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『愛について アイデンティティと欲望の政治学』竹村和子著(岩波書店) 第2章 愛について──エロスの不可能性 レジュメ

論点など一部まだ準備中なので、のちほど更新するかもしれません。
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要約

生殖メタファーの亡霊

■  言語以前の欲望は、言語によって語ることができない

  • 人間の欲望はつねに言語という≪他者≫の欲望によって置き換えられたものにすぎない

  • よって、言語によって置き換えられる以前の欲望は、言語によって語ることができない

■しかし、フロイトは言語以前の欲望をリビドーと名付けた
■フロイトのリビドーの議論は、生殖イデオロギーに基づき目的論的に構成されている

  •  主体や対象の性別に関わらず、リビドーは男性的な性質を持つものと主張

  • 正常な発達をしたリビドーにおいては、性器や生殖が中心となると主張

欲望はつねに≪他者≫の欲望である

■フロイトを批判したラカンも、また生殖イデオロギーを前提としてファルスのメタファーを持ち出してしまった
■さらにフロイトやラカンを批判したエクリチュール・フェミニンの論者たちも、女や同性愛者の外部性(言語以前の欲望)を美化して語ることで、かえってフロイトやラカンの議論を補強してしまっている
■言語化されない(≪他者≫の欲望ではない)欲望はありえないというラカンの理論を引き受けたうえで、そこからファルスのメタファーを払拭する可能性を考えていきたい

愛の経験

■ 一般的に人間の性関係の核心にあるものは、不可能性である
■その不可能性に関して、ラカンは女の不感症と男の性的不能という形で説明した
■しかし、これは男女関係なく誰もが経験する普遍的な愛の不可能性の二側面だ

巧妙な言い忘れ

■ 精神分析において、「正常な」愛においても経験されるエロスの不可能性を語ることは抑圧されてきた
■一方、「正常でない」愛の経験においてばかりエロスの不可能性が語られているのは、抑圧されたものが別の場所に回帰する「失錯行為」という現象だ
■この精神分析の「失錯行為」は、歴史的な政治言説として批判されるべきだ

〈エロスの不可能性〉を知る

■エロスの不可能性は言語によって構築されたものなので、時代ごとに異なった形で現れる
■異性愛のなかにも同性愛のなかにもエロスの不可能性があるのにもかかわらず、歴史的な表出形態が異なるために同性愛が差別されている

  • 異性愛は、エロスの不可能性を生殖イデオロギーと家族イデオロギーによって希釈できるという特権を持っている

  • 一方、ペニスの快楽の特権化を背景として、同性愛のエロスの不可能性は「病理」として解釈されるようになった

■そのため、同性愛をエロスの不可能性から無縁の愛として美化するのは、むしろ巧妙な排除の戦略にはまってしまう
■〔ヘテロ〕セクシズムを認識し、愛についての議論からファルスというメタファーを取り除くことによってこそ、性対象の性別のみが特権的な主題にならなくなるだろう

論点(準備中)

1.       そもそも精神分析を論じる目的?
2.       マゾヒズムとサディズムの普遍化?(P119)
3.       全体としてセクシュアルとロマンティックの混同?

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