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この7年間のこと。伝えられることを、伝えられるうちに。

一度だけ人前で語ったことがありますが、この7年間どうしても文章にはできなかったことがあります。

病のことです。

幸いにも「いまはずいぶん良くなってきている」という前提を先にお伝えしつつ、少し振り返って書いてみようと思いました。

いや、書いてみようとはずっと思ってきました。
だけど、途中で恐くなり、何度も消してきました。

それを、「書き切ろう」と決めました。


わざわざこうして公にする理由はたったひとつです。
「自分が楽になりたいから」です。

いま自分を邪魔しているのは、病そのものの苦しみではない。
病にまつわる「うしろめたさ」が生み出す、人や物事との距離。
他の誰でもない、自分自身で生み出してしまっているこの距離こそが、いろいろなことを阻害してしまっているのではないか。

長い年月を経て、そう気づきました。


これを人に伝えることが、自己憐憫や言い訳になってしまうような気がして、なかなか積極的には語れませんでした。

だけど、誰かと深く大事なことを語り合おうと思えば、僕にとってこの話は避けて通れない。
うまいことそこに触れないように立ち振る舞うと、後ろ手に何かを隠しながら動く人みたいに不自然で、ぎくしゃくしてしまう。
心の半分以上を「隠すこと」への努力に使ってしまっていては、本音も本気も出せない。
「触れられないように」という警戒心は逆に、「相手にも聞いてはいけないかもしれない」という遠慮を過度にしていき、コミュニケーションを諦めさせてしまう。

こういう生き方が、すごくめんどくさくなり、疲れました。

語ることで、傷が広がるかもしれないし、また何かを失うかもしれない。
だとしても、「いまのまま」で死にゆくことを想像すると、このままで納得のいく生き方ができるとは思えない。

そろそろ、自分をぶん投げる時期だと思いました。
やはり恐いけれど、いまのままでいるくらいなら、どう転んでもいい。


100%自分のために書きます。自分が楽になるために。

だけどちょっとだけ、せっかく公開するのならば、近しい環境にいる本人や、そういう人と接する誰かにとって、何かの気づきになったらいいな、という下心もあります。

なので、合わせて120%の想いで、できるだけ包み隠さずに書きます。
時系列でひどく長くなってしまいましたが、出てきたままに委ねます。






2011年7月24日。親友が亡くなりました。
ひき逃げでした。

気づいたのは、まる24時間が経った翌日の夜中だったと思います。
TABLE FOR TWO(TFT)のSkypeミーティングまでの空き時間でした。

ある人が「惜しい人を亡くした」とTwitterで投稿したブログ記事に、友人の名前が書いてありました。

最初はまったく意味がわかりませんでした。
言葉は入ってくるけれど意味にならない。

意味は次第に染み出すように入ってき始め、理由も告げずにミーティングは中止にしてもらい、ひたすら泣いたと思います。

翌日の朝の記憶はありません。
ようやく思い出せるシーンは、大学近くの、事故現場につながる通りの十字路に立っているところです。

朝どうやって着替えたのか。
どんな気持ちで電車に乗っていたのか。
まったく覚えていません。

そこから事故があった現場の踏切までは歩いて15分くらい。
遠目に、電柱のそばに多くの花束が置かれている光景が見えました。
心臓が凍りつき、突然、ズンと重力が増したような気がしました。

その日はひどい炎天でしたが、夕方までずっとそこで泣いていました。

ある近所の男性は、「犯人はもう捕まったのか?」と聞いてきました。
まったく意味のない問いかけだと思い、答えませんでした。
そのときは犯人のことなど心底どうでもよかった。

通りすがりのあるおばあさんは、「かわいそうに、何歳だったの? 念仏させてね」と言って、手を合わせ、頭を撫でてくれました。
いまでも、あの人間の底から出てきたような優しさを思い出すと涙が出そうになります。

次第に、炎天下でいつまでも居座っている僕の周りに、近所の方々から差し入れが置かれるようになってしまいました。
お水、ジュース、お菓子...

いったい誰が弔われているのかわからなくなり、ちょっと笑えて、夕方にその場を去りました。


葬儀は、新潟の彼の実家で行われました。
その日の新潟は記録的豪雨で、交通機関は麻痺し、天気が落ち着いた後もマンホールからは水が噴き出していました。

「死んでないから、来る必要はない」と、彼が拒絶して雨を降らせたんじゃないかと思っています。
いまでも毎年命日に手を合わせに行くと、ほぼ確実に雨に見舞われます。

最後のメッセージには、「やすらかに」とはとても言えず、「あっちでも思い切り暴れて」と書きました。
棺が空いてそれを入れようとしたとき、彼の目元に赤く湿ったものが流れていました。
医学的に説明できる現象だそうですが、僕は涙だと思いました。

