「家族になろうよ」にみる家族内のコミュニケーション
皆さまこんばんは。
こちら、朝から雨がしとしと降り続き、どんよりとした雨雲が垂れ込めています。
快晴もいいけど、こうした落ち着いた一日も静かに考える時間ができていいものです。
さて、さきほど、来週に予定しているzoomでのイベントの打ち合わせが終了しました。
主に一般の方々を対象とした対話会。
題して、「家族力ミーティングー新しい時代の家族力を育もうー」
新しい時代といえば、自然災害のリスクと向き合いつつ、人生100年時代を生き抜く日々。
そのなかで、ひとつのテーマとなるのが「あいまいな喪失」。
今回の「家族力ミーティング」でも取り上げる話題のひとつです。
例えば、災害により、家族のだれかが行方不明となるという「さよならのない別れ」
また例えば超高齢社会のなかで、大切な人が認知症や精神障がいとなるという「別れのないさよなら」
誰しもがこうした局面に立たされる・・・それが「新しい時代」のひとつの特徴かも知れません。
そして考えるのは、そのような難局とともに生きる家族の姿。
「辛さを決して一人で抱えずに、家族のなかで話し合いましょう」
よく言われるフレーズですが、これが何とも難しい。
状況に対する思いや感情は、家族のなかでも個々に異なり、「わかってもらえない」歯がゆさがさらなる悲しみや怒りを生み出していく。
そして、いつしか家族に深い溝が生まれる・・。
こうしたケースに出会ってきました。
そして、そんなときに浮かぶのが、福山雅春さんの「家族になろうよ」です。
一番の歌詞に、いつも心動かされます。
♬「どれほど深く信じ合っても わからないこともあるでしょう
その孤独と寄り添い生きることが
「愛する」ということかもしれないから」
どれほど深く信じあっていても、分かり合えないことがあることを認め、「分かり合えない孤独を抱えながらも、その孤独と寄り添い続ける」。
それが「愛する」ということかも知れない・・。
あいまいな喪失という白黒はっきりさせることのできない混沌とした状況のなかだからこそ、夫婦だから、家族だからこそ、「わかってもらえた!」「わかった!」という確信が欲しくなる。
ただ、家族だからこそ分かりたくない現実もあり、話しても心は満たされずにいつも宙ぶらりん。
辛さを一人で抱えずに、家族のなかで話し合う。
それには、話すことだけではなく、自分とは異なる相手の感じ方や思いを受け止める自分であることも大切なことですね。
さてさて、
相方に思い切って話したのに、思わぬ反論に出くわして面喰ったり。
「そうじゃないんだけどな・・・」とさらに言葉を重ねても、ますますおかしな方向にいってしまったり。
逆にどうしても相手の気持ちが理解できなかったり・・・。
分かり合えない現実にため息が出る。
そんなときには、「家族になろうよ」の一節を思い出し「分かり合えない孤独と寄り添いながら」生きてみようと思うのでした。
東京、大阪のコロナの状況、本当に心配ですね。
皆さま、どうぞお大切に~!
「家族になろうよ」の1番の歌詞はこちら
「100年経っても好きでいてね」 みんなの前で困らせたり
それでも隣で笑ってくれて 選んでくれてありがとう
どれほど深く信じ合っても わからないこともあるでしょう
その孤独と寄り添い生きることが
「愛する」ということかもしれないから
いつかお父さんみたいに大きな背中で
いつかお母さんみたいに静かな優しさで
どんなことも越えてゆける 家族になろうよ