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アミクとカンズのクラシック音楽の旅【7】〜バッハの音楽人生~

松田 亜有子「クラシック音楽全史ビジネスに効く世界の教養」を参考にしております。

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Q:Quinze(カンズ)さん

A:Amique(アミク)さん

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Quinze(カンズ)さんとAmique(アミク)さんは最近バーで知り合った友達。Amique(アミク)さんがクラシック音楽を教える大教授であることから、彼から色々クラシック音楽について教わるQuinze(カンズ)。アミクは昨日のミウがどうしても気になっていた。彼女はどこの人なのだろうか。あの小柄さと真っ白な肌から、少し異世界の感じがした。彼女のようなタイプの方は、これまであったことがないかもしれない…

A:やあ。カンズ。今日も相変わらずいるね。来たばっかりかい?ビールを召し上がっているっていうことは。

Q:やれやれ。今日も大変だった。なにせ、会社の人事部が大変なことになってねえ。経営は本当に大変だ。大変…

A:なんだかカンズらしくなく、少し疲れている感じがするな。

Q:そんな日もあるさ。なにせ五十過ぎてるんだ。まあ、若返りしていくつもりだがわあはは

A:さてて、今日は…バッハの話だね。

Q:ヘンデルというえらいビジネスマン音楽家の次、バッハはどんな人物なんじゃい?

A:ヘンデルと比べると、彼はどっちかというと音楽に専念し、勤勉に働く音楽の父、という位置付けがされているね。ドイツの有名な音楽一家の生まれである彼は、自然と音楽の道を歩むようになっていた。

Q:音楽一家で音楽家かい。なんだかつまんない人生だな。俺は両親ともアルバイターで自分で自分の道を切り開いた。呑気な人生のように聞こえるがね…

A:まあ。そう比べると彼は恵まれた環境にいたね。でも彼は10歳で両親を亡くし、14歳上の兄のところに身を寄せるんだ。好奇心が旺盛で、勉強熱心だった。彼は子供用の教則本にはすっかり飽きてしまい、兄の楽譜を見せてもらうように願ったけど、兄さんは見せてくださらなかったみたいだ。そこで、彼はこっそりその楽譜を写し書きするようになった。一人でろうそくを使うことは禁じられていたため、月の明かりの下でね。そして兄にバレで、写し本まで取り上げられたけど、バッハはもう頭の中に楽譜を暗記していた。

Q:子供の時からそんな意志が強いんだね。苦労人の方が恵まれているという説はある。

A:そうだね。彼はとても勤勉で、有名な音楽奏者の演奏を聴くために、400キロの道を歩くとか、とにかく目的を達成するためには、何を使ってでも頑張る性格で、「大変だから」となんかの理由では諦めなかった。彼はとても謙虚で、「私と同じくらい勤勉であれば、誰とでも私と同じようになれるでしょう」と語るのが常でした。

Q:こういう人は尊敬に値するよな。現代の人間っつうのは、やる前に諦めるからなあ。ティックなんとかを見ながら、1日を過ごして、楽しいと勘違いしてやる。

A:まあ、現代の人は、原点に戻らないといけない部分があるよね。ちなみにバッハは初めから有名だったわけじゃないんだ。彼は地味に勤勉な人で、有名になることにはあまり興味がなかったようだ。ただ教会の音楽をひたすら書き続けた。オペラを書くと有名になれるのに、彼はもっと本質的な純粋な「音楽」を追求していたんだ。

Q:素晴らしい!

A:同時代のヘンデルの作品と、バッハの作品を比べてみよう。何が違うかわかるかい?こちらはヘンデルの「王宮の花火の音楽」。「水上の音楽」も当時はとても有名だった、彼はテムズ川の大型船でわざわざこの音楽を披露したんだ。「水上の音楽」はこちらーー

A:そしてこちらが、バッハの「ブルデンブルク協奏曲」

Q:うーん。そうだな、屋外で演奏するから、金属楽器が目立つ派手な感じのヘンデルと比べて、バッハ時は繊細で神経の先が刺激されるような音楽って感じかな。

A:まさにそうだよ。

Q:さっき、バッハは生前そんな有名じゃなかったと言ったよな。そしたら、いつどうやって今こんなにも評価されるようになったんだい?

A:それはね、メンデルスゾーンがカギになるよ。バッハの音楽は弟子たちが脈々と継承し、一般的な聴衆からは忘れられていった。そこで、メンデルスゾーンがバッハ復興を行い、一気に広まったんだ。今や、「バッハだけが永遠の真理を見抜いている」と、二十世紀の偉大な作曲家ドビュッシーが語るほど、音楽界では不動の地位を確保している。音楽家を目指す人であれば、必ずバッハを勉強している。

Q:そんな人生も、悪くないねーー!ちなみに、アミクさんは、どうして音楽家を目指して、今音楽界でどんなお立場なのかいな。そこ、全然知らなかった。

A:僕はね…

(続く)


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