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本音をいえば

障がい者雇用での就活を始めた。一社一社、合否が出るまで待つという方法で。

とんでもなく時間がかかる。だがたくさんの企業を同時に受けるというやり方が私にはできない。
同時進行すると、どの会社がどういう会社なのか忘れてしまうし、就活の予定が詰まっていると、脳がキャパオーバーして死にたくなってしまう。

だが時間があると、アパートを出てすぐ隣にある車の中で練炭を点け、死ぬことを考える。

最近の食事。2〜3人前の食事を用意して気持ち悪くなるまで胃に詰める。動いたら吐いてしまうぐらいまで吐き気が強くなったら手を止める。少ない水で下剤を飲み込む。

そして少しの時間を経て、口からものが出てしまわないようゆっくりとベッドに横になり、吐き気と眠気を抱えながら眠る。起きた頃には日が暮れている。
頭痛を覚えながらまた同じように食事をして、入浴したりしなかったりして、睡眠薬を飲み1日を終わらせる。

このような日を繰り返すと、なぜここにいるんだろう。なぜここで生きているんだろうと考えるようになる。映像も本も楽しめなくなった私は分からなくなる。美味しく食べるってなんだったっけ。映像を観て笑う、本を読み感動するってなんだったっけ。

後天性のハンデを持ち生きること、言葉に表せない。
パートナーには健やかに生きてほしいと願いつつ、自分はいつでも死にたいと思う本当のわがまま。
社会には到底受け入れられないだろうという絶望感。
なのに社会に受け入れてもらおうという努力をしない自分。

諦めたいな。諦めたいな。本当に申し訳ないけれど諦めたいな。好きになってもらったのに、逆の立場だったら絶対に嫌なことを理解してるのにごめん。

死ぬ選択はパートナーの存在によって抑えつけている。必ず抑えつけなければいけない。
早く生きる用事を得なければ。社会の歯車にならなければ。透明人間をやめなければ。

まぁどんな状態になろうと死んで楽になりたいという気持ちは無くならないのだけれど。
まだ一社目を受けたばかり。いつか「厳正なる選考の結果、貴殿を採用いたします。」の文字を前に、私は心の底から嬉しいと思えるのだろうか。

私が死んだとき。「まだ若いのに」「いろんな可能性があったのに」「力になってあげられなかった」「もっとできることはあったんじゃないか」いろんな言葉が飛び交うだろう。
どうか全て無にひれ伏してほしい。死を何年も望む者の前に、「可能性」「後悔」などの激情さえも無力に等しい。

車に乗って睡眠薬を飲んで練炭を点けて、人間と世界からフェードアウトさせてよ、ね。

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