ラムとマトン

子どもの頃、僕の世界にはラムはなかった。

羊といえばマトンだった。辞書的にいえば、ラムは生後1年未満の仔羊の肉で、マトンは、2年から7年くらいの羊の肉らしい。じゃあ10年経った羊の肉はどうなんだ?マトンではないのか?なんてことはどうでもいい。でも多分マトンでいいんだろう。

一般的にマトンは臭みが強くてやや固い、ラムは匂いがなく柔らかいという。一般のイメージなんてくそ食らえといいたいところだか、入口としては、結構左右される。そして、ラムとマトンに関しては、個人的な印象は一般的なものと変わらなかった。

偉そうにラムだマトンだというが、区別しだしたのはラムを知ってからだ。それまではマトン=羊肉という年月を約30年近く続けてきた。ただ、最初からマトンだった。羊の肉は。牛肉がビーフだったり、豚肉がポークだったりするよりずっと早く、羊肉はマトンだった。

マトンをマトンとして食べたのは、多分小学校の給食が最初だろう。「鯨肉のノルウェー風」というような印象的なメニューとしては記憶にないが、玉ねぎとピーマンと一緒に炒められたいわゆる野菜炒めの中に入ってる肉という絵が頭の中に残っている。そしてそれはくすんだ灰色だった覚えがある。だから今もマトンというと灰色の肉というイメージが抜きがたくある。でも牛肉や豚肉だって焼く前は赤いが、焼いたら、たいてい灰色とはいわないがそれに近い色になる。なるがその焼き色を肉のイメージとして持ったりはしない。やはり赤なのだ。でもマトンは灰色。そのイメージを覆したのがラムだ。

僕とラムの出会いは、その最初がいつかは覚えていない。ただいくつか鮮やかな記憶がある。

その一つが、15年前の記憶だ。その頃僕は仕事の事情で、しばらく家族と離れて暮らしていた。ただそれは会社の要請ではなく、個人的な事情だった。

住んでいたのは、子どもの頃に住んでいたおんぼろアパートから祖母の家に行く途中の、変わった形式のアパートだった。ドアを開けるといきなり階段で、部屋は二階にある。手前が四畳半の台所、その奥が六畳の和室、そのまた奥に三畳ほどの洋室があるという奥行きのある作りだった。

一番手前の台所のシンプルな冷蔵庫の冷凍庫に入っていたのがラム肉だった。岡山の友達が送ってくれたものだった。小料理屋をやってる友達で、お客さんから大量にもらったらしい。お店の雰囲気には合わないし、自分たちだけでは使い切れないということで、こっちにもお裾分けが来た。

自炊はしていたものの、そんな凝った料理が作れるわけでもなく、ましてやラム肉を使った料理なんて食べたこともない。今なら大好物なジンギスカンも、当然存在は知っていたが、本格的にラムを使ったものは食べたことがなかった。食べたことのあるのはなんちゃってジンギスカンの類だ。

だから自然と焼肉になる。考えれば贅沢なもんだ。そのラム肉は友達曰く「いいラム肉」で、確かに塩コショウして焼いて、焼肉のたれのいいやつにつけて食べるだけで、とてつもなく美味い。またいいラム肉はあっさりしてて、いくら食べても、脂っこくてもう結構という状態にならない。おかげで、結構な量が送られてきて、一時的に冷凍庫はラム肉で一杯な状態だったが、直に冷凍庫は、ラム肉が来る前のラップで包んだ冷凍ご飯が重なる状態に戻った。

幸せなラム肉の焼肉は、しばらく僕の中では揺るぎない地位を占めていたが、それを覆したのは、渡辺橋だったか大江橋だったか、そのあたりはあやふやだが、とにかく橋のたもとのビルの地下のお店のラム肉だった。

その地下のお店はフランス料理が主体のラウンジのようなお店だった。間接照明だけのほの暗くて、静かな落ち着いたお店だった。その雰囲気の割に客層は若いカップルや、コンパなのか男女のグループも多く、華やいだ感じの時もあった。

そこには月替わりのスペシャルディナーを目当てに、ほぼ毎月ある女性と通っていた。そのスペシャルディナーと、ラム肉料理をシェアするのがおきまりのコースだった。

彼女も僕も、肉にあまりソースの類をかけるのが好きではなかった。その点、そのお店は、フランス料理でありながら、何にでもソースをかけるわけでもなく、素材に応じた味付けを楽しむことが出来た。だからラム肉にも、味付けを選べるように、ソースを別皿で供するなどの工夫があった。そしてたいてい僕らはシンプルに塩胡椒だけで食べることが多かった。いや、正確には、お肉をいくつか切り分けて、ソースを試しつつ、最後の一切れは塩で、みたいな食べ方をした。やはり、お店が自信を持って出してきたものを、全く手もつけないというのも、礼を失するような気がした。そして、そういう思いを共有できた相手でもあった。

そのお店も、ちょうど一年通った後、方針が変わったのか、ラム肉に直接ソースがかけられるようになり、足を運ばなくなった。そして彼女とも疎遠になった。

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