その顔は、少なくとも僕には、何かを「終えた」顔ではなく、「止まった」顔にしか見えませんでした。


彼は、とてもマニアックな、世界中のディープな音楽を紹介する雑誌を自分でつくっていました。
取材のためにパキスタンやチベットに潜入して、帰ってくると誇らし気にCDの束を見せてくれました(そして話がとても長かった)。

その費用を工面するために、何十連勤もバイトをし、食費を削り、睡眠時間を削り、ときどき寝坊をしながらも、常人の数倍の密度で生きていたように思います。
いくつものバンドのボーカルも掛け持ちで務めていました。
そんななかでどうやって時間を捻出していたのか、日々ブログには、彼の生活と音楽への探究が長々と綴られていました。

ハードワークのなかでも決して寛容さとユーモアを失わず、情熱を持って自分のテーマに没頭していた彼は、いま思い返しても敵わないと思う存在です。

彼は大学のフリーペーパーもつくっていて、出会いはそのご縁でした。
ちょうどそのころ、僕がTFTの活動を大学に導入したいと動き始めたときで、取材をしてくれることになったのです。

当時、活動の立ち上げ経験もなければ、リーダーという立場にも慣れていませんでした。
ただただ想いしかなかった僕にとって、人生で初めてのインタビュー経験にはちょっと心がくすぐられる思いでした。

以降、意気投合し、ときに夜中までお互いの活動のビジョンを語り合い、その後も僕は何度も彼の力を借りてきました。


彼の次の取材の予定はイランでした。
そのために5,000円くらいするペルシャ語のテキストを買い、例のごとくお金を溜め、準備してきた旅でした。

事故は、その旅の直前に起きたものでした。

それを知っていたから、「終わった」のではなく「止まった」顔にしか見えなかった。

事故の直前、僕もある旅を計画していました。
前年にTFTの支援地でもあるウガンダ・ルワンダで見てきたものを、学生最後の夏休みを使って全国のTFTメンバーに伝えに行き、全国のメンバーの頑張りを自分の五感で見聞きし、想いを分かち合う自転車の旅です。

彼の事故のニュースの映像には、クルマがぶつかった衝撃で破壊された自転車が映っていました。
それを見て、すべての想いが枯れました。
もうこの旅はやめようと思っていました。

だけど、棺のなかで止まった彼の顔を見て、その気持ちが変わりました。
これは絶対にやり遂げなければいけないことだと。

棺が運ばれて行くのを見送った後、消えかけていた心の炎のようなものが燃え上がるのを感じました。
それは「炎」と表現して語弊がないくらい、物理的な熱さえ感じるものでした。

生きている自分が、動ける自分が、伝えられることを伝えられるうちに伝えに行かないでどうするんだ、と。

42日間、30都府県、4,000km。
各地で講演があるから、パンクしようが台風が来ようが止まれない旅。
1日で200km以上こいで一気に静岡を横断しなければならない日もありました。

強烈にきつい体験でした。
それでも、やめたいと思うたびに自分を奮い立たせることができたのは、彼のおかげでした。

旅が終わった翌日が内定式で、その翌日がハーフマラソンで、それから1週間でイベント運営や講演が2本も3本もあって。
「生きている自分が動かなければ」という想いが、ずっと自分を走らせていました。

いま思い返せば、それは少し脅迫観念のようにもなっていた気がします。




翌年、2012年の7月24日。
社会人1年目でバタバタしているなか、この命日は休みをもらい、事故現場に行きました。

あの日と同じようにその場に座り込み、ずっと気になっていたことに想いを馳せていました。

「彼の最期の言葉はなんだったのか」

実際に発した言葉という意味ではありません。
一般道、それも踏切のすぐ近くで狂ったスピードで突っ込まれ、10メートル飛ばされ、ブロック塀を突き抜けるまでに、彼の頭のなかにどんな言葉がよぎったのか。

目の前にあったイランを思った悔しさだったのか。
大事な人に伝えたい言葉だったのか。
近くに人がいたらなんて言い残したかったのか。
それとも、それらを思う猶予すら与えられなかったのか。

その最期の言葉がどうしても気になってしまった。

その言葉にたどり着くために、何度も繰り返し、見てもいない事故の瞬間のシーンをイメージしました。
本当に細かいところまで、何度も何度も想像しました。
自分の身体の同じ場所にも痛みが走り、気持ち悪くなるくらいに何度も。

何時間そうしていたのかわかりません。
ある瞬間にふと、

「この場で、自分にもクルマが突っ込んでくるんじゃないか」

という思いがよぎりました。
それはかなりリアルな感覚でした。

その瞬間から、目の前の道路を通るクルマが突然、ものすごく恐ろしいものに思えてきました。


本格的におかしくなったのは、その翌日からだったと思います。

最寄り駅への道中では、細い道でクルマとすれ違うのが異常に恐ろしく感じ、思わず手を出して身構えてしまいました。
仕事は新幹線移動が多く、「この新幹線も脱線するんじゃないか」という考えが頭から離れず、息苦しくなりました。

