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やまと発生録(じいちゃんの手記)

 昨年末父が他界して、実家で古い写真などをひっくり返していると、祖父が書いた手記が見つかった。昭和44年に祖父が入院した際に一気に書き上げたようで、原稿用紙400字の原稿用紙100枚ちょっとあった。
 祖父の父(会ったことがない私の曾祖父)が奈良からいわきに来るあたりから、今私が商売(ゲストハウスとイタリアンカフェダイニング)を営んでいるやまとビル(鉄筋コンクリート造)を作るまでの記録だった。(私が生れる一年前まで)
 子供の頃宿敵だった祖父(よく喧嘩していた)の手記をまさか書き起こしする日が来るなんて夢にも思わなかった。私にとっては、いつも茶の間で煙草をふかしながら、チョコレートを食べ、水戸黄門を観ていた祖父。手記には、当然ながら祖父の少年時代があり、戦争があり、私の知らない町の様子があった。
 手記と一緒に年代の近そうなアルバムも見つかった。
 父の葬儀やその他諸々が落ち着いてきたのを見計らって、アルバムを開きながら読み始めた。字が汚い(遺伝している)、文章も難しい、旧漢字が使われている、言い回しがくどい、など、とてもとても読みやすいものではなかったけれど、なるべくそのまま書き起こした。(きっと書きっぱなしで校正などしていない)判らない文字は「?」となっている。誤字と思われる漢字もそのままにした。実名出てくるし、事実と違うことが書かれているかも知れないが、あくまで祖父の目から見た記録なので、そのあたりは大目にみてもらいたい。
 完全に筆者の個人的な手記なのだけれど、当時の生活の記録にはなっていると思われるので、こちらにあげてみることにした。半日くらい本当にすることがなくて、ちょっとしたタイムスリップ体験をしたい方、宜しければお付き合いください。
(※もしこの長文を読んで下さった方で「この『?』ってこの字じゃない?」など、お気付きになりましたら是非コメントにて教えてくださいませ。)
                    令和6年3月15日 孫

