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前略、

先日の「キヨシちゃんのコト」に
意外に多くの反響がありました
(めずらしくね)

数名の方から
個人的にメッセージを頂きました

「読んで、せつなくなった」
とか
「心がギュッとなった」
とか


あの日は
朝からずーっとキヨシちゃんのコトが
心の片隅にあって

たまらずに
夕方、そのことについて
書いたわけです

とくに
意図があったわけでもありません

(たぶん秋の夕暮れのせいです)

~~~~~~

あの中の話で

若いお嫁さんが悪いのでもなく
キヨシちゃんが悪いのでもなく

誰かが、悪いとかでなく

「何をしでかすかわからない」
のは、
物語の中でしか生きられない
人間の性かもしれません

(たぶん、山のタヌキはそう思っています)


それも、
はじまりは、
それぞれの「ワタシの安心」のためです

(はじまりはいつも雨。みたいに)


誰も、
安心の物語の中で暮らしたいです

誰にも
悪気はありません

・・・・・

ただ、安心したいために
曖昧にしておくことができなくて
(スッキリしないし、キモチ悪いから)

コレは、「悪い・イケナイ、良い」
コレは、「劣っている、優れている」と

アレは、「やるべき、やっちゃダメ」
とか、

わざわざ、分別して、区分けして、
そのレッテルを貼って

私の安心物語を創って・・・


でもさー、
その自分で作ったワク(物語)が
あたらしく
「私の苦しみ」を産み出したりしてませんか?

つーことを感じるわけです。


「悪いものを排除すれば、安心だわー」
だけど、同時に
「あちら側に、なりたくない恐怖」が産まれる

とかね

~~~~~

カラダも、ココロも、
安心のために

その悪いモノを取り除こうとして
(それを悪いと決めて)

それを
亡き者にしようとして

自然物としての人の
全体の奇跡のバランスを
崩したりしちゃうよねー

とか、
思うのです


「曖昧な調和」なんか自然だな
「ふむふむ」

ただ、それだけです



かしこ

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