Wezzy「性器をケアすれば女性の人生は充実する」という言説は、どこから来たか?」への批判


本日はこちらの記事です。まあ細かい点に間違いがあるというのではなく、根本的に大きく間違えています。というのも、この「膣ケア」を推している原田純なる人物について山田ノジルさんは言及していますが。

その前に、「膣ケア」という発想自体は当然のことながら原田純氏の発明でもなんでもなく、そもそも膣という自分の性器を自分で見よう、ケアしよう、という発想自体はウーマン・リブが由来です。当時は性器の疾患(カンジダとか)すらも産婦人科で気軽に治療できない時代だったというのもあります。詳しくは「ジェンダー化される身体 」(荻野美穂 2022)を参照にしてください。

それはそれとして、記事では原田純さんが「膣ケア」に至った理由について、山田さんは以下のように「推論」を述べています。

「原田氏は1954年生まれ。青春時代はだいたい60年代、高度成長期です。ヒッピー文化や学生闘争の時代、一部では性的にアクティブなことがよしとされていた空気もあったようですが、女性蔑視がまだまだ色濃く漂う時代。」

「こんな背景から単純に、こんな構図が思い浮かびました。社会でバリバリ活躍していた精鋭の女性たちが、日本女性の身体はこんなにヤバい! それを自分たちが体験もしくは目撃してきた! と主張し、ポジティブにケアしましょうと癒す体で、より制圧されてきた女性たちのコンプレックスや不安を刺激する。更年期前後から急激に訪れる体の変化を、すべて「腟ケア不足」にすり替えてしまうイリュージョンーー。」

ひっかかるのは、山田さん、おそらく原田純自身について調べたことも、もしかしてですがろくすっぽググったことすらないのではないでしょうか、ということです。というのも、原田氏は自身の生い立ちから20代前後の時代までの自伝「ねじれた家帰りたくない家」(講談社)を書いているからです。

 読みやすいですが、壮絶な内容の名著です。名物編集長の父との確執、それに対する母との葛藤、自身のウーマンリブや学生運動との関わり、中絶体験、アル中、アメリカ渡航までを書ききっています。特に、母親への愛情を求めた自分をあきらめるに至った経緯は、かなり胸に迫るものがありました(泣きそうでした)。「女性蔑視が色濃く残る」というレベルの話ではない、女性を家庭に縛り付ける家父長制と、それに不満を持つ母、取り残される娘の関係が描かれています。あと故・岸田秀との共著も出されています(そちらは未読)。なお、原田純さんは現在、径書房を経営されています。http://site.komichi.co.jp/company/

というわけで、別に山田さんに人生を「推論」していただく必要のない人物です。ましてや、原田さんについて、「より制圧されてきた女性たちのコンプレックスや不安を刺激する」(「制圧」ではなく「抑圧」ではなかろうか)商売をしているという思い込みを述べられるのは、はたから見ても失礼極まりない。よくここまで人を馬鹿に出来るなと驚きました。

もちろん、実際に原田純氏の主張する「膣ケア」を手放しで賞賛できるか、と言えばそうではないと私も思います。「体験」に基づく手放しのケアの賞賛はグレーが多すぎる。ただし、「膣ケア」も含めて「性器ケア」を主張するフェミニストは原田氏だけではありません。田中美津さんもそうです。

問うべきは、なぜフェミニスト/フェミニズムは性器ケアにこだわるのか?ということではないでしょうか。ただし同時に注意すべきなのは、そうした性器ケアが必ずしもスピリチュアリティを前面に押し出しているわけではないいうことです。

こうした記事が出来上がってしまった背景として、おそらく山田ノジルさんが①原田純氏について詳しく調べることを怠り、読むべき本を全部読んでない。②フェミニズムの歴史について、知識が偏ってるか全く無い。③スピリチュアル/スピリチュアリティについて自身のなかで定義を練っていない、ということがあることは窺われます。

しかしそれはそれとして、同じ筆者による本が複数出ていた場合、その筆者の本は最低三冊以上は読んでから文章を書きましょう。勝手にその人の人物像を「推論」するのはリスペクトが欠けているだけでなく、相手の人格そのものを蹂躙する究極の失礼です。みなさまもご注意を。

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