この記録を書くに当たって多少年代がはっきりしない場合もあるのであるが大体は間違っていないので一、二年のズレは大目にみてもらいたい。
北林辰蔵は明治八年四月八日奈良県磯城郡多村矢部に農家の二男として生まれた。
?奈良?第??の三人兄弟の中である。
大体奈良県と云ふ所は海に遠く又山も少ないので農閑期になると村の若い者にとっては仕事が少ない所であった。
又筆墨の生産が盛んであったのでこれの行商で全国に出て行く者が多かった。
初の長男の奈良?が友人五六人とさそひ合って東北地方に行商に出かけて居たが遂に白河に居をかまへてここを中心として仙台、白河、浜通りを定期的に廻って筆墨の商売をしていた。その兄を頼って辰蔵も又多分?隊検査を終へた頃と思われるので明治三十年頃と思ふが白河に来た。
白河を地盤として茨城県栃木県宮城県等を廻って商売をして居た。
当時の事で自動車は勿論、自転車もなく荷車に荷物をつんで白河から石川をへて小斎所峠を南下して湯本に出て浜通りを下って相馬に入り岩沼から福島に出て郡山を通って白河に帰ると云ふのが一番多かったコースの様であったらしい。荷車を引いて歩き乍ら又各商店や役場学校等に依って商売をしながらの旅で一度白河を出れば帰る頃には2ヶ月位はかかるのが普通であったらしい。
当時相馬の旅館は宿賃6銭で酒が2合(今の徳利の倍は入る徳利である)ついたものだと云ふ様な話をよくして居た。
又当時小斎所峠を歩いている時に追いはぎに追われて命からから逃げたと云ふ事もあったらしい。当時のやなぎごおりや筆箱、矢立等保在して居たのであるが戦災で全部焼いてしまった。惜しい事をしたものである。
白河に居をかまへてしばらく行商をして居る内に世話をする人あり当時矢吹町に居た降矢スイと結婚する。
スイと辰蔵との出会等又間に入った人などどうゆう風に知り合ったのか一切不明であるが当時スイの養父が西白河郡の矢吹町におり又スイも方々転々として苦労して来たらしいのであるいは当時矢吹町に居たのではないかと思われる。
ここでスイについて簡単に述べておくと平二丁目に小野屋と云ふ店(多分乾物店)に生れた母が気の強い女で父が入りむこであったのでその小野屋に居られず子供をつれて家を出たのであるその?妹とも離ればなれになり(この妹と云ふのが牧野である)富岡に一年川尻に三年矢吹に一年東京に二年という様に或いは養女になり或る時は女中になりまた居そうろうの様な生活をし乍ら生き長したらしいのである。
その中では当時の農業務大臣であった河野広中の所へ女中として住込んで居りその時眼病に罹った為に矢吹に帰っておりその后結婚したらしいのである。
辰蔵はスイと一所になる前に一人の女性と結婚しておりこの女性との間に出来たのが白河の鈴木進一である。
スイと結婚するについて進一は兄夫婦(奈良?サワ)に子供がなかったので養子にやったらしい。
さて結婚後も以前として今迄の行商は続いて居たのであるが辰蔵の性格が真面目ではあるがお人よしで働き出せば働くのであるが元々はなまけぐせがあり腰が重く仲々働き出すのが大変であったらしい。行商に出ても少し商売が出来るとすぐに楽な気持になって一寸した雨、雪でも仕事を休みたがり当時の事で商売も結構出来たのであるが家に帰る頃にはそれ程金は持って帰らなかったらしいのである。
これは無類の酒好きも原因して居たらしい。
当時よく相馬の??屋は一泊六銭でお酒がつきその徳利にはタップリと2合は入っておった等と云ふ話をよく聞いたものである。
この辰蔵とは対照的にスイは又非常に働者で一時もじつとしてはおられない性分に又頭がよく人とは交際ずきで少ししっかりしすぎて居る位であった。
その性格に加へて小さい時からの苦労が加わって〇々ならぬ性格の婦人であったらしい。
とに角辰蔵は一度旅に出れば2ヶ月位は帰って来ず又無類のお人好しと来て居るので辰蔵の働きだけでは一生うだつが上らず、と云ふて女の内職位ではたかが知れて居ると云ふ訳で辰蔵に行商にもついて行く様になった。
それで今迄よりは辰蔵を補佐し乍ら商売をして歩いたようであるが雨が降れば二人で旅館に休んで居る事になり経費がふえてそれほど残らない事になり何とかしなければと考へる様になった。
当時白河には奈良から来た友人が五、六人おり白河の近辺での商売はそれ程望めない状態であった。
それで当時お得意も割合にまとまっており、又気候もよく又生れた平にも近いと云ふ事で湯本に越して来る事になった。
これは別に湯本でなくとも平でも小名浜でもよかったのであるが湯本にかっこうな貸家がみつかったのである。
時に明治四十二、三年頃長男政美が生れて間もなくの頃であったらしい。
湯本町上町三函一三二番地。上町の中の寺の真正面で菅野と云ふ電気工事店がありその西隣りである。
大家は比佐賢司丸屋と云ひ当時大きな仕立業を営み男の従業員がいつも十人位居る仕立やさんであった。
余談になるが当時の湯本町の??を一寸記しておくと現在の地主等と違ひ落語に出て来る様な大家と店子の関係であった。
大家は親であり店子は子であり賃借以上に本当に親類以上のつき合いであった。
不意の来客があれば御飯の貸し借りは勿論味噌醤油迄又自分の家と大家さんの家と区別せず子供達は平気でお互いの家を自分の家みたいに行ききし小生等も友達とのカクレンボ等では平気で大家さんの土蔵等を使って遊んだものである。
どちらかに夫婦けんかがあれば親身になって仲裁をし喜び事があれば一しょになって喜ぶと云ふ仲であった。
夏場よく大家さんの家の前の?み台に腰を掛けて仕立職人の人達と一しょに花火をしたり又怪談ばなしをきかされて夜便所に一人で行けなくて困ったものである。
また商売も今程きびしくなくてとに角店を開いて居れば何とかなる時代であった。
ここに雑貨類を主とした店を開いたのである。湯本にうつってからは余り遠くに出掛けずにとまりと云っても精々一泊か二泊位で出来れば湯本を中心として日帰りの出来る位の所で精々植田勿来位から浪江、相馬あたりから小名浜、江名豊間から小野新町位の所を中心にして行商をする事にした。
と云っても現在と違って荷車に荷物をつんで行商をしてのであるから仲々に大変だったらしいのである。
と同時にスイは店の雑貨店の方を真剣にやりはじめた。仕入先は平が重で分丁目の大一屋、四丁目の山城や、又?文??の他野菜、果実まで売った。ホーキ、ハタキ文房具からザル、砂糖等。
小生等も子供の頃よく店から黒砂糖のかたまりを持ち出しではカジったものである。
初の店の屋号は奈良から来たのでやまとやとしたのであるが本職が筆墨の行商なので何時の間にか筆やで通る様になった。
湯本に来てからコオ、小生、太一、義雄、唯雄とよると子供が生れた。コオの上に生れるとすぐに死産したアヤ子があり全部で八人の子供が生れた訳である。
不思議に三つ違いであった。
その内に商売熱心なスイは荒物雑貨文では物足りぬ様になり又当時の入山炭鉱(今の常磐炭鉱)の従業員にお得意が多かった事もあって古着類もあつかふ様になった。
当時入山炭鉱は景気が良く従業員も共働きが多く着物を自分で裁縫して着るような人はなかったのでこれが非常に当たったのである。
当時は小生を初め次々と小さい子供達が居たので仕入に行くにも大変であった。
古着の仕入先は東京であったのである。
それで店は店員をおく様な店ではなかったのであるがいつも女中兼店員をおくようになった。ここでも又スイは無類の人使いのうまさを?した。一度来た女中は平均して七、八年も働いてくれたのである。
東京に仕入に行くにもこの女中に赤子を負ぶわせて仕入に行くのである。
又コオも大きくなってからはよく子守がわりに東京へ連れて行かれたものである。
当時古着の仕入は神田本町のビルの一階に大きな古着市場がありここへよく行ったものである。
又今の様に汽車も早くなく本数も少ないので上京すれば必ず一泊になった。
よく泊まった旅館が佐久間町の佐久間館である。
当時炭鉱の従業員は秋田、山形等からの出かせぎ人が多く又程度もひくかったので貸売ではあったがこれは非常に率のよい商売であったらしい。
為に貸し倒れを防ぐ為にその長屋の中で気のきいた人を世話人に選びその世話人に集金等の他の事を一切まかせて商売をしたのである。勿論その世話人には特に親しくなり時には親戚以上のおつき合いを続けた人が何人も出て来たのである。
無類の頭のよさ、交際家としてこの商売は誠に適切であった。
勿論その世話人にはその都度適当の謝礼をし又色々と気を使ったものでこの商売の方法は現在でもそのままあてはまるものである。
以上の様な訳で当時スイの口からはよく石?のイネチャン髙橋さん(これは現在の湯本の高橋洋??白?瓦工場の古川?チャン等の名前がよくきかれたものである。
石〇のいねちゃんとは当時髪結いさんであった。当時の髪結いさんは店を開かずに道具をもってお得意さんを廻って歩いたものである。
その内に古着丈でなく頭の物(べつ甲類)クシ、コウガイ類、帯上(今で云ふ貴金属)も扱う様になった。これは炭鉱の従業員がお得意でよく町の商家のおかみさん連中を相手にしてはじめた。
当時ベツ甲類の仕入は東京の木原商店が多く又少しは平の大平商店(二丁目)等からも仕入をして居た。又貴金属類は東京の博力等が多かったらしい。
当時の湯本の商人等は仕入はほとんど平に依存し直接上京して仕入をする商人等はいなかったので古着にしても、べっ甲類にしてもお客様がたの評判もよく又利益率も格別によかったらしい。とに角こうして辰蔵はお天気さえよければ毎日車を引いて行商に出掛けスイは又スイで店の雑貨商のかたわら古着貴金属の行商をしてよく働いたので子供は割合に多かったのであるが内?的には大部楽になった様である。
大正2年世界大戦がおこり日本もこれに連合軍側として参加したのであるがこの頃から日本の景気も徐々によくなりやがて非常に好景気に??様になった。
その頃から店も雑貨類丈でなくそろそろ出来はじめたメリヤス類も扱う様になって来た。
いわゆる衣料品である。
メリヤスと云っても当時は綿メリヤスの上下と子供用のメリヤス、上下続きになって居るボーイ、腹掛け付のも、引でパツ4、又大人の猿股又帽子では鳥打帽子、カンカン帽等で当時としては非常に流行のセンタンを行く商売をはじめたわけである。
当時東京から来る山本商店と云ふのがありこれには大部面倒をみてもらったらしい。
この山本商店とは大部長く取引が続き其の内平へ出て来る頃迄続いておった様である。
また古着仕入の関係でよく上京して居たので?山町でもよく行き宮入商店等も主取引であったらしい。
とに角好景気の頃で時代のセンタンを行く商売でかなりもうかったらしいのである。
これが現在の衣料品店になるそもそもの初端である。
当時のメリヤス類は種類も多く至極?準であった。〇は二〇(ニマル)番手三〇(サンマル)番の二種類で使用量に依って値段にも開きが出て来るのである。
二〇(ニマル)番手の一貫反物とか三〇(サンマル)の貫百と云ふ様な訳である。大人物で最安物が二〇の九〇〇勿位から貫二百位迄。三〇で貫から貫四百位迄位の種類で?供物に至っては積々四五?の種類で至って種類の少ないものであった。