一時的なものだろうとねじ伏せながら数日を過ごしたと思います。
だけどある日、通勤の電車で耐えられないほどの息苦しさに襲われて、駅員室に逃げ込み、倒れ、救急車で運ばれました。

過呼吸なんて一度もなったことがなかったので、本当に死ぬんじゃないかとパニックになりました。

たしか翌日は会社の研修があり、なんとか足を運びましたが、その無理は長くは続きませんでした。

横断歩道を渡るときも、電車に乗るときも、工事現場の下を通るときも、すべてに対してあまりにもリアルに身の危険を感じ、ただ外出するだけで疲れ果てました。
疲れ果てているのに入眠ができず、日に日に心身が弱っていきました。

いくらなんでもおかしいと、抵抗がありましたが会社から紹介してもらった心療内科へ行きました。

診断はPTSD(心的外傷後ストレス障害)でした。
いわゆるトラウマ障害です。

震災のときにニュースで何度も聞いた病名。
自身が直接体験しなくても、映像を繰り返し見るだけでもかかることがある、とは知っていました。

それでも、事故の記録映像を見たわけでもないし、1年も経ってから発症するなんていうことがあるのかと、認めがたい思いでした。

後から、遅発性で時間が経ってから発症することもあるということを知りました。


いま思えば、この症状だけであれば、そう時間がかからずに回復できたんじゃないかとも感じます。

問題は、休職になってしまってからの強い罪悪感でした。

入社数カ月、グループの先輩が卒業して引き継いだ直後なのに、なんて迷惑をかけているんだ。
いろいろな国で、様々な苦境を耐えしのいでいる人たちのことを見聞きしてきて、いったい自分はこれくらいの苦しみでなぜ倒れているんだ。
彼が亡くなり、生きている自分が精いっぱい動くと誓ったはずだっただろ。ご遺族の悲痛な叫びを聞いただろ。
自分ごときに、事故のことを理由に倒れる資格なんてない。
お前ごときが、あいつのことを身体が動かない言い訳に使うな。

ひたすら自分を責める言葉が頭のなかをかけめぐっていました。

ほどなくして強い鬱状態に入りました。
PTSDと鬱病は併発することがかなり多いそうです。

起きている間は自分を責め続け、次第に起き上がる気力すら失せていき、食事の味がしなくなり、あらゆる関心が消えていきました。

そうして体調が悪くなったからなのか、PTSDの症状も加速しました。

過覚醒で音に異常に敏感になり、気力はないくせにずっと交感神経が高ぶっているような状態で、入眠ができない。
睡眠薬に頼ってなんとか落ちても、2時間も経たずに目が覚めてしまう。

そんな浅い眠りを繰り返していると、明け方に必ず悪夢がやってきます。

クルマの夢か、誰かにひどく責め立てられる夢。
それを、誇張でなく毎日見ました。

恐ろしい思いからなんとか目を覚ますと、だいたい金縛りにかかっています。
脳は活動しているけれど身体は寝ている浅い眠りの間に目が覚めるせいだと思います。

身体は動かないし、呼吸も苦しいし、声も出ないし、何より恐ろしい。
その金縛りから抜けるためにもがき、なんとか首のあたりから横にひねって解けたときには、全身が汗びっしょりで、絶望的に疲れ果てていました。

ぐったりしてまた横になってしまうと、再び浅い眠りに入り、また悪夢と金縛りに。

それが毎朝、何周も続きました。
日が昇ったころにはすでに心身が疲れ果てていました。

朝はそうして疲れ果てている。
日中は「自分だけがさぼっているんじゃないか」という思いから罪悪感の連鎖が始まり、頭を抱えてただひたすら辛い時間をやり過ごす。
夜になるとようやく「自分も休んでいい時間だ」と思えるけれど、すでに翌日の朝が怖い。
「いつか夜が明け、朝が来る」と励ましてくれる人もいましたが、正直に言うとその朝こそが怖かった。

せめて意識を失った眠りのなかだけは楽でいたい。
そう思っていたのに、そこにすら繰り返し悪夢が侵入してくる。

そうして眠ることすら辛くなって、逃げ場がなくなっていきました。

もういまだから言います。
最後の逃げ場を選んでしまわないために、正直、本当に日々ギリギリでした。
その描写はあまりしたくありませんが、いろいろな誘惑をなんとか退けては、また負けそうになる。
命の大切さを思い知らされた自分がなんてことを考えているんだという嫌悪が湧き出る。湧き出るけれどどうしようもない。
それでもなんとか、壁に頭を叩きつけてでもなんとか耐え抜いて、1日をやり過ごす。

