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noteの更新をしばらく辞めます(思い上がりと「首から上だけ」の知性)

大変ありがたいことに、何人かの友達は度々僕の駄文を読んでくれて、
感想まで伝えてくれます。
本当にありがたいです。

突然なんですけど、ここ半年間くらいの自分の考えや行動を振り返ってみて、
「なんかすごく思い上がっていたなぁ」としみじみ反省しました。
noteの更新をしばらくは控えようかなぁと思ったのも、これが主な理由です。

僕の考えてることや他人にも伝えたいことって、
もちろん自分の経験として実感していることも多いんですけど、
同じくらいかそれ以上、
本から得た知識だったり、
大学の講義で聞いた話だったり、
端的に言って「他人の受け売り」なんですよね。

「他人の受け売り」を受け取る機会に恵まれているというのもありがたいことですし、
それを手軽に発信できる時代に生きていることもありがたいことです。
ですが、それを自分の中でも咀嚼し切れていないまま(書いているときには咀嚼し切れていると思い込んでいるのですが)他人に伝えてしまいがちな、
そういう思い上がった自分に最近嫌気が差してきました。

「他人の受け売り」というのもそうなんですけど、
もう一つ自分の思考で良くないなと思う側面があって。
僕は頭の中で「こうしたら上手くいくじゃん!」っていうのを考えて、
それを他人に話すなり発信するなりしがちなんですけど、
それって結局「首から上だけ」の知性で、
「身体化された」(経験に裏打ちされた)知性ではないんですよね。

そういう「首から上だけ」の考えを話しているときの、
そこにある僅かな自己欺瞞みたいなもの。
目を背けてるだけで、多分自分でもよく分かってるんですよ。

本当は好きなものを「嫌い」って言ったり、
本当は嫌いなものを「好き」って口にするときの、
お腹のあたりがモゾモゾする感覚。
あれと同じ感覚を、話したり書いたりしているときに
ほんの少しだけど確かに感じる。
今までは蔑ろにしていたその感覚と、きちんと向き合おうと思いました。

首から上だけで物事を考えるのは勝手だけど、
他人に自分の考えを伝えるからには
やっぱり自分の言葉に対して一定の責任を持たなきゃいけないし、
その辺の意識が甘かったな、と反省しています。

経験に十分に裏打ちされていない「首から上だけ」の知性は、
理想論に陥りがちで、実際に経験を通したときの”葛藤”や”自己矛盾”のような
割り切れないドロドロとした何かが抜け落ちているように感じます。

そういう割り切れないものをスッキリと割り切ろうとしているうちは、
まだ子どもなんだな、と思います。

割り切れないものを割り切れないままに抱えて、
分からないものに対しては素直に沈黙し、
自分の身体に染み付いた言葉だけを伝えていくような
そういう大人になろう、という決心をしました。

これまでの投稿に対して反応をくれた人、
会ったときに「note読んでるよ!」って伝えてくれる人、
こういう本もオススメだよって教えてくれた人、
本当にありがとう。

もしこれから更新することがあっても、
インスタとかには載せないと思います。
数ヶ月後でも1年後でも、
もし気付いたらそのときに読んでくれたら
嬉しいです。

またね。



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