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5月、さくらんぼのケーキ

今日はさくらんぼのケーキを焼いた。
去年の今日、5月3週目の土曜日に初めて焼いたことを覚えているからだ。何かとても楽しいことを経験すると、1年後の同じ時期に思い出す。聞いた歌、観た映画、作った食事、着た服、行った場所を、また経験したくなる。
私の年間行事はそんなふうにして増えていく。年間行事の遂行に命を懸ける生活は、もうやめようと思った。けれど、やめられない。無理にやめる必要もないのかもしれない。続けたいものは続けていいのかもしれない。

去年の今頃は仕事が立て込んでいた。
何度訴えても変わらず降ってくる理不尽なことに耐えきれなくなり、心身の調子を完全に崩していた。持病は悪化してペンも持てず、起き上がれない日もままあったし、どうやって死ぬかを永遠に考え続けていた。
金曜日の夜はスーパーへ行き、休日に楽しむための酒やつまみや朝食の材料を買う。その日は値引きのカゴにアメリカンチェリーが入っていた。おそらく中パックくらいの量が300円で売っている。お菓子を作るといいかもしれない、と思ったけれど、そんな元気はなかったので素通りした。
帰りながら、さくらんぼのことが忘れられなかった。
あのさくらんぼ、そんなに傷んでなかったな。お菓子を作ったら楽しいかも。でも疲れたなあ。ずっと作ってみたかったホールのケーキを焼いたら楽しいかも。でも疲れたなあ。あのさくらんぼのケーキ、可愛かった。おいしそうだった。おとぎ話に出てきそうな素敵な雰囲気の人が作ってた。あの人はどんな仕事をしてるんだろう。私は仕事嫌だなあ。仕事っていうかパワハラとか、3人分の仕事を1人でやるのが嫌だ。疲れたなあ。疲れた。痛い。死にたい。痛いから、クリームなんか泡立てられっこない。スポンジケーキなんか焼けっこない。頭もおかしくて、工程が複雑なことは仕事以外もう何もできない。疲れた。疲れた。
そうしていたら夜、夢に出てきた。さくらんぼではなく苺だったけれど、私はケーキを焼いて楽しそうにしていた。
翌日、目が覚めてから、なんとか起き上がってスーパーへ行った。さくらんぼと、農協で芍薬も買った。1日中寝ているつもりがケーキを作る日になった。
出来上がったケーキはレシピの意図をよく調べなかったせいでダマになり固く、ぼそぼそとしていたけれど、充分可愛くおいしかった。
長年憧れていたホールケーキを焼くという夢を叶え、冷蔵庫にさくらんぼの可愛いケーキがあって嬉しかった。

今日は値引きのさくらんぼではなく、綺麗なものを買った。
去年は傷みかけていたために飾り用のさくらんぼも煮てしまったが、今年は生のものを飾ることができた。やっぱり、生の黒いさくらんぼがのっているほうがこのケーキには似合う。
キルシュの代わりに白ワインを効かせたクリームがおいしく、スポンジも去年よりうまく仕上がった。ダマもないし、ふわふわしている。ケーキ屋のおいしいケーキよりやや硬いが、手作りとしては充分だ。次回はココアと粉を3回ふるい、もう少し手早く混ぜるほか、型を高くすればさらにうまくいくだろう。

来年も作りたいけれど、来年はここにはいない。
一人暮らしの部屋にはオーブンも、電動泡だて器も、ゴムべらもないだろう。
ずっとこうしていたい、ケーキを焼くような毎日を過ごしたいと心から思うのに、ここを離れなければならないとも心から思うから、悲しい。
もう何年もここを離れなければならないと考え続けていた。
そのうちに持病を患い、出て行こうにも行けなくなった。
今ようやく自由になった。私をここに縛り付けていたものは一つずつなくなった。だけど、生まれ育ったこの家や習慣、ケーキを焼いたら喜んでくれる人達が残っているから、悲しい。
どれだけ辛いことがあっても、生まれ育った場所から離れるのは身を切られるようだ。楽しい思い出や大切にしてもらった記憶が私の半身を引っ張る。
ここから離れたなら、憎いことも遠ざかる。治療も受けられる。仕事も探しやすい。私は私の安心する場所を自分で作る必要がある。自立がしたい。自分の人生を恨むのはもうやめにしたい。支え、関わってくれた人達に感謝だけを返したい。
だから行かなくてはいけない。


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