そんな力みっぱなしの時間が来る日も来る日も続きました。

あれは本当に辛かった。
どうしてあの日々を耐えられたのか、いまでもわからないくらい辛かった。
100kmマラソンの比じゃない。

だけど、僕はあの事故で、遺された人たちの姿を知っている身でした。

遺された人がどういう思いをするのか。
どういう顔をするのか。
どういう声をあげるのか。

その痛みは、自分自身も病に陥るほどに痛感したはず。

だから、それだけはしてはいけない。
そんな思いを家族や友人にさせてはいけない。

その気持ちが唯一のストッパーになっていました。

最後の最後は、「自分のためだけ」では生きられなかったと思います。
「人のため」という大義名分にすがるしかなかったのことが弱さだとしたら、その弱さにいまは感謝しています。




苦しみから抜け出す道のりには、何が必要だったのか。

周囲の理解はもちろんです。
加えて、自分自身の心持ちとして必要だったことがありました。

それは、「抜け出すために頑張る厳しさ」ではなく、「日々の小さな進歩を自分で認める寛容さ」でした。

罪悪感に苛まれているさなか、「自分を認める」ということは、最難関とも言えるほど届き難い場所にあります。
それでも、「今日は昨日より進めた」を自分自身が認めない限り、周囲がどれだけ優しい言葉をかけてくれても事態は動きませんでした。

こんな状況の自分を認めることは「甘え」でしかない。許せない。
「妥協」が最大の敵だった部活のサッカーを長年続けてきた影響もあって、そのガチガチに固まった考えをほぐすのは本当に難しかったです。

もはやそんな自分を逆手に取るしかなく、

「自分を認めずに苦しみ続けることのほうが、本質的な甘えだ」
「自分に厳しくするというパフォーマンスをやめろ。進むために必要なのであれば、甘えさせることこそが本当に必要な厳しさだ」

とすら言い聞かせました。

そうして一つひとつ、「これはできた」を積み重ねるようになりました。
「朝日を昨日よりも1分長く浴びた」とか、本当にそういうレベルから。

少しずつ、行きつ戻りつをしつつも騙し騙し動きを拡大し、日常を取り戻すように努力しました。
そんななかで、ある瞬間に、あの事故の後に浮かんだ言葉が蘇りました。

「伝えられることを、伝えられるうちに」

新しく何かを生み出すような余裕はない。
けれど、これまで語ってきたTFTへの想いやアフリカで見てきたもののことを後輩たちに伝えてあげる、それだけならできるんじゃないか。

それが外向きの動きの始まりでした。

外出は相変わらずとても疲れるもので、一度話しに行けば翌日以降はしばらく反動で動けませんでした。

「自己満足だったんじゃないか」
「自分の回復のために後輩たちを利用していないか」

帰り道でひとりになると嫌悪感が膨らんで、道路でうずくまりそうになることもありました。
下はコンクリートでも、難なく沈んでいけそうなくらい心身が重かった。

それでも、たとえ地面に身体を引きずって血を流しながらでも、いまはこうして動くしかないと思って続けました。

結局、復職までの期限中には回復できず、会社を退職することになりました。
誰かから転職の理由を聞かれたときに言葉を濁してしまうことが多かったのには、そういう理由がありました。
様々なサポートをしてくれた前職のみなさんには、恩返しはできませんでしたがすごく感謝しています。


心身を保てる範囲内で「語る」ことを続けていくなかで、大きな転機となったのはまさにその「語り」でした。
それは、母校・東京外国語大学での講演の機会でした。
2013年6月7日。

外大TFTサークル「W-Win」の後輩・横山秀くんが、その機会をアシストしてくれました。
たしか150人くらいの規模でしたが、その準備をするメンバーは彼と僕だけ。
この苦労を引き受けてくれた横山くんには頭が上がりません。

この場で語ることは、それまでとは大きく違いました。
TFTのことだけでなく、活動を始めるまでの自分自身の人生のこと、病のこと、弱さのこと、すべてを語ることを決めました。

少しずつ動ける身になってきていたものの、何か大きな決断が必要だと感じていたからです。
そして、再び近づく命日の前に、何かを変えたかったから。

この決断は心底恐かったです。
会場に人が集まってくるとその恐怖は増幅しました。
開始直前には一度本当に会場から逃げかけたくらいです。
核心を話すときには声も手も震えていたし、不格好だったと思います。

だけど、喉に手を突っ込んで血まみれの魂を引きずり出す、それくらいの覚悟で語りました。

その覚悟を受け止めてもらえたのか。
「好きなことを書いていい。1行でもいい。何も書かなくてもいい」と言って配った白紙のアンケート用紙には、本当に多くの人がびっしりと想いを書き綴ってくれました。

驚いたのは、僕の話への感想だけでなく、自身の経験を吐露してくれる人が多かったことです。
心の開示の連鎖のようなものがいくつも起きました。
「最後の逃げ道」の瀬戸際にいた方もいらっしゃり、その人はその選択をやめたとすら言ってくれました。

