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働き方革命:伝説の落花生を復活させた男の物語

男の名は杉山孝尚、杉山ナッツのオーナーで磐田信用金庫主催のビジネスコンテストで優勝した「究極のピーナツバター」職人だ。

農家が受賞するのは初めてだということで、賞金は早稲田のビジネススクールに行って経営の勉強を行なったとのことだ。

浜松で生まれ育った杉山さんはプロのダンサーになろうと思い、高校卒業後にニューヨークへ、杉山さんが農家に転身しようと思ったきっかけはこれが最初の選択肢だった。

プロのダンサーを夢見て、老舗レゲエレーベル「VPレコード」のショップ店員としてアルバイトをされていました。ある時、VPレコードの社員から「本社で働かないか?」と誘われたとのこと。数字を扱う地味なデスクワークだったが、ここで思いのほか高い評価を得た。

杉山さんが高卒だということがわかると、職場の人たちは「近くに大学があるから、もっと勉強してみなよ」とアドバイスをした。その声に背中を押されて、21歳の時、ニューヨーク市立大学のビジネス専門大学バルーク校に入学した。

大学に入学後はとにかく勉強にのめり込む。会社の経営資源でもある「ヒトモノカネ」の関係に興味が湧き、意外な才能が開花されたのことだ。インターンを経てKPMGの社員に採用された。

そしてここから、杉山さんの運命が大きく変わる。
ある日、全国紙『ウォールストリートジャーナル』を読んでいたら、ピーナツバターの特集が組まれていた。その記事には、1904年のセントルイス万博でピーナツの品評会が開催され、「遠州の落花生が世界一に輝いた」と書かれていた。故郷の記事書かれた特集は、分量にしては少なかったが、杉山さんにしては『これだ!!』と思える神からの啓示にも思えたとのことだった。

アメリカで仕事をしているうちに、「日本のモノづくり」に興味を持つようになり「サービス業ではなく、もっとタンジブルなもので勝負したい」と思い始めた時期だった。

それから数ヶ月後、エリート街道を歩んでいたKPMGをやめ、遠州の世界一の落花生からピーナッツバターを作ることに着手するが、当時、遠州の落花生自体が栽培されていなかった。そこから探偵のように、過去の遠州の落花生の文献を読みそこから、落花生を栽培していた農家を探し当て、ようやく、お茶缶一本ほどの分量だった落花生の種を譲り受けた。

もちろん、農業経験はなくそれから、土地も持っていなかった杉山さんは何度も地元の地主さんに頭を下げようやく畑を借りることができた。落花生の栽培も、専門家には聞かずに、独自の手法で栽培をし、最高ランク落花生を栽培し、そこからピーナッツバターをつくったとのこと。

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この記事を読んでみて、大きく感動したのは「人に聞くことは簡単だが、どうせやるのであれば全て自分で体験したい」という言葉でした。

人は自分の体験したこと、やってきたことしか相手に伝えることができません。言葉に嘘偽りがあっても、必ずどこかでボロが出るものです。

杉山さんがこうして苦労して、作り上げた落花生とピーナッツバターは最高と胸を張って言えるものだと思います。

理由は自分で研究して作り上げたものだからです。感動です。こう下腹ら着方ができるのだなとすごく勉強になり学びにありました。

杉山さんと落花生、ピーナッツバターに感謝です!

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