「その言葉の先」を見ることの大切さ
オリンピックが始まってから様々な誹謗中傷が選手や審判に寄せられていて、遅いくらいですが昨日JOCからそれらについての対応策が発表がなされました。
SNSが便利に利用できるようになり、このnoteもそうですが誰もが言葉を世の中に「簡単」に発信することができるようになりました。しかしその簡単さゆえにSNS上には「思慮深い」言葉が減ってしまったように思います。言いたいことが言えることは大事なことですが、
「その言葉の先」
を見れない人が多くなったかと思います。
自分自身のことを批判して書くのは矛先は「自分」なのでかまわないと思います。しかし他人の批判をする時には「思慮」をするとがとても大事になってきます。特に大人であればあるほど、歳を重ねれば重ねるほど「脳から口に直通」ではいけないように思います。
その書き込みを見たらその人の家族も、関係者も、友人も、ファンなど多くの人たちが悲しむ
そんな簡単な想像ができない人が増えていることが残念でありませんし、著名人と言われる方が売名行為のために「謝ることしかできない弱い立場の人」を選んで「すぐに逃げられる場所」から言葉を発していることが本当に情けないように思います。
僕は友人や知り合いとの他愛のない会話の中で「これはダメだった」「あれはどうかな」という話をするのは、よっぽどでない限りその言葉が相手や不特定多数の人に届かないですし言論の自由もあるので全然いいと思います。しかし、相手や不特定多数の人の目につく可能性のある行動には「思慮」が必要だと思います。
「思慮」は神さんが人に渡した「能力」だからです
言いたいことを言い、食べたい物を食べ、したいことを何も考えずにするのは「餓鬼、畜生」の所業です。自分の行動の「その先」を「思慮」し、全ての人とは言いませんができる限りの人が穏やかでいられるように思慮することは人ならできると思います。極端すぎるかもしれないですが、
その人を応援している病気の子が、この誹謗中傷を見て元気をなくしたらどうしよう
誹謗中傷を書き込むときには、それくらいのことを考えてほしいなと思います。
「和を以て貴しとなす」
という日本の大事な精神を、もう一度考えてほしい今日この頃です。