ああ、ようやくひとつ扉が開いた。
そんな気がしました。

その後お手伝いするようになったWorld Theater Projectに参加するご縁が生まれたのも、このときでした。

そして、TFTの活動のなかで出会い、いくつもの素晴らしい本から知恵や勇気を授けてくれ、ウガンダ・ルワンダの旅では社長と同行する機会に恵まれ、僕のバイブルである『国をつくるという仕事』を出版し、あの自転車旅も応援してくれた英治出版のアルバイトに応募する気持ちがわいたのもこの直後でした。

発症から1年経った、2013年8月のことでした。




それからの3年間は、このふたつの活動のなかで徐々に行動量を上げていこうと試みる期間でした。
それでも、何度も体調不良を繰り返してしまいました。

このときの苦しみは、それまでとは別の要因から生まれていたような気がします。

クルマをはじめとする異常な恐怖感は、当初に比べればだいぶやわらいでいました。
だけど、「不安感=身体不調」という回路が強固になってしまったのか、何かに焦ったり不安を感じると、それが身体の調子に影響するようなことが続きました。
なんでもないことに心身が条件反射し、誤作動を起こしているようでした。

季節の変わり目や、体調がとても悪かった時期に差しかかると、空気感や季節の匂いから当時の辛さを思い出し、記憶に引きずられるように睡眠不調や悪夢がやってくる。
そうして生まれたビハインドを取り戻すためなのか、どこかで必要以上に気合いを入れて、極端に動いてしまう。

後に双極性障害Ⅱ型とも診断されてしまいましたが、そんなアップダウンを繰り返していました。
同じ場所をぐるぐると回っているような気がしました。

だからどうしても、次のステップに踏み出す勇気が持てなかった。
「また落ちてしまったときにどうしよう」という予期不安が常につきまとい、挑戦心が揺らぎ、その不安で何かに取り組む前から疲れてしまう。

そんな状態でこれ以上先へ進めるのだろうか。
自信が持てずに右往左往していたこの3年間は、実は何をしていたのかあまりはっきりと思い出せません。

そうしたなかでも、決して忘れることができない出来事が起こりました。


2016年10月12日。
直属で一番面倒を見てくれていた上司が急逝しました。

そのときのことは過去に書いているので、ここでは長く語りませんが、本当に大きなショックでした。
どれだけ面倒を見てもらい、どれだけお世話になっていたか。

それでも、「いまが次の1歩を踏み出すタイミングなんじゃないの?」と後押しをもらい、職務上その方の後を継ぐ形で、翌月から英治出版の社員になりました。

踏み出すしかないと思いましたし、踏み出させてもらえたことが嬉しかった。
だけど、やはり不安もぬぐえませんでした。

そもそも週5日コンスタントに動けるのか。
あの人の後に続くのが自分なんかでがっかりされないか。
会社の信頼を失うようなことをしてしまわないか。

長い闘病の期間にすっかり自信を失っていました。
あらゆることが自分には務まらないのではないかという疑念が払拭できない。
お世話になってきた恩人のような会社であるだけに、余計にそのプレッシャーを感じてしまっていたのかもしれません。

翌年の2月ごろ、やはり大きく体調を崩してしまいました。


2017年度は、ほぼ1年間休職。
そしてまた、深く長い鬱状態が始まりました。

またあの苦しさを耐えなければいけないのか。
そう思っていました。

だけどこの年の辛さは、発症した当初の辛さ以上のものでした。

再発のような形になってしまった。
自分はこれを繰り返し、もう抜け出すことはできないのではないかと思いました。

崖を登っていっても、地盤自体が落ちていってしまう。
永遠に地上にたどり着けないような気持ちになりました。
逆向きのエスカレーターを登り続けているような気さえしました。

同じ境遇の人に対しては決して言いたくないけれど、自分に対してはどうしても「情けない」という気持ちがぬぐえませんでした。

そうして人と会うこともできなくなっていきました。
「最近どう?」と聞かれて、うしろめたい自分の事情を話すことは気が引ける。
だけど、「元気?」と聞かれて「元気だよ」と嘘をつくのも心が痛む。

次第に誘いに返答することすら嫌になってしまい、SNSをすべて閉じて、できるだけ連絡手段を断ちました。
長年の親友とすら会うことができませんでした。


この期間、唯一社長の原田英治さんとだけは連絡を取ることを決めごとにしていました。
週に1回はメールを送り、月に1~2回くらいは会って話をしました。

こんな自分に時間を使わせてしまうのが申し訳なくて仕方がなかった。
けれど、「こういう経験はこっちとしても貴重だから」と笑い飛ばしてくれたのには救われる思いでした。

復帰までの道のりをうまくペースメイクしてくれたのも英治さんでした。

週に1回だけ顔を出しに行く。
次の月には週に2回にしてみる。
ちょっとボランティア作業をするようにしてみる。

そういう出社をすることに対して最初は気まずさを感じ、周囲の顔を伺ってしまっていました。
だけどもう、みんな事情を知ってくれている人たちですし、事情ある人に対して寛容な人たちばかりです。