当時又メリヤス類も名古屋製品が最下位で次に大阪物でやはり東京製品が上等でメリヤス類でも東京目製品と云って東京製品は喜ばれたものである。
その后何年かたって毛糸製品が出来初の男子ものではコットンシャツ、婦人物では毛の肌地?に?勝券たまには毛股引又オコシ等もあり衣料店特に洋品店の主力商品であった。
その頃辰蔵長男政美が平商業を大正十年頃卒業して(三年生)家業を手伝う様になり愈々衣料品にウエートをおく様になった。
又商売丈でなく近在に卸をする事を思ひついた。当時乗物としては自転車が最新式の乗物でこれに現品をつけて湯本を中心に廻りの商店に卸をして歩く様になった。
勿論辰蔵の筆墨の行商は依然として続けている訳である。
が何分自転車の荷台ではメリヤス類では大きくなりすぎて積めないので荷物にかならず金額になるものと云ふ事で羽織の紐を専門に扱ったのである。
これで南は日立から北は小高位まで毎日行商に出た。また当時の炭鉱町は景気がよくて炭鉱の会計日と云ふのは大変なにぎわいであった。
それで会計日となると炭鉱の計理事務所の前あたりには露天商が軒を並べて店を出しお祭り以上のにぎわいであった。
これが入山炭鉱、小野田炭鉱、長倉炭鉱等其の他いくつもの炭鉱の会計日があって月のうち何日からこの会計にあたり非常な活キヨウを呈したものであった。
辰蔵もこれに店を出す様になりこれにはモッパラ当時最新流行のメリヤス類を持って出店したのである。
露店のことで露天商との地割の関係などもあり、面白い商売もしたが又セッカク荷物を持って行っても店が出せずに帰って来る等ずい分とつらい思ひをした事もあったらしいのである。
この頃が炭鉱の第一次黄金時代でなかったかと思ふ。当時湯本の台の上公園などお花見の時は大変な人出で昼間からあちこちでけんかが始まり大変なさわぎであった。
又5月の節句には炭鉱の山神祭があり炭鉱が東京あたりから東京大歌舞伎などをまねいて来て大きな小屋掛けをして従業員に無料で三日間公開したものである。
筆者も子供の頃カシワ餅に二十銭位の小ずかひをもらって(二十銭の小使いは大きなお祭りである)小野田炭鉱とか、台の山公園によく見に行った記憶がある。
当時見た芝居で頼光の土グモ退治とか岩見重太郎のヒヒ退治等誠に見事なもので今でもあの位の大掛かりな芝居は仲々見られないと思ふ。と云ふ様な訳で雑貨屋はダンダンと洋服屋になって行くのであるがその頃政美が自転車で方々へ卸をしていく先々でどちらからと云われて湯本と云ふと何となく軽く見られて取引がしにくい。平ならばどこでもよいから何とかして平に出たいと云ふのが政美の考へ方であった。
とは云っても当時の旧制平商業3年を卒業した丈の少年で年令もまだ十六、七才の事とて朝夕はかくれてよくテニスに行き小生等はいつも迎へにやらされたものである。
当時の湯本のテニスコートは今の温泉神社のワキにあり今の常磐支所のある所である。
当時の湯本町の生活風俗等を一部紹会するとまず一番に不自由だったのは水である。
水道はなく温泉は豊富であったが水はまず井戸に頼って居た。
入浴の方は温泉の事で当時町の銭湯が十銭で入浴券で大人六枚位買える。これを持って入浴に行くのだが近所に風呂屋が何軒もあるので色々な所に迄入りに行った。
鶴の湯、東湯、中の湯、久きやの湯等である。
温泉の事とて湯は出しっぱなしなのでいつもきれいである。友達とさそひ合って行き風呂の中でもグリワコや何かで遊んで来るのは楽しみの一つであった。
これに反し水の方は大変である。井戸迄くみに行くのであるがこれがよい水の出る井戸が何ケ所もなくこの中で一番近い所が温泉神社の下の町角(現在の新瀧旅館の所)にあり小生の家からは五、六百米の所であった。
ここへ朝五時頃におきて手桶をもつて行くともう手桶が三十位ならんで居る。行った順に手桶をならべておいて家に帰り大体時間を見計らって行って水をくんで来るのであるが、当時の手桶には二通りあり(バケツはなかった)普通の大きさ(直径三十?に立サ四十五?位)と(二十七)と云ってこれよりも直径も太く高さも倍位のものである。
今のバケツと違って木で造ってあるので手桶丈の重量がかなりある上にこれに精一パイの水を入れて五六百米の所を帰るのだから大変であった。
これを天ビン棒を使って2つづつ運ぶのである。その内に夏になってこの井戸も水の出が悪くなると水を求めてずい分遠く迄水をくみに行くのである。
当時の水のよい井戸は温泉神社の外は入仙の子種神社の井戸がありこの方は家から大体一〇〇〇米位もあったから往復では二千米である。これに大きな桶に水を一パイ入れて天びんでかつぐのだがこの仕事が当時の湯本の婦人達にとって本当に一仕事であった。
そんな訳で水を売る商売があり荷車に大きな木の箱をつけてこれに水を一パイ入れて引いて歩き手桶一パイ十銭位で売って居た。
小生の家も子供達は多勢居たがかつげるのは子供では無理なのでよくこの水屋さんを利用したものである。
当時の湯本ではこの水くみが出来ないと一人前の女でなかったのであるが、小生の家は子供も多く父も母も兄も働いて居たのでいつも女中さんが一人づつ居た。
又スイは前にも云った様に人使いがうまく一度来た女中さんは長く働いてくれたものである。それで女中さんも家族の一員になって居た。おなかさんの云ふ人は炭鉱の家の嫁さんであったが家に来て十年位働いて家に帰ったのであるが帰るとすぐ腸チブスで死んでしまった。お墓が成田山の下にありお盆やお彼岸には必ずお参りに行った。
そのあとの丸ちゃんと云ふのは会津の坂下から来た人でやはり七、八年は居たと思ふ。
この丸ちゃんが家に帰る時には坂下の駅前で全部お嫁さんの仕度をして家に連れて帰ったので近所の大評判であったと云ふ。
それが評判になってすぐ川島要と云ふ学校の先生との縁談があり結婚して居る。
この様にスイと云ふ人は仲々芝居気もあり又宣伝も上手であった。
又前にも述べた様に大家さん(丸や)の所は仕立屋さんでいつも番頭さんや小僧さんが十人位居り店の表の方から家の中を通して裏の方とで反物を持ち掛声をかけてこれを引張るのである。そして布地を充分に引きのばしておいて足袋とか股引を作るのである。
引張る事において一割位余計に長くなって大部もうかるのだろうと思ったものだ。
その丸やの東どなりの二十坪位の平屋造りが小生の家であった。
その内表半分位が店で勿論店も全部土間ではなく半分位は畳敷であった。そのタタミの所に机が一つあり小生等はその机でよく宿題等をやったのをおぼえて居る。
夜になるとこの机のまわりを片づけて布団を敷いてねるのであるが家は小さいし子供達は多勢なのでいつもきゆくつにねて居たものだが朝ね坊丈は絶対に出来なかった。
とに角こうゆう状態で皆病気もせず一生けん命に働き(?し小生丈子供の頃はよく?の骨を折ったりけがはよくしたが)平へ出て来る事を心掛けて居たのである。
兼ねての希望であった平進出が大正十五年十月二日小生が平商業一年生の時に決まった。
前々から取引のあった平二丁目の大一居荒物店へ頼んでおいたのがたまたま大一屋の持家であるそのとなりの空いたのである。
今の古山電気の所であるがとに角湯本の店は家賃が当時三円位であったのに比べてこの場所は五十円敷金が家賃の三?であった。(当時はまだ権利金と云ふのはなかった)
それで五十円の家賃が拂い切れるだろうかと云ふ事が大きな問題であったらしいが政美が家賃丈は自分が一生懸命に行商をやって働き出すと云ふ事で一大決心をした訳であった。
ここは元石川洋品店と云ふ店があり仲々よく売れたらしいのであるが主人が賭事好きな人で失敗したらしい。
さて平に出ると荒物雑貨類は一切止めてメリヤスが主体の洋品店になった。古着類の行商も止め本職の筆墨も止めた。
屋号は当時だれもやまとやと云ふ人がなく筆やで通って居たので平に来てもふでや洋品店と云ふ事になった。
当時平の洋品店と云ふのは四丁目のツルヤを初めとして二丁目に中野洋品店、大黒屋、山家メリヤス店、陣野洋品店、モリタヤ、玉屋、等々の外、呉服店は三町目の三井呉服店、中の呉服店、吉田屋、仙台や、かめ田屋、川又小野栄、谷屋、諸橋、?屋等々があり当時は洋品店は新しい店が多く呉服店の方がはるかに資本力は大であった。
その中で洋品店としては四丁目のツルヤがずばぬけて大きく東北でも有名な店であった。又洋服店としてなかや、正札堂等がありそれぞれきそい合って居たものである。
その中へ湯本あたりからひょっこりと出て来て店も小さく(十五坪位)陳列の仕方もアカヌケのしない店で同業としては問題にはしなかった訳である。
その頃の洋品店と云ふのは主体が?大小類で売上の半分がこのメリヤスの肌着類であった。これに帽子、襟巻、手袋、沓下で今の衣料店から比べたら全く想像もつかないものであった。
尚足袋は主力商品の一部であったがこれは呉服、洋服店共においてあった。
これも毛糸製の肌着類に???等も少しあったがこれは高級品であって仲々売れなかった。筆者の家もご多分にもれずメリヤスが主体でこれに?ジリ外套インバネス、マント等が金額の張る商品であった。
浜の人達にはよく?ジリ外套が売れたものである(これは当時一枚五円位で)当時十二月の月で一日の売上が五十円から六十円位の時であったから仲々金額になる商品であった。
尚当時大人のメリヤスシャツが春物で一枚八十銭から九十銭上物で一円二十銭位である。インバネスと云ふのは一名トンビとも云ひ着物の上から羽織るもので袖みたいなものがついており胴は下迄長く便利に出来ておった。これは衿にラッコの衿毛等をよいものはつけるのであるが勿論女物は仲々高いので人造の毛皮である。
又婦人物として角巻、学生用にはマント、金釦付の外套等である。
マントは当時短く着るのがモダンであった。腰迄位のマントを羽織ってズボンはスソの開いて居るラッパズボンを、これが当時のモダンボーイの服装であり、
学校でもこれには手をやいてスソの幅は何寸迄と規定したりして生徒の間に物議をかもしたりした。
金釦の外套も又カッコウのよいものでこれは主に磐中の生徒が着ており?の両側に金釦が十何個とついており、当時磐城中学の生徒は外套に白ゲートル平商生はラッパズボンに黒マントと云ふ服装であった。
さて平に来てからは家賃が高いので皆一生懸命に働き当時十二月頃の一日の売上は先にも述べた様に五十円から七十円位であって一日に?ジリ外套が三枚位に毛糸の都勝?の二三枚も売れれば大したものであった。
又その頃は正月とか暮と云ふのは旧歴が主体で新の正月は大した事はなく特に一年中で一番忙しいのは旧の初売である。この日は別に特別に広告をしなくてとも(大きい店は千??を出す)客は買物をする日に決めておいたものである。云わゆる商店側は売初めであるが消費者の方から見れば買初めであった。
当日は店をスツカリ改造して真中を広く開け客がはいりよい様に店の前の道路の中程迄店を出してこれにメリヤス類を山積して午前一時頃店を開ける。
この台は当時のメリヤス類、これは一米立方位の大きさの木箱で大人物のメリヤスが十二枚位迄入るものである。
これを凹形に並べるのである。

