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ドーナツは穴あきがおいしい

自分には大きな穴が空いていて、それは何にも誰にも埋められないのだというとても悲しい事実をようやく理解した。

これまで穴を埋めることばかり考えて生きてきた。
穴の空いた自分は不完全で、空いていない他人は完全だった。不完全な自分は恥ずべき存在で、必死になって穴を埋めようとしてきた。穴を埋めるべく手繰り寄せたのは、ネットだったり、ある体験だったり、死にものぐるいの努力だったり、人間だったりした。特に人間にはなんとかして穴を埋めてもらいたくてむきになった。
そうするとうまくいかない。
恋人は私の要求に疲弊して離れていったし、私も他人の要求に応えようと必死になっては疲弊して離れ、つきまとわれたり罵倒されたりした。自分と正反対の人に憧れて近づいては、嫉妬で傷付けた。職場でも他人の仕事を背負い忙殺されたり、パワーハラスメントに遭ったりした。
穴が空き、その穴を埋めたいと願いすぎている人間に、健全な人は寄り付かない。どこまでも自分の要求を飲み込ませたい人ばかりが寄り付き、利用されてしまう。そして自分自身も、完全に見える人間に憧れて近づき、焦燥と妬みを抱いては傷付けてしまう。
穴が空いているのがいけないのではない。穴を埋めようと必死になるから、他人を利用しようとしたりされたりする。不健全な共依存の関係しか構築できない。

そのことにようやく気が付いたのは、やっぱり今年の2月頃だった。
気が付くのに随分かかってしまった。遅くなったけれど穴を埋めるのは止めた。代わりに、穴を静かに見つめることにした。
ああ、私には穴が空いている。胸のあたりから腸の上あたりまで、歪な形の大きな穴だ。何にも誰にも埋められない穴だ。
穴を見つめながら、映画を観る。孤独な人が報われる話を観る。大人が夢を見る話を観る。酒を飲む。自分でつまみを作って飲む。酒にぴったり合うおいしいつまみを私は作れる。そのことが穴を少しの間だけ埋めては、静かに去っていき、また穴が残る。おいしいつまみを私は作れる。でも穴は空いている。
穴を見つめながら他の嬉しいことや楽しいことをしていると、次第に穴がある自分こそ自分なのだという気持ちが、ほんの少しだけ芽生えてきた。だから、次は穴を静かに撫でてみる。穴に花を飾り、優しい言葉をかけてみる。

自分の穴を受容できるようになってくると、自分と同じくらいの大きさの穴を無理に埋めようとしていない人と、穴の話ができるようになる。
そうすると、穴は埋まらなくても、穴がある自分こそ自分なのだ、この人も穴があるこの人こそこの人なのだ、という気持ちが強くなって、とても穏やかで安心した気持ちになる。
やあ、私にはこんな形のこんな深さの、こんな穴が空いてるんだ。わあ、穴が空いてるね。いや実は私もね、こんな穴があるんだよ。わあ、本当だ。穴があるのって、私だけじゃなかったんだね……。
なんてほっとする、涙の出る、穏やかな時間なんだろうと思う。

次は、自分より小さな穴の人を受容できるようになるだろう。この人にはこの人の痛みや苦しみがあったのだと思い、寄り添うことができるようになるだろう。
自分より大きな穴の人に卑屈にならずにも済むだろう。この人の痛みはこの人のものだし、自分の痛みは自分のものだと思えるだろう。
そうしたら、世界中の人が私の友人となるんじゃないだろうか?

穴の空いたドーナツがもしも、自分の穴が嫌だ、絶対に丸いドーナツにならなくちゃ、と言っていたらなんと声を掛けられるだろう。
私はきっともうすぐ言えるだろう。
あなたは穴が空いているね。傷付いたから穴が空いたし、穴が空いていること自体に傷付くこともきっとたくさんあったね。でも、穴が空いたあなたは、あなただね。私は、あなたが大好きだよ。

穴あきのドーナツには穴あきのドーナツのおいしさがあるのだ。穴あきの人間にも、穴あきの人間の良さがあるといい。そう願う。穴を埋めようとはしない。願うだけだ。



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