次第に気まずさが消えていき、顔を出せる回数も増えていきました。




ようやく復帰できたのは、ほぼ1年が経った2018年3月でした。
実は以外と最近です。

それから今日までの1年半はリハビリに近い気持ちもありましたが、僕にとってはそれ以上にずっとありがたい時間になりました。

ちょうど新規事業が立ち上がるタイミングで、そこのサポートに入る形で仕事に戻りました。
相変わらず僕はガタガタしていたけれど、チームメンバーである山下さんと岩佐さんの経験と寛容さに支えられ、少しずつやれることを増やし、仕事生活に馴染んでいきました。

ありがたかったのは、これまでにやったことがないことばかりだったこと。
その分だけ開き直れて、毎日何かを吸収できている感じを持てました。
本当に、「吸っている」という感じ。学びも、息も。

ちょうど1年くらい前から取り組むようになった編集の面白さにも没頭するようになりました。
自分の歩みも「言葉」や「語り」に支えられてきたから。

会社のキーワードは「応援」です。
過去を振り返れば自分が動き回ることが多く、応援されてばかりだった気がします。
今度は、自分の状況が思わしくなくても、著者をはじめとした人たちをどれだけ応援できるか。
日々そのことを考えながら過ごしました。

リズムを取り戻しはじめ、ようやく再会できる人も増え、仕事でご一緒する社外の人とのご縁もできてきました。

以前はメール1通送るのにも大きな不安がつきまといました。
自分が行う何もかもが致命的だとすら感じていました。

そんな心が一つずつ、小さいことから「落ち着いて取り組めばちゃんとできる」「何か起きたところで大したことはない」という確認を重ねていきました。
「喜んでもらえてよかった」という前向きな気持ちも味わえるようになりました。

フラッシュバックや悪夢を見ることも、いまはもうだいぶ減っています。
季節の変わり目なんかにどうしてもときどき出てしまい、そのまま体調が引きずられてしまうことはあるけれど、半日かけずにリカバリーする術も身につけました。
予兆もなんとなくつかめるようになり、あらかじめ予定をバランスする感覚もつかめてきました。

長い時間がかかってしまった。
だけど、綱渡りながらもこの1年半は身体がもちました。
不安以上に夢中になれる時間も増えました。

いまようやく「大丈夫」と思え始めています。


それでも、いまだにどうしても払拭できないことがありました。

何かに好奇心が湧きかけても、「自分は本当にそう思っているのだろうか」と疑念が生まれ、自分の感性を信じられない。
考えが浮かびかけても、どこにも引っかからずに流れていってしまう。
何かを言葉にしようとしても、以前よりも出てくるまでにすごく時間がかかってしまう。
「これをしてあげたら助かるかな」と思い浮かんだことに対しても、その行動を何かがストップさせてしまう。
目の前の人と深く語り合いたいのに、なぜか躊躇が生まれてしまう。
人の話を聞くのが大好きだったはずなのに。

何かに手を伸ばすのだけど、袖から先に手がなく、何もつかめない。そんなもどかしい感覚です。

身体、心、思考、感性、それぞれのつながりがバラバラしている。
どこかの木の枝に、自分の半分を引っかけて置いてきてしまった。そんな違和感です。

それがこの1年半の大きな引っかかりでした。

これはきっと体調の回復とは別で、次第に回復していくようなものではないのではないか。
いったい何が自分の全体で生きることを妨げてしまっているのか。

その疑問が冒頭で書いた気づきにつながりました。

この違和感は、自身の過去やいまの状況へのうしろめたさが生み出しているのではないか。
そこに触れないように器用に生きようとして、裏目に出て不器用な結果につながっているのではないか。
触れられないようにするガードを思い切って外さなければ、ずっと閉じ込められたままなのではないか。

片手で隠しながら、残った片手だけで生きなくていいように。
ちゃんと両手で人や物事に接することができるように。
隠そうとしてきたものを手放してしまうべきではないか。

このまま違和感を抱き続けながら生きるくらいなら、もうオープンにしてしまうべきなんじゃないか...




今日は2019年10月6日です。
ようやく苦しんだ7年間のことを書くことができました。

何かが変わるかもしれないし、悪い方に傾くかもしれないし、何も変わらないかもしれない。
わからないけれど、もうこれをやらない限り先には進めない気がしました。

ここから先のことは、起きていくことに委ねます。






最後に。

長いこと迷い続けてきたのに、今回ようやく書けた理由はふたつありました。


ひとつは、9月14日に開催されたTeal Journey Campusというプロジェクトに関われたことです。

ティール組織』の編集担当であり、一番よく飲みに行ってくれる先輩である下田理さんが1年かけて進めてきた、新しい組織や社会の形を探求する大規模なカンファレンス。

僕自身もこの本に大きな衝撃を受けた一人です。
著者のフレデリック・ラルーさんが来日する機会ということもあり、何かお手伝いできないかとは思っていました。

が、自分の力量と身体の回復具合に自信が持てず、なかなか手を挙げられずにいました。

それでも、社外の「世話人」と呼ばれるメンバーとともにつくるという新しいプロセスを踏み、会社としても初となる大きな取り組みに奮闘し、相変わらずのギネスビールの飲みっぷりとともに想いを語ってくれる下田さんの姿を見て、今年の6月ごろから関わらせていただくようになりました。