東京名古屋の取引の問屋さんからも鷹曙を受けてカネを鳴らして景気をつける。
朝早く来た客には買物の額にかかわらず特によい景品をつける習慣で客の方でも寒い中を夜中の一時頃からお祝の買物に来てくれたものだ。
景品は大体一割位の割合で出すのだが小生の店ではよく会津の重箱とか、おわん、等を名入にして造っておいて景品に使った。
店によっては炭俵一俵とか毛布、ミカン箱等で景気を云ふ次第でこの日はまさに全町をあげて売ったものである。
其の頃の初売の筆者の店の売上は七百円か精々八百円で何とかして千円売ってみたいと希望したものである。
然しこの売上も鷹?に来て居る問屋さんが持って行く訳で店には???文が残ると云ふ訳である。
当時よく手伝いに来たのはメリヤスでは名古屋の鵜同商店洋?の上岡さん家田帽子店の成田さん等毎年顔なじみであった。
当時は赤線はなやかな頃で特に平の南町は特に有名であった。当時問屋での出張費で??線を三年無事に廻れば一人前であると云われたものだがこの手伝いの連中もこの方を楽しみにして来て居たらしいのである。
又四日位になると初荷と云って当時丸通の荷馬車が荷を満載にして各店に配達に行く途中たくさんの初荷と書いた紙ののぼりを立てミカンをまき乍ら町中を歩いたものだが仲々正月風景が出て居てよいものであった。
二丁目には大正十五年から昭和十年まで数十年間居たのであるがこの十年間と云ふのは商売の方は割合順調に行ったのであるが家庭的にはよくない事の連続であった。
平へ来る事を最も望み又今日のやまとの礎となる衣料店を造り上げた第一の功労者であった長男の政美がふとした事が病気の原因になり半年程の病床生活の末なくなった事である。平に来て毎日張り切って自転車で近在の小売店を廻って商売して居たのであるがある日一寸した不注意で今の内郷の堀坂でころんだのである。
当時大した事もなかったのであるが又本人も余り気にせずに居たのであるがダンダン仕事に出るのが大儀になって休む様になり床についてしまふと色々余病へい発と云ふ事でとうとう不?の客になった。
湯本から越して来て丸一年当時小生が平商業2年の時である。
そこからは又スイの活ヤクがはじまる。
当時衣料を主体として内郷湯本、?原、上遠野、泉小名浜、江名豊間から四倉久の浜等極近在に卸をして居たのであるが小生がまだ小さく商売は出来ないのでスイが変りに外交に歩きはじめたのである。
変りに売掛帳、仕入帳の記帳は小生の仕事になった。この状態が二三年続き小生が平商業を三年で卒業して家業を手伝へる様になる迄スイが出張して居たのである。
その后五六年たって三男太一が又ふとした事から関節炎になりこれが又又色々の医者に掛かったのであるがダンダン悪くなり最后は須賀川の公立病院に入院したのであるがとうとうここで死亡してしまったのである。
太一と云ふのは俗に?雄と云ひ兄弟の中では一番おとなしくすなほで常に余り目立たない存在であったが生きておれば今頃は湯本か小名浜に支店を出してやって居た事と思ふ。
悲しい事が続いたのであるが商売の方は順調でダンダン店もせまくなり何とか店を開げたいと考へ店を2階を上げる事にした。大家大一屋さんに話しを持って行ったのであるが筆者の店が大一屋の東側にある為大一屋の茶の間に日が当らぬ様になるとその理由で認めてもらえずそれならと云ふので移店を考へる様になった。当時は外に物価に比べても土地代と云ふのはそんなに高くはなく三丁目あたりで大体一坪一○○円が相場であった。
そして建物は勿論おまけである。
又売物も結構あり、三丁目にも三ヵ所位あった。当時農工銀行と云ふのが(今の勧業銀行の所)にありこれが不動産をタンポに金を貸して居てこの銀行に行くと三ツ四ツ手頃なのがあった訳である。
今の富士銀行の所(元の中洋呉服店のあと)と坂本商店の所(元の山本屋旅館のあと)とそのとなり(小生の所で買った所)当時としては中野呉服店の場所が最高であったが二八十坪あり大きすぎて買えないし山本屋旅館の跡は間口が3?とせまいので現在の所一〇五坪を一万円で買ったのである。
ここは平窪の松本酒店(辰の口)が商売用として造ったのを何かの都合で売りに出したもので建物も建てて三、四年位の新しいものであった。当時は平の中心は二丁目から四丁目に掛けての間で現在の三十米通りはなく銀座通りと中央通り丈で余りに真中すぎて場所がよすぎる位であった。
当時三丁目の三井呉服店二丁目の中の洋品店四丁目のツルヤ等商売の中心であった。
又白銀の川又、カジ町の𠮷田屋、新川町の諸橋、谷屋等は昔からののれんで皆客は遠くともそこ迄わざわざ足を運んで買物をしたもので当時の客はうちは親の台からかじ町の𠮷田屋できり買物はしないと云ふ様に固いお得意さんが多かったものである。三丁目の店を手に入れて店は当時はやりの格天井にし又天窓を大きく開けて採光をよくし裏に増築をして二丁目に比べれば正に月とスッポン位の違いの店になった。
とに角土地も家も自分のものでだれに何の気兼もなく今迄は棚一つ作るにも一一大家の了解を得てからであったのから比べると正に雲でいの違ひである。
但し土地代金と増築の為の資金?一萬二千円の出費は当時としてはギリギリの線で其の后は仕入資金も大部きゅうくつになった。
当時から手形は書かず現金述べ?であったが冬物の代金決済が正月頃迄掛かったのをおぼえて居る。
移転が旧のくれで2日の初売は両方でやり二丁目が千円三丁目が八〇〇円程の売上で大いに気をよくしたものである。
当時としては今と違ってそれ程遠くから来る客がある筈もなくもつぱら市内の客か精々湯本、小名浜、四倉、小川位の客で2丁目に居る時は主に才槌小路、紺屋町、長橋町のお得意が多かった。それが今迄より遠くなり途中の店も通り抜けて三丁目迄どの位来てくれるかと云ふのが心配であったがそれ程の事もなく新しく6丁目新川町方面の客が増えて来て店は2丁目時代より売上がふえて来た。
その后商売の方もまずまずで昭和十四年十二月十四日筆者はまさ子と結婚する。
物すごく寒い日だった。
翌年紘一生れる。丁度紀元二千六百年で当時入紘一?と云ふ言葉が云われて居る頃で紘一と名ずける。
翌々年二男恵二が生れる。
これより前昭和七年支那変がおこり段々と拡大して居たが遂に昭和十六年十二月八日日本は突然米英を相手にした大東亜戦争に突入し大変動期に入ると共に商人にとっても一大転期がおとずれる事になる。
十二月八日朝六時、ラジオは突如として軍艦マーチと共にりん時ニュースに依り日本は西南大平洋において米英と戦争を開始した事を知らされた。
我々国民は一しゅんぼう然としてきよ脱状態になった。それから一周間位は店は開店休業の状態で何も売れない日が続いたが別に店が売れなく共外の方のこう紛状態で店の方の事等は何とも思わなかった。
ところがそれから毎日少しづつ売上がふえ初めて方々で色々な商品の買占めが徐々にであるが初まった。と同時に物価も徐々に上り初めた。又初めて商品の統制が進み衣料品は綿物毛物が少なくなって来た。
?も衣料品はすべて輸入に頼って居り日本で出来るのは絹物丈であるのは現在でも全てである。現在の様にボンネル、カシミロン等の化学繊維がなかった時代である。
一年位たつうちに大部分の商品は統制になり物価はうなぎ上りに上って行った。
その頃からそろそろ転摩?の問題が出初めて又召集令もひんぱんに来る様になった。
又学徒動員も盛んで筆者の末弟唯雄も早稲田大学に在学中であったが十七年学生服のまま出征して行ったのである。
当時は石炭が重要産業の一つであった為に?下各地の商業者の中からえらばれた人達が勤労奉仕として磐城炭鉱(今の常磐炭鉱)に働きに来る様になった。
勿論これは賃金等は安く全くの勤労奉仕であり全くの素人がいきなり炭鉱の中に這入るので相当危険をともなったのである。
当時平にも商業報国隊と云ふのが出来て緑川佳一、中野勇雄?等はその指導者として働き自分達も又率先して働きに行ったものである。
筆者等もいずれは行かなくてはならないのであったが坑内の仕事丈はしたくないので色々と口実をつけては逃げ廻って居たものである。営業の方は益々統制がきびしくなり自由に仕入の出来るものは衣料品にはほとんどなくなって来た。純綿、純毛のものは勿論なくなり当時ステーブルファイバーと云ふ人造繊維が出来て来たが今の化学繊維とは全く違い少し着て居るとダラダラとのびてしまひ一度洗タクでもしようものならとけてしまふ様なものが多かった。これを綿又は毛の中へ混合したものが多くなってその混合率もだんだんと悪くなって来てやがてオールスフヤオール人絹のものが多くなって来た。
当時は純綿物や純毛物は全くの貴重品で物すごく高いやみ値で仕入るか商業協同組合を通じて配給になって来るのを待つかのどちらかであり配給になって来るのは極少数が来る丈で問題にならなかった。
当時小生の店では取引としては東京では東京の両国に店のある小林善次郎商店(小林善)とか八木勝文商店又墨田区の髙橋周平(墨田メリヤス)等製造元とも取引をして居たので多少ヤミ商品も取扱いお得意様方には喜ばれたものである。又その頃から商品に依って物品税がかかる様になり衣料品にも一部かかる様になり当時一枚十円以上のコットンシャツとか其の他値段に依り一割か二割以上に税金がかかりこれは小売の段階でかかるので小売店としては帳簿その他の事で大変面倒な事になった。
十円以上の物には?紙を貼りこれの張って居ないものは販売出来ないしくみになっており在庫、入庫等毎日一回づつ集計して?ける事になっておった。
然してこれは余りにわずらわしく又脱税も割合に容易に出来たので一、二年でこれは廃止になった様に思ふ。又重要産業のために商人も商業報国隊を作り方々へ勤労奉仕に行って居たがこんな事では全く間に合はず又売る商品もほとんどなくなって来て配給品も少なく今迄の店の数で分ける程品物もなく愈々轉廃業をしんけんに考へる様になって来た。
勿論主旨から行けば指導者達が率先して廃業しなければならないのであるがやはり人間の気持ちはいつも仝じであって自分の所丈は何としても残りたいと云ふ考へはだれも同じで又自分が廃業しない人にすすめる訳に行かず皆近いうちに何割かは止めて行かねばならないと云ふ事は分かって居るのであるが当たらずさわらずの態度で居たものである。
そのうちに売る商品がなくなり生活におわれてダンダン自分から止めて行く者や召に依り商売が出来なくなる店も出来て来たのである。又景気のよかった戦況も初めの頃丈でだんだん雲行きがあやしくなり国内においても防空演習が盛んになって来た。又防火水槽や火夕、手棒等が各家庭に強制的に用意させられる様になって来た。
小生も警防団に入団させられて演習のたび毎に引張り出される様になり、戦時色が強くなって行った。防空演習は毎夜の様にくり返され、その度に各家庭は一寸でも灯火が外にもれると早速お小言をくふと云ふ有様でこれで敵機の目がごまかされると小生等も思って居たのだから今から考へると誠におかしいが当時は皆真剣であった。
そのうちに小生もいよいよ勤労奉仕に行かねばならなくなり炭鉱は絶対にいやなので何か安全な所があればと思って居るうちに湯本の品川白煉瓦工場への勤労奉仕団の行く事がきまり小生はこれ幸いと應募する事になった。
ここならば少し位仕事はきつくても坑内に這入るよりは安全なのでまちがっても生命の危険はないので喜び勇んで出かける事になった。
一行は十二、三名でそのうち半分は床屋さんであった。隊長は横山懐男さんで仕事としては出来上がった白煉瓦を荷造りして南方に送り出す仕事で工場では女の人夫の仕事であった。
約一ヶ月位の期間楽しく仕事をしたのをおぼえて居る。
当時酒米等はすでに配給であったが勤労奉仕隊は特別で酒も米も特別配給があり又隊員が全部にぎやかな連中の事して毎ばん宴会みたいなもので勤労奉仕丈に月給をもらって家に持って帰ると云ふ訳ではないのでそれこそのんきなものであった。
勤労奉仕も無事に終り当分坑内に這入る心配もなくなりホッとしたのもつかの間六月十日遂に来るべきものが来た。

