The Wrong Side of Paris

パリに初雪が降った。

昨日は寒くて寒くて朝4時半くらいに目が覚めてしまったし、その後もうまく寝付けないほどの寒さだったことを考えると無理もない。先週のパリは記録的な暖かさだったらしいが、今週は最高気温が0°Cを下回る日が続く予報になっている。

初めての雪に大興奮した友達から電話が掛かってくるまで私は気づかないでいたけれど、外に出てみたら確かにしっかりめに粉雪が降っている。
私たちは一緒にお昼を食べた後、雪の中のエッフェル塔を見に行ってみることにした。

道中、路上生活をしている3人の男性を見かけた。この辺りによく来るらしい友人によると、彼らはいつもここで暮らしているらしい。

顔も手も足も鋭く痛むほどであるこの寒さの中、彼らは顔を真っ赤にして苦痛の叫びを上げている。道ゆく人々に向かって、低く大きな声で雄叫びを上げている。

誰一人、見向きもしない。

ずっと書きたかったこと、だけれども言語化する勇気のなかったこと、"The Wrong Side of Paris"がここにある。

ヨーロッパに来て少し暮らしてみて、1番精神的なダメージを受けるのは路上で生活している人の多さである。街中の至る所に、毛布やタオルを敷いて座り込み、小銭を入れてもらう用のカップを持って通り過ぎていく人々に物乞いをして暮らしている人々がいる。(言語化する勇気がなかった、と書いたのは、例えば「物乞い」という言葉や「路上生活」という言葉が差別的ではないのか、その人たちにラベルを貼って逆に侮蔑的な意味を与えることにならないのか、というそういう細かいことが気になって文字にして公開するという行為が取れなかったという意味。)

メトロに乗っていると、 « Bonjour ! Madame, Monsieur, Je m'appelle xxx. Je ne peux pas travailler parce que… »(皆さんこんにちは、私の名前はxxxです。私はxxxのために働くことができません。)と大きな声で乗客の前でスピーチをした後に、同じようにお金を入れてもらう用のカップを持って座席を回っていく人もいる。

対して、パリの街の人々の反応。

あたかも彼ら・彼女らが存在しないかのように、何も見なかったかのように、颯爽と通り過ぎていく。ロンドンとフランクフルトでは、お金を渡す人や座り込んで語りかけ、食べ物などを渡している人を何度か見かけたけれど、パリでは何かする人をほとんど見たことがない。ただただ横を素通りしていく。

そして私。私もその一部であるという紛れもない事実。

幾度となく彼ら・彼女らのそばを何もせずに通り過ぎ、その度に

「なんでわたし今何もしなかったんだろう?」
「なんで何もできないんだろう?」
「現金をおろしに行くべき?」
「どのくらい渡すのが良いんだろう?」
「万が一襲われたりしたらどうしよう?」(そんなことあるわけないのに…!しばらく暮らしてみて、また冷静に考えてみれば分かる話だけれど、人から盗みを働くような人や他人を攻撃する人と路上生活をする人は全く違うタイプの人間だと思う。)
「格差とか再分配とかに興味あるとか言ってるくせに矛盾も虚言もいいところすぎん?」
「自分口先と頭だけの人間じゃん、実際には何もできないくせに関心があるなんてよく言えたな」

と、自己嫌悪、罪悪感、哀しみ、怒りで胸がチクチクと痛んで、それから彼ら・彼女らに少しの恐怖と警戒心まで抱いてしまうという自分のこのメカニズムにもまた自責、結局何もせずに通り過ぎた自分への軽蔑、とにかく色々な感情がごっちゃ混ぜになって襲ってくる。

だけど今日こそは、絶対にこのまま通り過ぎられないと思った。

私だって絶対に泣き叫ぶ、この寒さと雪のなか家もなく食べるものもなく、まして通り過ぎる人に無視され続けるなんて耐えられない、本当におかしくなっちゃう。

友達に素直なこの考えを共有して、それから私たちが何をするのが1番良いのか話し合い始めた。

カイロみたいなものやブランケットを探しに行く?でもこの寒さだとカイロもすぐに冷たくなるしブランケットもあまり救いにならないかも?温かい飲み物や食べ物を買いに行く?でももし食べられないものがあったらどうする?マクドナルドで何か買う?でも健康に良くないものを渡すのって失礼?現金の方が良い?でも現金を持ってお店に何かを買いに行くにもすごい寒いから買いに行くところまでやった方が良いかも?

そんなふうに話しながら薬局やスーパー、銀行を回っているうちに1時間弱が経ってしまっていた。何が1番欲しいのか、何が1番喜ばれるのかも分からないのは自分たちの想像力の欠如なのか、それとも彼らとの社会的隔絶の現れなのか(そもそも「彼ら」と「自分たち」とかいう言い方にも自分で書いていて苦々しい気持ちになる)。

結局私たちはスーパーであったかいピザ的なものを3人分買って、できるだけアッツアツに温めて、それから現金と一緒に渡しに行った。彼らはかなりの大声で叫んでいたから私も友達も万が一のことを考えて少しばかりビビっていて、だけど一緒に向かうことにした。

その場所に戻ったら2人がいなくなっていて、1人は寝ていた。起こしても良いものか躊躇いながらもそっと彼に近づいて « Bonjour » と話しかけ、食べ物とお金の入った袋を渡した。彼はうつろな目で私たちを見て、言葉にならない何かを小さな声でもごもごと呟いて、それから両手の親指を立てたグッドサインをしてかすかに笑ってみせた。

よかった。
その時には安堵の気持ちが湧いてきたけれど、果たしてどんな行動が正解だったのかは分からなくて、自己満足だとか偽善だとかいう言葉も浮かんでくるけれど、苦しむ3人を横目に通り過ぎるよりはきっとましだったと信じたい。

次にまたこういうことがあったら自分はどうするだろうか。
今日が寒かったからそうしただけ?寒くなくたって苦しんでいる人はいるじゃん。都合の良い偽善、自分が罪悪感を感じないための単なる利己的な慰めだったのだろうか。でもその「罪悪感」はどこから来るのだろうか。

今読んでいるバルザックの小説"The Wrong Side of Paris"で、主人公は煌びやかで華々しいパリのことを"the other side of Paris"と表現する。バルザックの生きた頃からパリにはこの二面性があったんだと思う、もっとひどかったかもしれない。そしてこの二面性はパリだけの話なんかじゃない。
そもそも2つの"side"になんて分かれていないはずで、全部繋がっているし、全部私たちの生きる世界だと思う。

だとしたら私は本当になんて無力なんだろう、何ができるんだろう?

この問いかけに到底答えられなんてしないし、社会学や政治学を勉強することが助けになるかわからないし、社会に出て働き始めることがヒントになるかもわからないけれど、ただこの問いから絶対目を逸らさないでいようとここに誓う。


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