少女終末旅考
少女終末旅行を読んだ。いくつかの考察や作者のインタビューを読んだ。そのなかでこの作品のメッセージについて考えたことをまとめる。
読書体験について
この作品を読んでいるときの体験として特徴的だったのは、日常的な動作についての価値の再認識だ。作中では登場人物たちはつねに物質的窮乏のなかに置かれていて、ささやかな食事や温かい風呂などに大きな喜びを見いだす。現代日本を生きる我々からすれば、それらは大して価値があるようには思えない、当たり前のことに感じてしまっている行動が、チトとユーリを介することで、その認識を改めることに繋がる。
生きることと失うこと
作中での二人の他の生存者の話が提示しているテーマは、人生における目的とその喪失だ。カナザワは地図を失ったことで一時は死のうとするがその後に再び歩みを進める。イシイは飛行機の失敗に一時は絶望するが失敗してみればあっけないと立ち直る。
生きることが目的で旅を続けてきたチトとユーリはそれを失う、つまり死を目前にしてなお生きるのは最高だったという結論にいたる。
これら人々はいずれも、生きるうえで、失うことを許容している。失うことに後悔した様子を見せない。失うことに肯定的である様を描くことで、私たちにもその認識の変容をせまる。
世界の全て
終盤でのチトの発言について。
どういう意味なのか。
ここまで、作者のメッセージは、今を生きる人々にとっての、ある意味救いであることが分かる。味気ない日々を退屈だと思う人々には、日常の幸せに気づかせる。失敗が辛い、あるいは失敗が嫌で足踏みしてしまう人には、失敗を受け入れる人々がその指針として描かれる。
ではここの発言は一体何を意図しているのか。
私が考えたことを端的に言うと、それは自己の価値の再認識である。
価値と言ってしまうと少し語弊がある。具体的には、価値を認めるのではなく、価値と言うスケールで自分を評することからの脱却を意味する。
チトの、世界について何も知らないと言う発言は、世界という大きなスケールのものに大しての、自分のちっぽけさの否定的な認識である。
暗闇の螺旋階段の中で、チトは自分が世界と一体化しているように感じる。自分に対しての外部であった世界に比しての否定的な自己認識は、ここで覆る。世界こそが自分なのである。全なるものが即ち自分で、比べるものなどないのである。そう認識する。ちっぽけな自分に対しての大きな箱庭を意味していた世界という言葉は、ここで自分、即ち自分の認知そのものにその意味を変える。感じることが世界の全てなのである。
この理解、あるいは世界をとらえる枠組みの変容を通じて、先にかいたような自己の否定からの脱却、ひいては同じように悩む人々を助けることに繋がるのである。あるいは、悩んでいた作者を救ったのが、この考えなのかもしれない。
総論
少女終末旅行は日常に苦しむ人々を救う物語である。
その他
つくみず先生の他の作品であるシメジシミュレーションの終盤において、疫病で滅亡の危機に陥った人類が意識をデータ化して永らえる術を見つけ、その意識を保存するためにレモン型の物体を宇宙の彼方に飛ばしたというナラティブが語られる。また、チトとユーリはおとなりさんとして登場すること、少女終末旅行のなかでも一機宇宙の彼方を飛ぶロケットが示されていたことから、チトとユーリは意識をデータ化して生き延びる?ことに成功したのだと考えられる。様々二人のその後についての考察はあれど、ほぼほぼ明示されているようなものだと思う。
ここまで読んでくれてありがとう。
よかったら昼ごはんの味噌汁をおごってくれたらうれしいです。
ここから先は
¥ 200
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?