この経験が、僕にとって大きな刺激になりました。

多様でハートフルな世話人メンバーや、インタビューをさせていただいた登壇者のみなさんとの出会いのなかで触れた、すてきな探求心や想い。
大きな取り組みに対して感じる責任感・焦燥感・無力感・高揚感。
近年でもっとも切羽詰まったとも思える忙殺感を乗り越えてできたストレッチ。

それらを通じて、自分のなかで何かが開き始めている感じがしました。

来日したラルーさんは、カンファレンスの最後にこう問いかけ、宿題を出してくれました。

あなたが今、この瞬間、本当に意味があると思う取り組みは何ですか?

この日が終わった時点で僕の心に生まれた想いは、他者や社会への取り組みの前に、自分自身に対する取り組みでした。

自分自身の全体で生きること。
置いてきてしまった自分のもう半分を取り戻すこと。
そのために、うしろめたく思ってきたことを隠さずに出してみること。

今度こそ、ずっと書こうと思ってきたことを書き切ること。

今回こうしてここに書いたという決断は、プロジェクトのなかでお世話になってきたみなさん、新しい領域に挑戦する姿を見せてくれた先輩、そしてラルーさんの問いかけに対する、僕なりの返答のつもりです。


そうはかっこつけて言ってみても、実際のところはスムーズにはいきませんでした。
カンファレンスが終わってからのこの3週間、途中まで書きかけては「やっぱりやめたい」を何度も繰り返していました。

そんなさなかでした。

今週9月30日に、友人が突然亡くなりました。
訃報が届いたのは翌日の夜のことでした。

大学時代同じゼミで、当時僕が「TFTを大学に導入したい」と言い出したときに、週刊ダイヤモンドのTFTの記事を持って「私もやりたいと思って、声かけようと思ってた!」と言ってくれた人でした。

副代表としてともにサークルを立ち上げてくれて、面倒な事務処理をこなし、組織の礎をつくり、僕の寝坊をあきれながらもいつもニコニコしながら許してくれて。
誰もがこの人に癒されてきたと言っている。

国際貢献は高校のころからの夢だったそう。
TFTの活動のなかでもそれを果たしてくれたのだと思う。
卒業後も各国の人たちを助ける仕事に従事する姿を見て、心から誇りに思う。

葬儀が終わるまでは、知らせなければいけない人たちへの連絡や、出られなかった人たちへの報告、いろいろなことに気を張っていました。
それも終わり気が抜けたのか。
いままたすごく悲しい気持ちや脱力感に襲われたりもしています。

だけど同時に、背中を押されている気もしました。

「30代、まだまだやりたいことがたくさんあっただろうに」

そんな声をたくさん聞きました。
30代なんて、まだまだやりたいことをなんでもできるはずなんだと、あらためて思わされました。

そうして芽生えた気持ちは、8年前の事故のときと同じでした。

「伝えられることを、伝えられるうちに」


だから、ちゃんと書き切らなくてはいけないと思った。

書こう。でも書けない。でもやっぱり書こう。
何年間もそれを繰り返してきたのならば、それはきっと伝えるべきことである証。
葛藤の回数は、必要性や本気の強さの表れなのではないか。

だから書きました。ようやく書けました。




いままでのことに対して「あの出来事のおかげで」と感謝できるようになるまでは、まだまだほど遠いです。

そこまで寛容にはなれない。それくらいの苦しみでした。
いまでもクルマの運転はできないし、乗っているとときどき苦しくなることもあります。
起きないで済んでくれたのなら、起きないほうがよっぽどよかったというのが正直な思いです。

だけど、「起きてしまったからには」という反骨心はあります。

長い時間を費やしてしまったこの出来事をこれからの人生の物語に織り込んで生きられなければ、この7年間の苦しみは本当になんだったのかわからくなってしまう。

感謝できるくらいにまで消化できて、ようやく書く準備が整うのか。
きっとそうじゃない。

そこまで至っていない未熟な人間が書いて、書きながらどこかにたどり着こうともがく。
そこに意味があると信じたいです。

仕切り直しなどしない。
ちゃんとこの続きを生きていく。

今回の決断は、そのために必要なものだったと自分に言い聞かせます。



本当に長くなってしまいました。

淡々と書き綴っただけの読みづらい自分語りを、もし最後まで読んでくれた人がいたのならば、ありがとうございます。
きっと前よりは、もっとオープンに、ゆっくり深くお話しできるようになるんじゃないかと思います。

