風の吹き抜けるなかキャッチャー・マスクをかぶる木村拓也捕手の姿は、今ではもう私の頭の中に、想像で描くしかない。
 そして、同じように、元ファイターズの一員だった木村拓也のユニフォーム姿も、たとえ敵方の一員としてさえグラウンドの上で実際に見ることは、もう二度とできない。
 それが、11年前の4月、あの急逝が私たちにもたらした現実なのだ。

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