手記の表紙の裏に貼ってあった

召集令状である。当時よく軍隊は一銭五厘で兵隊はいくらでも集められると云って居たが本当である。この紙一枚が当時の日本人にとって地球よりも重くこの紙一枚で今迄の一切の幸福も財産も妻子も何もかも一切のものを打すてて指定の日迄に出頭しなければならないのである。もうどんなにジタバタしても駄目である。この日本に居る限り逃げられないのである。唯一の望みとしては身体に工合の悪い所があって即日帰郷になる事であったが当時はよほどの事がなければこれも望めなかったものである。
もうどんなにジタバタしても仕方がないのでつとめて明るくふるまふ事にした。日日は十八日我孫子の七七戦隊集合と云ふ事で日数は約一週間。それからが大変であった。
我商売の方は当時はもうほとんど自由品はなく配給品も大した事はなく、毎日が駄せいで店を開けて居る様な状態。(勿論店員等は一人も居ない)残して行く女子供でも何とかやれる状態で又いつかは轉廃業と云ふ事も考へて居たので店の事は心配をしなくともすんだ。
がよく考へて見れば政府の方針に従って廃業してみてもいつ戦争が終るかもわからず、したがって商売の再開の見込もなく又商売以外に収入がある訳でもなく、一、二年もたてばどうして生活して行けば判らなくなるのであるが当時はそんな事は全然心配しなかったのはやはり廻りのムードが戦争一色であった為だ。その頃はゾクゾク戦死公報が各地に発表されつつあった為であらうと思ふ。
と云ふ様な訳でアッと云ふ間に十八日の入菅日が来てしまった。
当日一所だったのは五丁目の馬目君と二人である。我孫子駅につき駅前の下宿屋みたいな所にとまる。其の夜宿の人の云ふのには二、三日前にも何千人か這入っておりこの人達はすぐにどこか外地に出て行ったらしいとの事で我々もすぐにどこか南方にでも出発するのではないだろうかと云ふ話である。
我々もこうして出て来てしまった以上満州でも南方へでもどこへでも行くかくごは出来て居るのであるが改めてここで云われると何となくイヤーな気分になるものである。
翌日は朝早く駅前に集合して四列縦隊になり東部七十七部隊に向けて出発した。
我孫子の駅前からふみ切を渡り今の日立精器の正面前を通って柏飛行場の方向に向かって約四十分位歩いて部隊に着いた。
七十七部隊と云ふのは高射砲部隊である。
生れて初めての軍隊の中なので見るもの聞くもの珍しい筈なのであるがそんな気分には全くならないのである。
ガランとした学校みたいな建物であった。
その内に庭に出て皆ならんで居る時に前に並んだ者の所に其の者の知合いらしい古い兵隊が来てお前達は東京防衛の部隊となる筈で召集になったので多分外地には行かない筈と教へてくれた。これを又聞きしてどこ迄信用出来るか判らない事だが一應助かったと思ってホッとした。
安心したのはよいがこんどは食事のまずいのには閉口した。大体小生はおかずは何でも好ききらいのない方だが昔から麦めし丈は絶対にいけないのだ。米の中に少しでも麦が這入って居てももうのどを通らないのにこれは又麦の中に米が少しはいって居ると云ふ程度なのだから全くお話にならない。
どうして麦が身体に合わないのか判らないが麦がワラジ虫に見えるのだ。
それが口の中でモサモサと感じのどを通る時に麦のまわりのヒダがのどにさわるともう駄目で胃の中のものが一所に持上げられてせっかくたべた物迄全部出してしまふ。
すきとかきらいの問題ではなく胃が全く受けつけないのである。
それで仕方がないので毎日オカズ丈喰べてる事にした。その内になれて来れば何とか胃の方で降参して来るだろうと思ったのである。
おかずもに豆や野菜のにたものや肉類の時はよいのであるが塩鮭等の時はこまってしまふそんな時は味噌汁丈である。
然し三日升りは毎日身体検査みたいなもの升りで余り身体を使ふ事はやらないので何とか??出来た。又よく教官に注意された事は生水をのむなと云ふ事である。
何でも千葉県と云ふ所は山がなくて畑升りで少し高い所があっても岡みたいな所でしたがって井戸を掘っても仲々水が出ない。
その上畑には充分肥料をやってあるので(当時は今の様に化学肥料ではない)それがしみ込んで出る水なのでアンモニヤ分が多くそのままのむと腹をこわす事が多いと云ふ事だ。
井戸は非常に深く上からのぞくと五〇〇米もある様に思へる程であった。
ここに三日升り居ると新しい軍服を着せられて愈々出発と云ふ事になりこんどは軍服姿で我孫子の駅に向った。
汽車で上野迄来て電車に乗換へ平井駅についた。駅前の小松川第七高等女学校の校程に制列させられ幾組にも分けられ小生は十五人位の少人数で一団となり一人の下士官につれられて愈々部隊に配属される事になった。
この時もまだ何がなんだかサッパリ判らず唯古い兵隊に云われる通りにして居る丈である。
この時小生達を引取りに来た下士官は後になって山田軍曹と判った。
夜の入時頃になって一行は小さいトラックに乗せられて出発した。
何でもかなり長い鉄橋を渡った。小松川橋であるが当時はこんな事は判らない。
あたりは真っくらで何も判らない。最も明るくてもこのあたりの地理はサッパリなのである。が仲にこの返から来て居る者が居てその者の話では車は行徳の方に向って走って居ると云ふ話だ。その内に行徳の町をすぎて浦安の方に向って居るとの事である。
道路の右側を平の新川位の細い川が流れており舟が何そうも休んで居て小生には珍しい風景であった。
2時間も走って車は小さいバラック造りの小屋の前についた。前が一寸した広場になって居る。そこには兵隊が十二三人居て我々を大変歓迎してくれた。中でもうれしかったのは食事が用意されておりこれが何と正真正銘の銀シヤリであった。
其の上オカズは野菜の天プラである。蓮の天プラも這入って居る。思ひ掛けない御馳走に目を白黒させ乍ら三日分を喰べた。
其の夜はすぐに休んであくる朝早く小便におきて初めて自分の居る所を委しくみる事が出来た。海岸でありすぐわきを幅六米位の川が海にそそいでおり川口はかなり大きな湖の様になっておってツリをする人も四、五人見えた。又その小川は朝モヤをついて小舟が何そうも静かに海に向って出掛けて行く所でありその舟がつぎからつぎと何そうも何そうも続いて出かけて行く所であった。
又その海の対岸にはかなり大きな町でありまだ明けきらぬ夜空に町の灯火が明滅しておりこれをじっと見て居ると何となしに目がしらがあつくなって来るのであった。
この灯火の見える所があとで船橋の町であり現在小生の立って居る所は浦安の町外れである事は後で判った。
浦安の軍隊生活は一口に云ってかなり快的な生活であった。最も軍隊の事で規律もきびしくとてもとても勤労奉仕とは雲泥の差であったが、この隊は下士官を長として兵隊十五、六名、仕事は照空隊である。
兵機としては照空灯が一つ(直径2米位の大きいやつである)?音機が一つ発電車が一台である。仕事の関係上昼間は余り演習をやらない。主に兵器の手入れや其の他の雑用でたまにはかり堀などもやりうなぎや雑魚を取って御かずにする。演習は夕方から初まる。
演習になって初めて判ったのであるが演習が初まると照空灯はここ丈ではなくこの近くに六ヶ所あり又遠くの方のも入れると何十本と光が一せいで出るのである。
これが一せいに光を出して号令一つで右に左に流れる様は誠に見事なものである。
然し我々の中隊の命令下にある照空灯は近くの六ケ所丈でこの六本はスピーカーで流れて来る命令に依り一せいに光を出したり消したり右に左にせん回したりして音こそ出さないが仲々壮観である。
然し光の出し方が一せいに?はないであとから一本丈出たりすると誠にむずかしいもので命令に依り一せいに光を動かす事は仲々むずかしい様であった。
さて小生達初年兵はその時はいつも見学なのであるが時あたかも初夏表に立って暗い夜空を見上乍ら夜風に当って居るのは仲々心地のよいものであるがここは土地の関係上ヤブ蚊の多いのには閉口した。
我々はとに角一時的な食客なので古い兵隊達も余りやかましい事も云わず又人数も我々を入れて三十人足らずの事とて余りうるさくなく割合に家庭的な所もあり余り話しにきいた軍隊の様な事はなかった。
約一ヶ月ここで食客生活の後愈々本格的な軍隊教育を受ける事になった。
この浦安分隊の中隊本部のある瑞の江においてである。ここに各分隊に分かれて食客をして居た兵隊が約二、三〇名升り集って来た。
その頃になってやつと判って来たのは我々は東京防衛の為に新しく東部一久〇一部隊の中に薬園台中隊と云ふのを作り七十七部隊に居た一部将校下士官に一部古い兵隊を中心にして我々初年兵がそれに加はり三ヶ月の教育を受けて一人前の兵隊になって薬園台に防空陣地を作って防?方面から這入って来る適機の防御に当るのが我々の任務であった。
それで取敢ず端の江中隊に食客をし乍ら教育を受ける訳である。
ここで各人の能力に依り何班に属するかの簡単な試験が行われた。
照空隊には通信班、計算班、其の他憶測、照射、目?車と分れており通信班は字の通り各分隊中隊間の通信連絡に当り計算班は適飛行気の高度、航速又その日の風向、温度其の他の計算に当り憶測は目標が目えない場合聴音機に依り目標の位置をはかり又計算班に流して高度、航速をはかり照射は文字通り目標を照射追ずいして高射砲の射車を助ける。又自動車は自働車の発電を利用して照射をするのが各々の仕事である。
小生は能力測定の結果計算班に編入された。この計算班と云ふのは目標が肉眼で見えない場合に余切線園と云ふものを使って目標の高度、航速現在位置を速やかに割出してこの位置から高射砲の玉の到着位置を割出してこれを砲隊に知らせ射?させる仕事である。
然し目標が肉眼で見える場合でも我々としては戦とうには参加するのである本来は夜間又は曇り空で目標が見えない場合が最もかつやくする時である。
目標の見える場合は高射砲部隊にある測高機で高度、航速をはかるのである。
この高度と航速をはかる方法は前にも述べた余切線園と鉛筆と定規(決?尺と云ふ)を使ふのである。
この余切線園と云ふのは方七〇種位のもので方向が北を〇として六四〇〇に分けて方向の線が引かれており高さは千五度から九十度迄線が引いてある。

余切線園の説明と思われる

目標があるとこのばく音を聴音機で追いこの聴音機にも方向高底が記入してあるのでこれを3移おきに電話で計算班に傳へて来る。この方向と高底の位置を千工?りして行くと目標の飛行方向飛行速度、高度が判るしくみである。
高度が分かれば三移おきの点の間かくに依り又航速も判るのである。これは三角の?用である。