最後に、一連の出来事から学んだことを列挙して終わりにしたいと思います。
もう少しゆっくり思い返さないと出し切れないと思うので、少しずつ追記していこうと思います。

さすがにちょっと疲れた。




●「心の問題」というとらえ方は、うしろめたさを助長しかねないこと。うしろめたく思うときは、そこから生まれるもっとフィジカルな苦しさを言葉にし、目を向けてみること。ちゃんと「身体の問題」でもあると認めること。同時に、本当は「身体の問題」と言えなくてもいいのだということ。「身体」と「心」の問題に優劣はないということ。

●苦しんでいることを許せない罪悪感に苦しむ、そんな二重の苦しみがあるということ。その罪悪感を抱いていること自体に嫌悪感が生まれる、そんな連鎖が起きるということ。人は傷そのもの以上に、傷の周辺で痛むということ。

●「回復させようとしてくれる人」だけでなく、「回復させようとしないでいてくれる人」も持つこと。自分のなかにもそういう人格を備えること。混沌は急いで無暗に整理しようとしないこと。ただ耐えるしかない混沌のさなかにあって、混沌のままで許し、寄り添う存在が大事であること。医者ではない自分は、苦しむ人のそばではそういう存在でありたいということ。

●寄り添うとは、分かり切ることはできないという謙虚さを保ちながら、それでも分かろうとする途上に居続けること。「理解する」というゴールにたどり着きたい焦りは、ときに理解したい側の安心のための手段になってしまうということ。不可解のなかに留まれるネガティブ・ケイパビリティを養うこと。

●痛みの経験は、必ずしもその後の優しさにはつながらないということ。「自分はこうして乗り越えたのに、なんでこの人はそれをしないんだ」と寛容さを失う人もいる。痛みを優しさに変えるためには、相手を「唯一無二の存在」として見ること。たとえ「同系」はあっても、「同じ」はないという前提に立つこと。

●止まっても、止まり続けないこと。休めるために止まることは大事。だけど、止まり続けている自分に対しては嫌悪感が生まれてしまう。進むことは自分を救うこと。「できないこと」を隠れ蓑にして、「できること」まで手放さないようにすること。1ミリでもいいから、最後は自分で動き、その進歩を自分で認める必要があるということ。

●進んでいる感覚を得るためには、上よりも下を見ること。きつい上り坂で上を見れば果てしないけれど、地面を見れば間違いなく進んでいることが感じられる。小さな小さな足元の変化を大事にすること。そしてそれを積み重ねること。

●心は具体的な行動がないと騙せないということ。心を変えて、行動を変える、その順番では難しい場合もあるということ。そういうときは、強引でもいいから、どんなに小さくてもいいから、先に具体的な動きをつくること。行動に心を引っ張らせること。

●そうは言っても、どれだけ正論を言われてもどうにも動けないときもあるということ。そういう状態の人にぶつける正論は武器になり得るということ。本人も何度もそのことを考え、それでも苦しんでいる可能性を考慮すること。相手が知らない前提で投げかけないこと。

●大声で叫ぶ自虐は、近しい状況にある人をも傷つける他虐になり得ること。だけどそこまで気にして自分に対する情けなさを言葉にできなくなり、溜め込んでいくことも危険であること。だからこそ、ネガティブなこともそのまま垂れ流せ、価値判断を挟まずに聞いてもらえるクローズの場があるとよいこと。

●見たくもないものに苦しんでいるときは、目を閉じるよりも、もっと目を見開いて美しいものを見ること。聴きたくもない声に苦しんでいるときは、耳をそらすよりも、もっと耳を澄まして美しい音を聴くこと。美しいものにたくさん触れ、美しいものへの没頭に心を奪わせること。

●厳しさは目的ではないということ。目的は「一番いい自分でいられること」であり、そのために必要な厳しさと緩さのバランスを知ること。その人なりの適温が大事であること。そこに至るための努力こそが本当に必要な厳しさであること。

●心理的安全は、心理的リスクの先にあること。どれだけ周囲が環境を整えてくれても、その環境を享受するために、自分が開かなければいけない瞬間があること。それは怖いものだけれど、その先にこそ大きな安心があるということ。

●人生は螺旋階段であるということ。同じ平面座標をぐるぐると回っているように思えて、本当はちゃんと、前よりもひとつ高い場所にたどりつけているということ。

●起きたことに感謝まではできなくても、起きてしまったことに対する反骨心は失わないこと。ただでは転んでやらないこと。自分にヒビが入ったのならば、いつかどこかのタイミングで、自分ならではのそのヒビを活かそうとしてみること。願わくば、そのヒビの裂け目から誰かを照らそうとしてみること。


神が作ったすべてのものにはヒビがあり
そのせいで人は未完成であると同時に
その裂け目から光が入る
——ラルフ・ウォルドー・エマソン

※個人的なことを書きましたが、シェアいただくのは何の問題もありません。

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