ユキ

チャマメという猫②

次の満月の日、オレは夜釣りに来た釣り人の背後から闇に紛れてそっと忍び寄り、口に咥えた枝を遠くに投げて釣り人の意識をバケツとは反対側に反らした隙に一匹のボラをバケツの中から掠め獲り、その足で丘の上を目指した。丘に着くまでの間にボラは死んでしまったがまだ海の匂いがしていて美味そうだった。あの子はベランダからまた街を見ていたようで、家に近づくオレの影に気づいたのか、少し遠くからあの澄んだ声でニャ~オと啼いた。オレはボラを咥えていたので啼き声で返事を返す事が出来ずそのままベランダまで登った。そしてまた月明りに照らされた美しい彼女のシルエットを見た。ところが彼女はニャッ!と驚きの声を出して後ずさりしてしまった。オレと彼女はベランダの端と端で離れて見合った。オレはボラを足元に置いて彼女を落ち着かせようと出来るだけ優しい声をかけた。

「こんばんは。驚かせてしまったかな?」

「こんばんは。ええ。驚いたわとっても。それお魚よね?思ってたより大きいのね。私が見たことのあるお魚は私の手より少し大きいくらいだったもの。」

『お魚』その響きがかわいらしくてまた心臓が少し上に上がった気がしたし、また脳ミソがぽっぽっと熱くなるような気がした。

「これはボラという魚でね。港で良くとれるんだ。君が喜ぶと思ってお土産に持って来たんだけどもしかしてキライだったかな?」

オレは彼女にイヤな思いをさせてしまったのではないか、ととても不安になった。もしかしたら嫌われてしまったのではないか、と怖くなった。

「ううん。お魚は好きよ。でも私の知っているお魚と全然違ったから驚いただけ。これを私にくれるの?」

「ああ。君が喜ぶのならあげるよ。迷惑ならオレが食べよう。さっきまで生きていたんだ。きっと美味いよ。」

「えっ!このお魚はさっきまで生きていたの?貴方が殺したの?」

少なからず彼女の視線は鋭いように感じた。

「いや違う。ニンゲンが釣っていたんだ。オレはそれを貰って来ただけさ。」

嘘をついた。少し心臓がチクチクと痛んだ。でも彼女に嫌われるよりマシだった。

「そうなのね。貴方は死んだばかりのお魚を食べるの?」

「ああ、食べるよ。新鮮で美味しいんだ。君は食べないのかい?」

「ええ。食べた事はないわ。乾いた小さくて固いお魚は食べるわ。あとキャットフード。」

「ああ。あれか。あれは固いしボソボソしているし味気が無い。生の魚の方が100倍美味いよ。騙されたと思って一口だけ食べてみるかい?」

「うん。それなら一口だけ。どこを食べればいいの?」

オレはそう言われて見本を見せるようにボラの背中の肉を齧った。うん。まだ新鮮だ。海の塩気も効いていてとても美味い。それをゆっくりと咀嚼して飲み込み彼女の足元にそっとボラの体を置いた。

「こんな風に背中側の肉は骨がないし食べやすいんだ。腹側は内臓が詰まっていて苦い場所がある。初めて食べるならオレが食べた場所のすぐ横がいいよ。そこなら骨も内臓もないし肉もやわらかい。」

彼女は恐る恐るボラに顔を近づけてまずクンクンと匂いを嗅いだ。

「独特な匂いね…。」

そう言ってから小さく噛みつきオレの1/3くらいの肉を噛みちぎりもしゃもしゃとゆっくりと咀嚼し、勢いをつけてゴクリと飲み込んだ。

「美味しい!さっきまで生きていたお魚ってこんなにジューシーなのね!最初は臭いと思ったけど癖になる匂い。すごい!こんなに素敵な食事をありがとう!」

彼女はそう言うとまたあの牙が少しだけ覗く素敵な笑顔でニッコリと笑った。オレは自分の選択が喜ばれた事がとても嬉しかった。

そのままふたりしばらくボラを黙って貪った。彼女は内臓のところは「やめておく」と言って遠慮をしたのでオレがメインで内臓を食べて彼女は肉を食べた。美味いもので腹も満たされて、あわせて気分もとても満たされた。

オレは食べ終わり一休みしてから彼女の方を向いて言った。

「名前を聞いていいかい?」

「どうして?」

オレは困った。なぜかはわからないけれど「君が好きだから」の一言が言えなかった。

「君と友達になりたいんだ。」

自然とこの言葉が出てきた。

「お友達?貴方にはお友達はたくさんいるでしょう?だって自由なんですもの。」

なぜ彼女がこんな事を言うのかわからなかったし、なぜ彼女が素直に名前を教えてくれないのかわからなかった。

「確かにオレは自由だけど、オレには友達はいない。うまく付き合えないんだ。みんなオレを恐れるか嫌うかして離れて行ってしまう。オレも自分より弱い猫や小さい猫に興味は持てない。だから友達はいない。」

「私はきっと貴方より弱いし小さい猫よ。それなのに友達になりたいの?」

「ああ。君は美しいから。」

言ってしまってから、何か急に空気が重くなった気がした。オレは何か言っては不味い事を言ったのだろうか。少しの沈黙の後で彼女が口を開いた。

「・・・ユキ。私の名前はユキ。雪の日に生まれた真っ白な猫なの。だからユキ。安直だし、なんだか雪って暗くて静かで嫌いな名前なの。」

「そんな事ないさ。寒いのはキライだけど、雪は綺麗だよ。素敵な名前だ。」

「ありがとう。貴方の名前は教えてくれないの?」

オレは恥ずかしくなった。こんな美しくてキレイな名前に対してオレの名前はなんだ?『チャマメ』だなんて。なんの美しさもない。でも名前を偽るわけにもいかない。オレは恥ずかしい気持ちだったけれど素直に答えた。

「チャマメ。オレの名前はチャマメ。小さいころは茶色くて丸かったらしい。今じゃ港の誰よりも大きくなっちまったけど。」

「チャマメさん!かわいいお名前!なんだか怖そうな雰囲気があったのにその名前を聞いたら印象が良くなったわ!」

オレは素直に嬉しかったし、なんだかこっ恥ずかしかった。

「『さん』づけはやめてくれ。そんなに大した猫じゃない。呼び捨てでいいよ。ユキにそう呼ばれるのは嬉しい。」

「わかったわ。じゃあ呼び捨てさせて貰うわねチャマメ。」

「ああ。それでいい。ユキ。」

オレはユキと友達になれた事がとても嬉しかった。その晩はつい話し込んでしまった。気づけば遠くの空が白くなり始めていた。オレはまた何を話したかあまり覚えていなかったけれど、そんな事を気にせずおしゃべりに夢中になっていた。だがふとおしゃべりの切れ目にユキを見ると少し眠そうな顔をしていた。

「眠いかい?」

「ええ。少し。ごめんなさい。でもチャマメとのおしゃべりは楽しいわ。」

「それはオレもだよユキ。でも今日はここまでにしよう。またそのうち遊びに来るよ。」

「ええ。待っているわ。ここから街を見ながら貴方が来る夜を待っている。」

チャマメはユキとしばしのお別れをして朝日まぶしい丘を港に向かって歩いていった。チャマメはとても心が満たされていた。これが恋なのか。恋は素晴らしいな。ずっと心に飼っておきたいな。オレの思いのままにならないくせにこんなに楽しいなんてなかなかいいヤツじゃないか!そんな風にまだ恋を知ったばかりのチャマメは思っていた。


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