同じく余白に書かれた図

演習と云へばレシーバーを付けて余切線園の前に立ち聴音機から来る積点(と云ふ)を確実に正しく余切線園に記入して行き適当な時期に班長よりの号令に依り直ちに高度、航速を測ってこれを報告する。これが直ちに砲隊に連絡されて射撃にうつる訳である。
こんな訳で演習と云っても鉄砲を持つ訳でなく大砲をうつ訳でもなく色々な兵隊があるものであると感心したものである。
この演習が約3ヶ月続いたあと一期検閲がありこれが終って初めて一人前の兵隊として通用する訳である。
無事検閲も終り愈々千葉県習志野市薬園台に陣地を講築する事になり我々の中隊も出発する事になる。ここは船橋の町外れにある二宮町薬園台にあり省線津田沼の駅を下りると成田街道を習志野に向って約三?程進み二宮町にて左におれて二宮神社の裏を通って約二〇〇米程行った畑の中にありまわりは西瓜と落花生の畑でここに新しいバラック建の兵舎が建って居た。ここに東部一九〇一部隊薬園台中隊(中隊長吉永中尉)として中隊員約一八〇名にて陣地を講築する事になる。
この内から六ケ分隊を分け一ケ分隊約十五名薬園台、津田沼、瀧、サギ沼、外2ヶ所に分れ各々小さい陣地を作って分駐し中隊は計算班、通信班、外に将校達にて布陣する訳だ。
移った当座はほとんど毎日が陣地造りである。毎日馴れないモッコをかついで壕をほった。通信所と計算所を壕の中に造るのである。
その真中に土をもり上げて高さ約六七米の高台を作り、ここが対空かん視所と戦とう中の中隊長位置になるのである。
折しも秋の雨期の事とて仲々仕事がはなどらず雨が降れば演習お天気ならば土方仕事の毎日が約三ヶ月も過つと大体陣地らしいものが出来落ちついて来た。軍隊時代の事は書いているときりがなく又やまとの歴史にも余り関係はないのであとは大体の所をかいつまんで説明する事にする。約一年間この薬園台に居た。その間色々の事があったがまずまず無事に上等兵にもなり其の間南方行きの編成も何度かあったがうまくその人選にももれて来たのである。又記し忘れたがまだ初年兵の端の江時代に二男恵二が元きりで死亡して居る。
この時はまだ一期検閲前で隊でも帰してもよいかどうか迷ったらしいのであるが市役所の公報であったので止むを得ず一泊で帰郷をゆるされた。帰っても一泊では何とも出来ず只恵二の死顔を見た丈で後の事は皆にまかせて翌日すぐに帰隊した。
十九年の秋新しい部隊を立川市周辺に配置する事になりその人選の中に這入ってしまった。
同じ計算班の志賀重一郎と二人である。
これは幸い外地行きでなく砂川地?に砲隊を新しく編成し布陣する事になったのである。
我々の新しい隊は立川の砲兵陣地に食客し乍ら又又新陣地を講築する事になる。
その頃になるとやうやく食料も充分でなくなり又日毎に寒さもきびしく、毎日をつらい思ひですごしたのをおぼえて居る。
その間約三ヶ月やうやく陣地も出来上り布陣した。頃はそろそろ適ボーイングの??がはげしくなって来たころである。立川に居る時は戦とうに這入れば自分達は食客の事とて全く高見の見物であったがこんどは自分達が戦わねばならぬ。
小生は砲隊に行ってもやはり計算班でこんどは主にその日の温度風速風向其の他の気しょう條件を気球隊から受け又だん薬庫の温度を三十分毎に計っておいて戦とうの場合のタマの信管を切る時間を測定し目標積点に依り目標をつかんで射?するのであるが当時そろそろ電波探知機が這入って来て居たので余り計算班の仕事は大部少くなって来て居た。
又よその隊から見た目標の現在位置を自分の隊から見た現在位置に修正をして射?をすると云ふ様な仕事もあった。
こう説明すると大変むずかしい仕事の様であるがなれてしまへば大した事がなく簡単に計算尺を造っておいてこれを当てればすぐに判る様になって居たり又早見表とか計算表を造っておいてそれに依って答を出したりしたものである。
砂川に行ってからは実戦も再々でボーイング艦裁機も毎日の様に来て居たので射?けん内に這入ればいつでも戦とうであった。
朝三時頃から初まり朝めしぬきで正午頃迄戦とうを続けた事も何度かあった。
然し敵の方は我々は問題でなく東京を爆撃するのが目的であったから我々の陣地にはあまりばく弾はおちなかったのでいつも一人相撲みたいな感じの戦とうであった。
然し何機かは撃ついしたし又傷つけたものであったがやはり艦裁機との戦とうは最も壮裂なものであった。
グラマンF4Fが五十米位の低空で約五十機位におそわれた時は生きた心地はしなかった。小生はそうなると仕事がないので唯壕の中に姿勢を低くして見物する升りであったが遂に我々の隊にも戦死一、負傷一を出してしまった。戦死は山形出身の初年兵だったと思ふ。
ここで終戦をむかへる事になる。
それは昭和二十年八月十五日の朝から太陽がギラギラと照りつける暑い日であった。
正午広場に並んでラジオを聞いたのであるが雑音が多くてハッキリとはきき取れなかったのであるが何となく戦争が終ったと云ふ事が判った。一しゅんぼう然としてしまってまるで気がぬけたみたいであった。
がとに角これで家に帰れると云ふ気持でホットした思ひが一番先に頭に来たのも事実である。実はこの二、三日前から隊内には戦争が終るらしいと云ふ事が云われて居た。
何でも公用で東京へ出た兵隊が新聞記者の友人からきいて来たと云ふ話しであった。
元々軍隊と云ふ所は外部と完全に切り離されて居る為にウワサが直ぐに拡がってしまふのであるが大体がデマが多いのである。
がこれをきいてヤッパリと思ったものである。将校達も勿論口とはウラ腹に腹の中ではホットした事だったと思ふ。早速通信機材其の他の破かい工作が初まって夕方には大部こわされてしまった。
勿論大砲其の他の大きいものはこわす訳には行かない。
それから毎日たいくつな日が続いた。何もする事がない。相撲をとったり呉や将ギをやったり洗タクをしたり身辺の整理をしたり又家に帰るので配給のお土産を作ったりの毎日である。お土産とは大体木堀りの飛行機である。
その生活約二ヶ月愈々一部の兵隊を残して帰郷と云ふ事になった。話しではもう立川には米軍が来て居ると云ふ。その中を軍服で帰るのは何となくイヤな気分であったが上野駅迄は団体で行くので一應引率者もある事で一安心した。各自毛布軍靴軍服等新しいものを一通り支給されて自分達の長い軍隊生活の記念となる私物と共に荷物をまとめて上野駅に向った。
途中何事もなく上野駅につき東北線廻り青森行の列車にのりこんだ。
当時家は白河にそ開して居た。
夜中の十二時頃白河につき長い間生活を共にした戦友達と分れて二年半ぶりになつかしの我が家にもどった。我家と云ってもそ開先の事であり六畳一間に両親と妹、親子三人の六人ぐらしでありついた翌日から食物の心配をせねばならなかった。
当時は家に帰ったらしばらくはツリでもして気持の整理をしてからゆっくり商売の事を考へたいと思って居たのであるが帰って見ると意外にきびしい食料事情にぶつかって直ちに食糧集めにとりくむ事になり毎日荷車を借りてはとうもろこしやさつまいもを集める事になった。
当時店の商売の方は十八年六月小生出征后間もなく廃業し商売を止め全く売喰ひの状態であったが初めの頃は綿物や毛物を持って居たので物々交換には事かかなかったがその内に平も空襲をうける様になり其の第一回が二十年の三月二十九日の空襲で紺屋町一帯が焼土と化しそ開するものが目立ち小生の家も平の近くへそ開すればよいものを、白河の向寺にそ開する事になり三丁目の店は斎?洋服店に貸して白河に来て居たのである。
その后七月二十八日の空襲に依り三丁目の店は一應にして灰じんに帰して居た。
当時小生は砂川でこの知らせを受けたのであるが当時としてはいづれおそかれ早かれ焼けるものと思って居たのでそんなん打撃は受けなかった。
むしろとうとう俺の所も空襲に会ったかと云ふ変にサッパリした気分がしたものだ。
これは我々同年兵の家も大部やられて東京地方の家はほとんどやられて居たのである。
そのうちに出征者ボツボツ帰って来る様になり町のヤミヤには今迄なかった筈の物資が勿ち現れる様になり町の中もボツボツ活気が出初めて来ては白河に居ては何も出来ず又新聞その他にて東京のヤミ市場の繁昌ぶり等が報道されるに及んで早く平に帰って店を建築せねばと思ふ様になった。
然し三丁目の店は焼けて居るので帰る所もないので当時エビスヤが好間の川中子にそ開して居たので取敢ず小生一人丈でもそこに食客する事にして平に帰って来た。
そして川中子から通勤でヤケ跡の整理に着手した。スコップを一丁かついで現場に通いヤケ跡の整理に汗を流しそのあとに野菜の種をまいた。ヤケ跡からは地中に埋めておいたせと所丈無事に出て来た。
野菜作りをして居る秋の一日戦友の木田武君が尋ねて来た。
薬園台で別れて以来吉永隊は方々を廻り終戦の時は??だったと云ふ。
残務製理の方に残ったので帰郷がおくれたのだ相だ。一年半ぶりの再会に焼け跡でこわれた水道から出て居る水道の水をのみ乍らしばらく話し会ううちに当時の薬園台の皆の消息をきいた。その話の中で木田君の家の柳生の方では干柿づくりが盛んで今大変忙しいと云ふ話をきいた。
干柿は統制には何の関係もなく当時甘い物のない時丈にこれを東京へ持って行けば貴重品である事を思いつく。
早速出来たら全部廻してくれる様に頼んだ。これは十一月頃になれば出来ると云ふ。
まだ少し日々がある。焼跡の整理も出来上ってしまふとあとは全く仕事がない食客をして毎日遊んで居る訳にも行かず仕事をさがす事になったが元々商売以外した事がなく又人に使はれた事もないのでこうゆう時には全く困る。丁度エビスヤの熊田君がこれも廃業して石炭統制会と云ふ国営会社に勤めて居たのでこの方へ頼んで仕事をさがしてもらう事にする。当時統制会は今の三井呉服店の所にあった。幸い統制会で一人あってもよいと云ふのでここに這入る事になる。
用品課と云ふ所で色々と炭鉱への??物資を扱ふ課で長は今のダイヤ商会社長の橋本保さんである。初任給は二○○円位だったと思ふ。
とに角勤める事になり川中子から通ひ初めた。当時川中子に居たがここは好間村になって居た。平に帰っておかないと帰れなくなると云ふ話が云われて居たので取敢ず居る場所は杉の沢の牧野宅と云ふ事にしておいた。
それで米、いも等の配給は杉の沢へ取りに行きこれを持って川中子へ帰ったものだが、焼跡の整理を終り夕方スコップを持って杉の沢迄行きジャガイモの小さいのを分けてもらって暗くなった頃一人川中子迄つかれに足を引づつてトボトボ帰る時は腹はへって居るし我乍ら情ない様なウラ悲しい何ともやり切れない思ひがしたものだ。
がとに角サラリーマンとして統制会に通う様になり平凡なおちついた日がしばらくは続いた。この頃新橋出身の桑原中尉と云ふ人が尋ねて来た。当時弟の唯雄と一所にヒリッピンに居て戦闘に従事して居たのであるが戦況が?といけなくなり六月二十日頃部隊を集結して南下中最后尾にいたのであるが行方不明になってしまった。と云ふ話しをしてくれた。
唯雄はそれ迄ヒリッピンで飛行場構築の仕事をして居たが米軍が上陸してからは山中に逃げて主に食糧集めの方をやって居たのであるがこの仕事も適地の中の事で仲々大変だったらしい。いずれ帰って来ると思って居たのであるが全くガッカリしてしまった。
然し母スイがまだ白河に居る時でこれに何と云って話そうかと頭をいためたものだ。
当時は統制会の方も仕事をするよりも食物を集める方が大切なので一週間のうち日曜の外にもう一日食糧買出し休暇と云ふのがあった。小生は食客の身で又エビスヤは相当に物を持って居てそれ程食糧問題では困って居なかったのでこの休を利用して柳生の干柿を商売する事にした。
リュックに約二○○ケ位入れて東京へ持って行き上野に薬園台時代に一所に居た○○軍曹と云ふのがヤミ屋を専門にやって居た。
ここへ持って行けば何でも全部買取ってくれるので一ヶ月に六、七回通った。
元価は一ケ五円位で東京で十円位一回で約一〇〇〇円のもうけである。
当時の月給二○○円に比べればいかに面白い商売であるか判ろうと思ふ。
だが面倒なのは切符を買ふ事である。
初めのうちは復員撥明書を持って軍隊に用事が残って居ると云ふ事で切符を買って居たがそれも度重なれば続かなくなり行列をして買ふ様になる。夕方駅に行き順番をとっておいて又よく朝早く行き並んで約三時間位でやっと切符が手に這入るのである。
それを統制会に勤め乍らやるのだから大変で月に五、六回東京へ行くのは大変な仕事であった。これも軍隊時代の生活のおかげでこの重労働にたへられたものと思ふ。しばらくはこのヤミ屋商売が続き或る程度金も出来た頃干柿もなくなって来た。
当時南町に阿部と云ふ草りヤがありここで?裏のゾウリを作って居た。これも東京に持って行けば結構もうかったのだがこれは干柿と違って相当カサバル上に重いので数が持てず永くは続かなかった。
柳生の木田の所でタバコの葉があると云ふのでこれも東京へはこんだがこれも結構いける仕事であったが但し自分もこの葉をすったのでスッカリ胃をやられてしまった。
今だに胃が悪いのもこの時の葉が原因だと思ふ。とに角こうして色々な事を勤めのかたわらやって居たが平へ早く家族全員が帰って来なければ何かと不自由なので方々貸家を探してあるいたがあり相で仲々ないのであった。
当時本町通りには結構空店もあり現在二丁目の元居た店等もあいて居たのであるがどうせ腰掛と云ふ事で仲々貸してくれず本当に情ない思ひをしたものだ。
まず家を建てなければならない。先に記した様に三丁目の店は斎?洋品店に貸して居たのであるが幸い戦災に合った時に斎?洋品店も外に家をみつけて越してしまったので焼け跡は何の支障もなく家を建てればよいのである。それにしてもまず家を見つけて家族を平へ寄びよせる事である。
さがして居るうちに才槌小路の大河内医院の2階を先生が出征中なので貸してくれると云ふので取敢ずここに越す事にした。そこへ白河から辰蔵が来て二人で自すい生活を始めた。約一ヶ月ここに居る内に大河内さんの持ち家の一軒が空いたので其所にこす事にした。
やっと白河からトラック一台を借りて荷物を運んで来た。このトラックに白河の進一兄が乗って来た様に思ふ。これでやっと一家揃って生活出来る様になった。
多分二十一年の三月頃だったと思ふ。
土橋通りの大野自転車店の奥、横山?男さんの所の又貸である。
愈々焼け跡に家を建てる事になった。
当時二十一年の三月頃新円切替へと云ふのがあり今迄の紙幣其の他は二万円を残して一切封される事になった。
当時筆者の家は長い間売り喰ひ生活で貯金もほとんどなくなりやけた時の火災保険も戦災と云ふ事でいくらももらへず予金の残は二万円位だったと思ふ。
この二万円と云ふのは廃業時に処分した商品の代金であるが廃業当時の物価と現在の物価にはかなり開きがあったのである。
多少残しておいた商品もほとんど食物に変って皆の胃袋に這入ってしまって居た。
其の他小生がヤミの商売をしていくらかもうけて居た金が五〇〇〇〇円位あったと思ふ。がこれも封?になっては困るので全部例の板裏ザウリにしておいたのを大黒屋の精ちゃん(現在の橘社長)に頼んで買ってもらっておいて代金は新円でもらう事にしておいた。
さて愈々家を建てる事になり当時家の出入大工は新川町の三森大工に居た次郎さんであった。これを尋ねると中通りの鏡石に仕事に行って居ると云ふ事で次郎さんを尋ねて鏡石に行った。鏡石に行って次郎さんに会ふと大きい農家で働いておりここでは賃金の代りに米ももらへる約束になって居たのである。
これを無理に頼んで平へ来てもらう事にする。やがて四月頃鏡石の仕事の一段落した所で平に帰ってもらい建築に取かかる事にする。
間口3K奥行八K二十四坪の平屋造りである。その内店は奥行3K位9坪位座敷は八畳に六畳の二間に台所其の他である。
この時は白河で集めたとうもろこしが大いに役立った。又材木運びや瓦運びは一家総出で手傳い小さい家で特に面倒な建築ではないので約二ヶ月位で出来上ったと思ふ。
これで取敢ず店は出来上った。戦時中にケースを二女小川在の鶴岡と云ふ所にソ開してあると云ふのでこれをまさ子と二人で取りに行く。勿論自働車はないのでリヤカーを借りて来てこれを引いて行く。多分片道十五?位ある所であったと思ふ。朝早く出発して昼頃この農家に着いた。ケースは2本尺三寸×四尺尺2寸×三尺のが一本づつである。
がどちらもガラスはメチャメチャである。
然しないよりはましなので修理する事にして取敢ずこれを持って帰る事にする。
リヤカーにこれをつんで引出す頃雨がポツポツ降って来たがこんな事は軍隊時代になれて居るので何でもない事で又雨も大した事もなく夕方平に着く。
こわれた所は丁寧にガラスを合せて紙で張って何とかケースらしくして店にカギ形に入れる両ワキに棚を作ると店が一パイになり出来上りである。勿論レジスターなんて云ふ物はないので空箱がレジのかわりである。
これでやっと店のカッコウ丈はついた。愈々仕入であるその頃湯本の丸丹の繁ちゃん(小学校の同級生)が湯本で洋品店をやって居た)が尋ねて来た。軍隊には行かなかったらしい。繫ちゃんの話しでは横山町がポツポツ復活し初めて居ると云ふのだ。
早速ヤミ商売でモウけた資本金三万円位を持って東京に行く(尚建築費は二万円位だったと思ふ)さて横山町に行って見ると一面の焼ケ野原でそのガラクタの山の中にバラックを建てて問屋らしいのが五六軒ある。
今の馬喰町の宮崎紙物、これは現在の店の裏側にあった。川合沓下、双田丸カバン、又赤司の所に小さいボール箱にきれいな紙をはったのを売る店がある。其の外角の風呂敷や又青木帽子店等である。勿論今の様な店ではなく統制ト関系のないもの升りである。
フロ敷、紐類、半衿、袋物、リュックサック、ボストンバック、バンド、オモチャ類である。
物価は今と違って安いと云っても全部で三万円では幾らも仕入が出来ない。
それでなるべくガサ張るものも仕入る事にする。セルロイドのオモチャを重点にする。
ボール箱で作った小さい箱、クシ、紐類帯揚等の外リュック等は一つか二つ外にトランク等を仕入て商品はトランクに入れてリュックに入れて背広?又両手に掲げるとこれで全部である。仕入が終るとその辺のコワレタ水道から流れて居る水をのんで持って行った握りめしを喰べる。それが何とも天下の美味であった。
上野駅から帰りの乗車が大変である。切符は往復買ってあり行きは夜中の〇時頃の汽車で行くのであるが帰りは大変だ。
物すごいこん雑ぶりで発車二時間位前には駅へ行って並ぶ。勿論腰を掛ける等と云ふ事は夢にも考へられない。唯乗れればよいのである。
まごまごすると乗り残される事になる。
上野駅の西郷さんの銅像の下の坂に二列に並ぶ。列が動き出して仲々進まないと気がもめる事一通りではない。折から初夏の頃で涼しくてよいのだが荷物をもって居るのでウッカリ小便にも行けない。うっかりして居ると自分の席どころか荷物迄なくなってしまふ。
この時一所に並んだ仲間に大町の伊藤菓子屋さんがある。
彼もよく菓子の?入った石油かんを五つ位持って一所にならんだものである。
こうして苦労して商品を持ち帰るのであるが持って帰って店に並べれば品物は羽がはえてとぶ様に売れたものである。
三万円仕入て来た品物は売切れるのに五、六日も掛からない。
当時は仕入をした商品は全部持帰ったのであるがこの習慣はしばらく長い間続いたものである。初めは仕入資金が足りなくて仕入た商品は持ち帰れたのであるがその后何年かたって資金が豊かになってからも早く商品を店に並べたい事ともう一つは運賃を倹約するためであった。問屋で仕入をした商品を二三軒の問屋にまとめて預けこれを夕方の汽車の時間に駅迄問屋の小僧さんにもって来てもらふのである。そして大きさ約六十?角位の荷物を十二、三ケ汽車のあみ棚に上げて持帰り又平駅では駅の中迄店員五六人に出てもらい二、三ケづつ持って帰るのであるが当時は店員が全部住込でいたのでこうゆう事が出来たのである。
今考へて見ると一番最高の時で十五ケ位持ったのが最高だった様に思ふ。その后駅でも評判になったと見えてある時荷物の運賃を取られてしまった事があるのでその后自しゅくした。当時義雄のつとめて居た森島工場が土浦にあり当時の軍需工場がそうであった様に森島工場も手持のアルミを使って鍋、釜、鉄ビンを作って居た。
それが開店の時には鉄ビン(尤も材料はアルミ)を一○○升り送ってもらって店に並べた。

開店最初の売上は今と違って宣伝も何もせずに店を開いた丈だが二千円位だったと思ふ。その翌日が三千円。又次の日が五千円と云ふ様にうなぎ昇りに売上はふえて行ったので三、四日もたつと又その金を持って仕入に行くと云ふ事になり勤めを仕乍らの商売はダンダンむづかしくなって来た。
仕入は例の食糧買出し休暇を利用し又日曜を利用して居たが意外に売行きがよく少し升りの月給(当時五百円)では馬鹿らしくなってくる。それで約9ヶ月つとめた統制会を止める事にした。
売上が順調に行って何回目かの仕入の時に母スイが金を出してくれた。二万円位だったと思ふ。結局五万円位の元手を約一ヶ月運転して居ると十万円位になった。勿論生活費を差引いての話しである。
当時いかに品物さへあれば売れたかと云う事を知るのに面白い話しがある。
紐で出来た婦人の時計のバンドであった。これを一打仕入て来たのであるがこれを一打の値段を一つの値段と間違へて売値をつけて売ってしまった。売行きがよいので次回又仕入をして初めて値段を間違へて売ってしまった事が分かった訳である。つまり売るべき値段の十二倍の値段をつけてそれでも売れてしまったのである。全く売った方も買った方も極自然にすんでしまったのである。
今なら大変な事になるし又客が買って行く筈がないが当時はそんな話も不思議ではなかったのである。
と云ふ様な訳で五月に開業してから九月頃迄に三十万位の金が出来て居た。
売上が上々なので何も云ふ事はないのだがそれにしても元々が衣料品を扱って居たので何とかして衣料品を売りたくて仕方がない。
当時廃業しないで残って居た店は一丁目で仙台屋、二丁目山家、中の、かみや、三丁目大黒屋なかや、三井、四丁目ツルヤ、小野栄等には少量はであっても綿布その他の配給がありお客にも喜ばれて居た。何とかして衣料品を扱ひたいと思っても廃業して居るのでヤミ商品以外はない。
当時統制品でないと云われたものの中に真綿製品があった。真綿を細くの
ばしてこれを立横に組み合せて造ったもので大人の羽織下、チャンチャンコ等が出来て居た。
これも警察でもはっきり衣料品であると云ふ見解がとれず統制品であるかどうかはっきりと判らないで居た。
これならば何とかなるし又警察に云われても言い訳は立つかも知れないと云ふ事になった。産地は多分長野県か新潟県らしいと思ったがさて長野のどこへ行けばよいか判らない。
今と違って汽車も旅館もはっきりしないので何となく出掛ける訳には行かない。
九月初めのまだ暑いうちだったと思ふ。
名古屋へ行って見る事にした。オニギリを十食分位持って出掛けた。カタログが来て居て春日井と云ふ店をあてにしたのである。
夜行で東京を立ち翌朝名古屋駅についた。春日井を尋ねると現物はいくらもなくて真綿製品も五、六枚位きりなく近いうちに長野の方から仕入ると云ふがいつ這入るかははっきりせずとっておいて呉れる事も出来ないと云ふ。
仕方がなく其の他瀧兵等も歩いて見たがここも一面の焼け跡で一二軒バラックで商売して居たが何も目星しい物はない。
止むを得ず直ちに夜行で帰る事にする。汽車の混雑は相変わらずで汽車の中は通路一パイに人で足のフミ場もなくおまけに電気もうす暗いのが一つ位ボンヤリと付いて居る丈である。
通路に腰を下して持って居たニギリ飯をたべたがなんだかぬるぬるする様な味である。
鼻が悪いので小生は小さい頃から臭気は感じないのでそのまま腹がへって居るので一つ喰べる。翌朝又明るい所で喰べ様として二つに割ると糸を引いて居る。
がそれでもすてる訳にはいかない。糸の引くおにぎりをたべ乍ら帰って来たおぼえがある。何ともなかった。
(このおにぎりはエビスヤで川中子に居る時に造ってもらって持って記憶もあるのであるがそうすると名古屋行はもつと早く営業を始めないうちに行った事になる筈なのだがそこが今考へるとはっきりしないのである)
東京では当時オニギリは一ケ十円位で売って居たが当時としては十円は大金でそうそう喰べ切れなかったものである。
十月頃になったある日真綿(ラップ)製品を風呂敷に一パイ包んで現物をかついだ問屋の出張員が新潟から来た。渡りに舟とこれを持って居る丈全部買いとり住所をきくと新潟県の五泉だと云ふ。今迄きいた事もない地名である。
早速出かける事にした。(この出張先は五泉市東御屋川吉井商店だと云ふ。
翌日早速有金を全部持って出掛けた。当時は東京に出掛けるにも有金全部であった。
勿論銀行に預ける等と云ふ余裕はない。
四、五日売ると七、八万になる。これを全部持って行くのであるでるからスリにでも会へばパーである。当時は一万円札は勿論一○○○円札もない百円札丈だったので十万も持つとかなりの量になる。
腹巻を縦に縫目をつけて一万円づつ之をたてに入れる。これを腹にまくと丁度弾帯みたいになる。それでは腹が一廻りおおきくなってしまふ。集団スリにでも会へば強引にとられてしまふし又当時は汽車の中等は警察の目も届かないので非常に危険であった。
いつもポケットにジャックナイフを持って居たが別にこれを振廻すつもりはなく只持って居れば何となく心強かったのである。
服装は勿論復員姿であった。
当時よく五泉で一所になった青森県五所河原市の成田さんはワザときたない服装をして魚を入れるビクに新聞につつんだ百円札を入れて持って来て居た。
勿論当時はほとんどの人が軍服で一見ヤミヤかかつぎ屋と云ふのが一般的な服装であった。とに角こうして五泉に行き取敢ず本町通りにある材木屋旅館と云ふのに宿をとった。夕飯がすんでから旅館のおぢいさんにラップ製品の問屋をきいて五六軒おしへてもらったがおどろいた事に五泉と云ふのはほとんどの町の人がラップ製品に関系があって現にこの旅館の嫁さんも内職にラップ製品を作っておりほとんどの家庭で内職をして居るのである。この町は元々が絹織物の町で五泉平と云ふはかま地では日本でも有数の織物の町であった。その外夏の?とか羽織物の材料にする織物等の盛んな土地であった。元々雪国で十一月から三月迄は雪にとじ込められるので外の仕事が出来ず内職がさかんで又シッ気が多いので絹織物には向いて居た土地であった。
軍隊からラッカ傘其の他の委託加工を引受けており大きな機?は終戦時にかなり大量の絹物の材料の手持があったのである。
これが終戦で軍が解体されてその材料はそのままだれもとりに来ないままに目然と機?のものになってしまった。
それを色々に加工して居たのであるがその加工は町の人達に下ウケに出して居たのである。当時落下傘の布地で作った猿又(今のパンツ)を大量に仕入て来て売った覚えがある。
八百屋、魚屋、時計屋の旦那が本業をやりその奥さん連中が内職にラップを作って居た。
材木屋のおぢいさんに教はった〇金浅野商店、南沢、林商店、上村等であったが其の他にも家の軒先に染色してほしてあるラップか又は車を廻してラップを紡いで居る音を便りに尋ねて本間、高野、目黒、稲葉等々を尋ねたのである。
皆少しづつ出来ておりこれらの製品を持って居った有金をはたいて仕入をする。
子供のチャンチャンコで四十五円位、大人の羽織下で五十二円位の値段であった。
尤も目方に依って多少値段は違ふ。
?ッキを一ケ造りあとは手荷物にして持てる丈持つ。これが非常に評判がよく持って来たものは、二、三日も掛ると大半が売れてしまふと云う有様。これはと云ふので又すぐにとんで行くが五泉丈は日帰りと云ふ訳に行かず大ていは一泊か又商品が集まらなければ二泊と云ふ訳で行って来るのが大変であった。
又?ッキも仲々むずかしくて郵便小包にするのであるがこれが又仲々局の方で引受けてくれず荷物を発送するのに苦労したものだ。
そのうちにラップを細く紡いでこの毛を使って手編にしたセーターの様なものが出来る様になりこれは手編の事とて一軒の家で七、八枚集めるのが精一パイで一回の仕入がで二十枚も集めれば上等であった。
がこれは全くよく売れた。
又ラップを細く紡いでこれをよったものをラップ毛糸として売出するこれ又面白い様によく売れた。
そのうちに段々と資本も増えて来て一回の仕入に三十万円位持って行ける様になり持って帰る事は出来なくなって来る。
ストックを或る程度持つ様になって来るとこれがまだ統制外の品であるか統制品であるかはっきりしないのであるが警察に聞けば統制品であると云ふにきまって居るのでストックをしまっておくのに苦労した。(五泉の警察は大目に見て居た)
タタミを上げて播の下に板を敷いて其の上に紙に包んだこれらのラップ製品を入れておいたものである。
又その間には東京へ行かねばならず全く忙しい日が続いた。
当時のラップ製品は専業にして居るのは問屋丈で製造の方は各家庭の奥さん連中の内職である真綿を買って来て自分で染めこれを木型を使ってチャンチャンコ等を作って居た。チョッと気のきいた奥さんは自分の部屋を改造して二、三人の女の子を入れて依る様になったが何れにしても手工業の事で出来る数は知れて居るのである。これが引張りだこで出来るハシから問屋が来て皆持って行くので仲々品物を集まるのが大変であった。
それで現金で問屋より多少高めに買ふ事で品物を集めたものである。本間、南沢、稲葉、松井、高の、等々はよく品物を?てくれた。又手編製品は皆出来が不揃で一枚いくらと云ふ訳に行かず一貫勿幾らで取引をした。その内に見附、?尾、又五泉のとなりの村松にも製品があると云ふのでそちらへも行く様になり見附の丸金、島田俊三ジブヤ等が取引相手である。
この中の丸金と云ふのは五泉の丸金の本店で仲々大きい仲買商で京都、大阪、北海道にも名の通って居る店である。
梶尾は見附から又汽車で一時間半程かかる山の中で昔上杉謙信が幼年時代住んで居た所で全く山の中である。冬雲が降り初めると二三米はつもる所で道路にトンネルを作って向いの家に行くと云ふのは話しには聞いて居たが実際に見たのは初めてである。
ここも紺亀とか山崎と云ふ機屋を尋ねて取引をしたがここは余り遠いので一年位で行くのは止めた。それに梶尾は機屋が多く布地類は手に這入るがラップ製品は余りやって居なかった精もある。
全くこの頃は小生も誠に働いたもので今考へてもよく働いたものと思ふ。一年もたつと少しは資本もまとまり店も手ぜまになったので、この際思ひ切って建て直す事にした。
丁度その頃平では戦災にやられた所を利用して駅前から真すぐに道路をつくる計画がありこの道路が出来ると家の所も少し掛かる様になり(小生の家が二米位掛りとなりの信栄堂、大谷時計七十七銀行がもろになくなって幅四十米の道路が出来る計画である。
地下三丁目としては大谷武雄氏が中心になりこの道路の反対運動をする事になった。
小生の家はほんの少しきり掛からないので現在地のままと思って居たのであるが当時大谷氏は市会議員であり特に土木委員をして居たので都市計画としては三十米道路の角地に大谷氏を持って来て小生の家はその南どなりと云ふ予定であったらしい。この計画は我々は知らなかったのであるがこれを教へてくれたのが材木町の石山一治氏である。これは大変な事になったと早速復興事ム所へ行って見ると正にその通りだと云ふ。最近こそ各地にバイパスとか何とか道路計画が多く問題になって居るが当時はそんな話は全くね耳に水であった。
これは一番うるさい人に角地をやれば外は簡単にきまると考へたらしい。
それから猛運働を開始した。
運働と云っても外のよい場所をと云ふのではなくとに角せまくなっても現在の所は離れたくないと云ふ事で運働した。
これは無理な話しではないので復興事ム所(所長山口氏)でも再考を約束してくれた。
当時市長であった鈴木辰三郎氏や又きいたかどうかは知らないが一丁目の鯨岡多久氏等も運働の対像にした。
仲には少しでもへる事を防ぎたいとか又是非是非角地と云ふ様な虫のよい注文もあって仲々大変であった。又補償金を少しでも多くと云ふ者もあるのである。
その中で大谷氏はとに角なんでも道路を作る事に反対であると云ふ立場をとって居た。
これは角地をネラッテ外され相なので方針を変へたのだと思ふ。
とに角大谷氏坂本直吉氏鈴木氏(大勝園)を中心として道路反対の運働が大体の皆の考へ方として賛成されて居た。
然しその外の者の腹の中は道路反対は絶対に通らないのは目に見えて居るのでそれよりは道路をせまくする運働の方がよいと云ふ考へ方が占めて来た。
小生の所も一應大谷氏とは歩調を合せ乍ら萬一の場合は出来る丈せまく又そして現在位置は動かないと云ふ考へ方で運働を続ける事にした。
それが大谷氏とは別に馬目勝次氏、佐々木氏等と共に復興事ム所を初め復興委員の所を尋ねてどうしても道路が出来るならば現在角地に尤も多く様にして居る小生の家は外へは絶対にやらないでもらいたい事その為には多少減る率が外の人よりも多少多くなってもよいと云ふ運働をした。
復興事ム所も又各委員も小生の考へ方には皆賛成してくれて居た。
そうなって来れば大谷氏としてもあく迄角地をねらう訳にも行かなくなり愈々道路全面反対を通す以外なくなり土地の割り振り等は云って居られない訳で大谷氏の反対運働は益々エスカレートして行ったのである。
とうとう裁判と云ふ事になりこの頃から皆離れ出して小生等もこの運働から手を引いた訳である。然しこの反対運働も可成巧を秦して四十米の道路がこの頃には三十米に計画が変わって居た。
然し復興事ム所は三十米幅にして着々と計画を進めており角地は小生の場所と確定し大谷氏はその南側ときまって居た。
然し一應きまったものの当時大谷氏は先にも述べた様に市会議員でありしかも土木委員をしており都市計画委員にも知己が多くいつひっくり返されるかも判らない状態であったので決った線で家をたててしまへば問題もなくなるのでそう意味もふくめて建築をやる事になった。丁度二十一年に作ったバラックはせまくなり商売も思ふ様に出来ないので思ひ切って家を建て直す事にした。
そうゆう理由もあって又建築に際し大谷氏等から文句が這入っても困るので建築請負は石山一治氏にまかせる事にした。
又建築許可の方は復興事ム所の新しい計画に副って新しい計画の地割通りに立てる事にしたので早速許可は下りた。むしろ建築する事を復興事ム所の方ではまって居た訳である。
ここで当時の三丁目附近の状況を少し書いておく事にする。当時現在の三十米道路は戦災にあったままで大体道路が出来る予定にはなって居たがまだ敷地に着手した訳ではなく戦災にあった当時のままガレキの山で所々のこわれた水道から水がチョロチョロ出ていると云ふ様な訳で建物としては土蔵造りの建物が少し残って居た位で(現在の横山商店)又大谷武男氏の家は石造りであったので真中に一軒ポツンと残って居た。其の外は現在の勧銀の建物ぐらいであった。
その外の空地には時々ストリップ等が掛る程度で普段は大道香見師の働き場所であった。
またその客をネラッて町のチンピラスリが集団で働きに来て居た。このスリ共はなかば素人の事で余り上手でない為になかば暴力的なものであった。店に来る客にまでついて来て客に注意でも仕様ものならこっちまでおどして来ると云ふ訳で見て見ぬふりをして居る外はなかったのである。
全く無警察の状態であった。
スリは現行犯と云ふ事で顔はよく知って居ても何とも致しかたなく又スリの方は警官が来ればサッと逃げ出してしまふと云ふ訳であった。連中の根城は内郷、湯本、勿来方面から遠征して来て居た。毎日汽車で通勤して来るのである。当時店のとなりに一坪位の屋台店を出して古着類を売って居た人が居たがこれが仲々繁昌して居た。これが今の三徳ホテルの社長山本トクさんである。又ストリップ等は夫婦二人の巡業で旦那がよび込みをやり客が十人位這入ると裏に廻ってレコードを掛けて音楽をやり細君が出て来ておかしげなおどりをやると云ふ夫婦丸もうけの商売で結構繁昌したものである。
又町々の角地又は空地には白衣の軍人が松葉づえをついたり又義手をつけたりして二、三人位組んでアコーデオンをならし乍ら通行人に投銭をこうて居た。
これは汽車にのって居ても汽車の中等で大っぴらに客から?金をこうて居た。
以上の様な訳であったが愈々店を新築する事になり店を休む訳にも行かないので向側の空地にバラックを作ることになった。このバラックで営業を続け乍ら店をつくる訳だ。
今度は石山氏に全部まかせたのでこの前の様に材木運びを手伝う必要もない。このバラックのとなりで松本さんが氷水やさんをやって居たがこれが今の松本眼鏡店である。
この店は間口四間半奥行五K位の二階建でそれ迄は湯本から来たままのふでや洋品店であったがこの時初めてやまと百貨店と改めた。店は前からの希望通り思ひ切って天井を高くとり真中に吹ぬけをつけた。

多分これがその時に建てた「やまと百貨店」

その店もラップ製品が主体であとはオモチャトランク、手提袋から靴、三輪車乳母車迄扱って文字通り百貨店であった。
前の店よりずっと大きく売場も広く商品も多いので商売も大変やりよくなった。
建築についてここで一言説明しておくとこの頃は物価も大部上って居て又こんどの建築は大体二階建で五十坪位の建築費で請負金額も約百二十萬円位で其の外多少の追加を考へると百七、八十万は用意しなくてはならない内約七、八十万は出来て店には百万位足りなかった。戦前の取引銀行は常陽銀行であったが白河へそ開以来取引はなくまして外の銀行には一切取引がない。当時七七銀行は庄子支店長で割合三丁目の店には同町内と云ふ事もありゆう資してくれて居た。
それで筆者も早速七七銀行へ行ってゆう資を申込むと心よく引受けてくれて株を買ってくれと云ふ。それで株を五萬円升り買って安心して外の準備をすませて借入を申込むと十五万円位ならと云ふ事である。
五万円の株を買って十五万円では差引き十万円きり使ふ事が出来ない。
まるでペテンに掛った様なものである。
然し今迄全然取引がないので其れ以上は出ないと云ふ。
誠に困ってしまって次に勧業銀行に行った。勧業銀行は戦前は農工銀行と云ったのだが戦后は商業者との取引を積極的に行って居た。当時の支店長は梅津支店長と云ってここへ行って百万円の借入を申込んだ。
所が意外にアッサリと承知してくれた。全く地獄に仏である。
早速建築に取り掛った訳である。
新しい店でよく売れたのは三輪車とかボストンバックである。外にリュックサック等衣料品は勿論ラップ以外駄目である。
三輪車の仕入は北千住の貧民くツみたいな所で陳列長屋のハズレの方で造って居た。
古い大人の自転車を改造して子供物を造って居るのである。
神田蔵前の問屋にもあったがここはメーカーなので仕入値が一番安いのである。
又ボストンバック等も横山町の双田丸とか松野等にあったがこれも北千住とか日暮里の方に行くと半島人等が製造して居る所があり、二割位は安く仕入れる事が出来た。
当時の事で一切が現金取引なのであるがこれは重くて持って来る事が出来ず荷物が着く迄心配したものだ。
昭和二十二年の夏頃だったと思ふが衣料品の配給が切符制度になって衣料品店の登録が行はれる様になった。
これはお客様が自分達で好きな店を登録するのである。そしてある程度以上の票を取った店が衣料品の配給所になるのである。
そして衣料品は切符制度になって一人が一年間に三十点位の点数をもらって例へばタビが二点、沓下が二点シャツが八点と云ふ様になり三十点使ってしまへばもうその年は衣料品が買へなくなってしまふのである。
この衣料品店の選挙は買収個別訪問が自由である。期間としては約一ヶ月位であったと思ふ。さて愈々運働に這入ったのであるがまず個別訪問が一番である。
時あたかも夏の事でうちわ等を持って廻って歩き頼んであるく。
そして票を入れてくれると云ふ所からは署名をもらって歩く。これが三千名位になったので(又戦前よりのお得意様もあり当然有効投票は充分にとれる事と思って居たのであるがあけて見ておどろいた。見事におちて居るのである。これはあとで判った事であるが現在迄配給をして居る店にはかなわなかった訳だ。
前に述べた様に仙台屋、北川、二丁目の山家、中のかみや、三丁目なかや大黒屋三井四丁目ツルヤ小野栄等々戦時中も轉廃業をしないで衣料品を扱って居た所には何と云ってもお得意をつかんでおりむしろ当時は売手市場で消費者はこれらの店から配給品を売ってもらって居たのである。
この店が前からためて居た配給品をうまく使って運働するのであるから客は絶対についてくる筈である。
これでは我々廃業組はかなふ筈はない。現に当選したのは全部現在迄の配給店である。
轉廃業組は全部まくらを並べて落選したのである。まちにまった衣料品の配給店もこれで駄目になり又何人かのせっかく入れてくれたお客様にはよその店には買いに行きにくいと云われて大いにうらまれたものである。
正に泣きつらに蜂であった。其の内に落選した店も二軒集って一軒として配給品をあつかわせてもらへると云ふ事になった。
何とも情ない次第であった。筆者の店は四丁目のウロコヤと合同して配給店と云ふ事になった。所がである。配給品は一應平衣料品組合に来るのであるがこの配給品の配給は当時残って居た店の主人連中が役員になって配給業務に当たって居た(理事長かみや、山崎賢介)ので配給品はよい物から順に組合の役員がとり数量も段違いである。
例へば役員の所へ百の配給があると我々の所へは五か三である。それをウロコヤと二軒で分けるのであるから配給所などは名前丈である。配給の仕様がない。
投票をしてくれたお客様からはかくして居る様に云われて実情を説明して判ってもらうのに大変だった。
よその店は配給の日は朝早くから行列が出来て午后迄行列が続いているのに筆者の店等は五、六人に品物を渡せばなくなってしまふ。
配給のある日ははずかしくてよその店の行列がなくなる迄は戸を開けないで我まんしたものだ。この品物を切符で配給するのであるがこの集めた切符の点数に依り?の仕入が出来るのである。
初めから品物が来ないのだから切符が集まる訳がない。切符が集まらないのだから品物の仕入が出来る訳がない。
この時のくやしさは今では話しの種であるが当時は全く何とも云ひ様のない思ひであった。然しその思は其の後の仕事の面では大いに役に立った事と思ふ。
当時の組合役員達にもずい分掛け合ったものであるが何しろお互いに欲のからんで居る事とて敗者に対する勝者の様なものでてんで相手にしてもらえずくやしい思ひをしたのも始終であった。
然しこれは前にも述べた様に益々商売に対する意欲を高めて配給品が来ないなら別の商品で勝負と云ふ事になった。
戦前から取引のあった埼玉県の鞄足袋の新久商店、加須の満定タビも戦后健在で戦災に会わず足袋の外既製服類も製造しており統制品の外にガラ紡製品(規格外)もかなり作っておる事を知り早速尋ねる。
そして切符がないので統制品は余り仕入が出来ないがガラ紡製品でもほんとによく出来て一見綿製品と見まちがう様な商品(主に足袋)を優先的に廻してくれた。
これを仕入るとかなりもうかるのであるが又ほとんど薄利益で統制品と同じ位の値段で売ると客から切符をもらう事が出来た。(勿論これは余りよい事ではない)一種のヤミ行為である。そしてその切符を使って正規の商品を仕入る等と云ふ様な仲々危い橋もずい分渡ったものである。
取引先は東京、埼玉新潟等仲々忙しかったものである(この頃はまだまさ子は仕入をして居ない)この頃やっと暇が出来て前に唯雄の消息を知らせてくれた桑原中尉を横浜に尋ねる。
横浜無線と云ふ会社に多分スルメか何かを持って尋ねて行った。色々と話しを聞いたのであるが最后は一所に居た当番兵と一しょに行方不明になり六月二十日頃比島の南部に集結した時には姿を見せなかったと云ふ。当時その地方の住民は日本軍に好意をもっておらず多分ゲリラにやられたのではないかと云ふ話しであった行方不明になったのは六月十日頃で一しょに居た兵隊は千葉県の兵長であったがもしこの兵長が無事で帰ってくれば知らせに来てくれると思って居たが遂に尋ねて来なかったので多分一所に戦死したのではないかと思ふ。色々話しをきいて比島の戦闘地?をもらって帰って来た。
新しい店の営業も順調に行き約一年后又又衣料品店の再登録選挙があった。これは現在の配給店はそのままで新しく何店か店を追加する訳である。故にこの前落ちた店丈が立候補した。こんどはうまくやらねばならない。
個別訪問をするのでも唯廻って頼む丈では駄目である。
切?物を造りこれに配給日、品名、数量、名前等を書き込む様にこしらへてこれをくばって歩くつまり後日これが配給台帳になる様にしたのである。これが効を奏した。
初めて一人前の衣料配給店になったのである。然しこれはあとで考へると落ちた店丈の選挙でこれがほとんど当選したのであるしあたり前であったのであるが当事の喜びはそんな事をぬきにして大喜びしたものである。
然しこれで配給品が充分来ると思ったのは大間違い。いわゆる実績がないと云ふ事で我々の店へ来るのはやっぱり少いのである。
どこ迄も差別待遇を受けるのである。然しこんどは百分の一と云ふ様な事はなく外の店の三十分の一位は来る様になった。
それでこの配給品に新久とか満定あたりから分けてもらう製品をまぜてお客様には我まんしてもらう様にする。
もうその頃はガラ紡製とかラップ製品も大部出廻っており(これはげんかくに云へば統制品かも知れないが取締りの警官もくわしく分からないので大目に見て居たらしい)
そんなに目の色をかへて商品を買いあさると云ふ様な事もなくなって居た。
現にガラ紡製品等品物がだぶつき気味で綿製品の配給の時にダキ合せで来る様になり綿物はすぐに売れてしまふのだがガラ紡製品が残ってしまってこれがだんだんたまってしまって困る様な状態になって来る。
又点数を大部集めて木綿物を仕入る場合と場合に依っては点数丈を一点幾らで売ると云ふ事もやったものだ。多分一点十円から十五円位だったと思ふ。
とに角あらゆる手を使ってヤミ商品、ヤミ点数で金もうけをした。
その頃土浦の森島工場に勤ムして居た義雄の会社が終戦時の手持材料もなくない愈々解散する事になり土浦で飲食店でも開きたいから家を土浦に買ったほしいと云って来た。当時商売の方は好調にいって居たが土浦の土地を買ってやる程の余裕はない。
こちらも裸から商売を初めてまだ二年位しかも借金もして店を建築して居るのである。
店の方も益々忙しくて一人で方々仕入をして廻らねばならないので平へ来て店の方を手伝ってもらふ事になる。
初めはしぶったのを説得してやっと平へ来る事になったが別に家を見つけてもらいたいと云ふ。適当な貸家も仲々ない。丁度公園の下に空地を見つけてここを貸してくれると云ふので借地をして家をたてる事になった。
土地約四十坪位に二十五坪位の家をたててこれを義雄の名義にした。小さい家であったが当時としてはこれが精一パイであった。
当時は衣料品も大部出廻っており一應商売も繁昌して居たので一寸位無理をしても六ヶ月もたてば又金ぐりも楽になったものである。
母スイはその頃足を悪くしておりこれは昭和七年埼玉県に行って居る時にケガが元でずっと悪かったのであるが戦前はあらゆる病院であらゆる治療をして反って悪くしてしまって居たのである。
初め眼が悪く埼玉県に非常によい眼の病院に行って居る時に大地震があり逃げだす時に一寸足をネンザした。この為に足をひやしたのであるが余りひやしすぎて凍傷にしてしまい又この凍傷を直す為にレントゲン治療を東大病院で受けて居たが一日も早く直したい為にこのレントゲン治療を掛けすぎてレントゲン火傷にしてしまった。一種のガンみたいなものである。戦時中は東京の病院にも行けずうちで治療して居て又足もおちついていたのであるが終戦になり東京の病院も再開されると一日も早く足をよくして又商売をやってみたいと考へる様になり又東京の病院へ通い初めた。元々商売好きの性格なので無理のない考へである。
東大病院を初め、てい信病院、赤十字病院から聖路加病院と通って居たが皮フガンになってしまって居た。
最后に慶応病院で手術をする事になり年も年であり廻りも皆反対したのであるがスイの決心が固くとうとう手術をした。
然し年をとっており又身体も小さくて太って居たので義足では思ふ様に歩けず仕入にとび廻ると云ふ訳にはいかなかった。
残念だった事と思ふ。
その后又々店がせまくなり又前に銀行から借りた借金も返済のメドもついたので残りの土地一パイに増築する事にした。こんどは店で商売をやり乍らの増築でこれが出来上がって総二階延九十坪の家になりこのうち一階の約四十坪が店舗になりこれが大体昭和二十四年頃でこの機会に店を株式組織にする事になる。資本金四十万である。(その后七十万に増資)

多分この時の増築工事の写真
増築完成開店!(関係ないが自動車がかわいい)

この頃の事である。
店の商品も大部増加して来た頃平には衣料品店に入る盗人がはやって居た。
それが筆者の家にも這入ってしまったのである。毛糸を大部持って行かれた外ネクタイ等金目のもの丈を選んで持って行った。
多分二、三人の集団でなかったかと思ふ。
当時の金額にして三十万位だったと思ふがこの痛手は大変であった。
其の后二階の部分が吹抜けになって居たので毎夜全商品をこの吹抜を利用して滑車で二階に上げて居たが毎夜の事でこれはいつの間にか止めてしまった。

この吹抜だろうか

其の后店の天井が高すぎると云ふのでこれをひくくする事になり内郷の沼田建設で工事をする。これは約二ヶ月位かかる大工事であった。そのごしばらくは何も変化はなかったのであるがかねてより持病のしん臓と老衰でねたり起きたりして居た辰蔵が昭和三十一年八十四才で死亡した。
その頃スイものうなん化しょうになって居たがその后一年位で死亡した十才年下であったから七十五才であった。

辰蔵とスイ(ひいじいちゃんとひいばあちゃん)

その前二十八年には義雄が独立したいと云ひ出しかねてより東京方面の友人にたのんで居たらしく高円寺に家の売物があると云ふ事でこれを買ってやり独立して行った。その頃から同業者も多くなり又衣料品も統制を外されて商品が充分に出廻り初め昔の様な面白味はなくなって居たが三十七年大黒屋が江川の場所を入手して五階建の建築をしてデパートに変身又鈴藤も又五階建を新築して愈々平も競争しれつとなって来る。丁度平商を卒業して宇都宮の麦倉へ見習に行って居た紘一(注;私の父)が三年の年期を終へて帰って来るのを記念して店を中地階に改造する。その后四十二年三月紘一は江川幸子(注;私の母)と結婚又修三(注;紘一の弟)は将来の飛行技士になる為に日大の理工科に進学する事になる。

          四十四年二月四日
          東北大附病院東三三二号
          北林 清

清とまさ子(じいちゃんとばあちゃん)

退院后は又店にもどり店の仕事に精を出すが約一年程して又々持病の胃かいようが再発するがこれは通院にて直し昭和四六年四月より愈々三丁目の店の鉄筋コンクリート工事を山登工業のうけ負にて開始す。
これの資金繰には約十年前に買っておいた三十九町の土地をあてる。
四月より始まった工事は予定通り十月に完成十月十日待望の鉄キンコンクリートの三階建の店が出来上がり十月十日より開店す。
新しい店は子供服を止めて二階が婦人服一階が婦人和製専門店として出発する。(注;この時私は1歳)

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