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これでいいのだ、私。そして頑張るお母さんたちへ。

(2019年3月に書いた記事を、別アカウントから移設したものです)

「働く母の呪い」は強烈だ。

呪いというか、罪悪感というか。
保育園に入園した時から言われ続ける。
「こんなに小さいのに、預けてかわいそうに」「子供をよく見てやって」「手間をかけてあげて」

けれども、そんなことはないと、私は身を持って知っている。
預ける相手は保育のプロ集団だ。
同じように子育てを試行錯誤するママ友パパ友もいる。
何もかもが初めてのウッカリ母のワンオペ育児よりも、ずっと良い。

一番よいのは、精神的に楽になれること。
どんなに我が子がかわいくても、一緒にいると辛い、と思う時がある。
そんな時に、物理的に子ども離れられる、困ったとき愚痴をきいてもらえる…という安心感は何物にもかえがたかった。
6年間を共にしたママ友パパ友は、その子を我が子のように叱り、心配し、愛する戦友になった。たぶんこれからも。

それなのに。

小1の2学期で子どもが不登校になってからの私は、「なんで子供の変化に気づかなかったんだろう…」「もっと見てやればよかった…そしたら早くに手が打てたかもしれないのに…」「もっと一緒に過ごす時間を増やさなければ…」と、後悔と自責のかたまりだった。

「先生が怖い」からはじまった娘の不登校は、担任しか知っている大人がいない中で「信頼できる大人がいない」というのと、これまでの自主性や仲間との関わりを大事にする保育と、いわゆる公立小の「一斉教育」とのギャップが原因のようだった。
もちろん良いところもあるはずなのだが、娘にとって「学校」は「どうしても行きたくないところ」と強力にラベリングされてしまった。

秋口から仕事を減らし、辞めた。一緒にいる時間を増やし、この3カ月、子供のためにできることをそれこそ死に物狂いで探した。生徒の自主性を尊重する自由な私立はないか、フリースクールはどうか、家庭教師はどうなのか…。スクールカウンセラー、発達相談、病院などなど。学校教育を考える政治の集まりにも参加した。Twitterのフォロー先も種類が変わった。

娘と一緒に動ける範囲を増やそうと一念発起し、20年来のペーパードライバーを脱するため講習を受けた。1回受けたが運転できるようになる気が全くせず。自分がケガするならともかく、周りにケガさせたら洒落にならない、と、こればかりはさすがにやめた。

それでも、少しだけお手伝いしている在宅の仕事中に、娘に「ヒマー」「一緒に〇〇やろうよ」と言われると、罪悪感でいっぱいになる。
不登校になりだして、すぐに会社を辞める決断ができず、仕事の状況もそれを許さず、膨大な「一人で留守番する」時間を過ごさせてしまったからだ。
自分で選んだこととはいえ、この小学1年生はどんな気持ちで過ごしていたのだろうか、と思うと今も切なくて涙が出る。

料理も、これまでは仕事でいっぱいいっぱいで、外食、お惣菜、デリバリー…など駆使し、ほとんど作っていなかった。これからは、その生活も変えていかなきゃ…と思って有賀薫さんのゼミ「家庭料理の新デザイン」に参加した。

ここでの私は「今までの私はダメだったから、変わりたい」という主旨のことを書いている。けど、変わりたいけど変われない私…という自分を引きずり続けて、2回目のワークショップに参加してしまい、うまく主旨に沿うことができなかった。

それが変わったのが、このワークショップの翌日に、発達外来で勧められた「ペアレントトレーニング」に参加してから。以下は私の育児メモから。

ペアトレ。
自分の育児の固定観念が解けていく。

「手間をかけること=愛」
「一緒にいること=愛」
そうではない。

不登校対応していると、働いていて娘を見てこれなかった自戒が強まり、上のようになりがちだけど、違うんだなと。
大事なのは、関わりの質を高めること。
March 13, 2019
例えば、子ども一緒に楽しめることを探すのが大事だと思ってたけど、それだけでなく「一人でも夢中になれる遊び」を探すことが大事で。

今は工作くらいなんだけど、もっと試したいなと思った。
みたいな感じで、具体的な観点から切り口が見えて実践できるのがとてもよい。
March 13, 2019

手間暇=愛ではなく、たくさんの時間を一緒に過ごすこと=愛でもなく、
「いかに短い時間でも、子どもと良質な時を過ごせるか」
「いかに周囲の力を借りて子の良い育ちを促進するか」

を考えてやっていくことが、自分を大事にしたくて、処理のキャパも少ない私のテーマなんだな、と。
先生との対話と理論の中から、前向きに自分を肯定できたのだ。

この考えは「家庭料理」にも当てはまる。

有賀さんは最初から、私のnoteへのコメントに「外野の声に惑わされず自分の動機に忠実に応えていくことで、抜けていく道が見つかれば。」「がんばらずに、幸せになる方法をさがしてください。なぜなら、そうでなければ本当の自分が出てこないし、続かないからです」と書いてくださっていた。

ずっと一貫しているし、今ならその意味がわかるけど、罪悪感にがんじがらめにされていた私は、わかっているつもりでわかっていなかった。40代の拗らせ女子である。キモ。

私は「料理」が苦痛だ。というか、他にやりたいことがたくさんある。そして、我が家は仕事の関係で、家に3人揃って食卓を囲むことも少ない。食事は、健康を維持できる程度の栄養バランスはほしいが、ささっと作れて「おいしいね」ってサクっと笑顔で食べられればよい。そして空いた時間で3人で何か作ったり、アウトプットするために話したり、考えたりしたい。
極論すると、我が家の場合は「食事」に団らんは要らない。

次に考えるべきは、我が家のインフラから望ましい食を組み立てること。
スーパーは近くにないが、両隣に野菜直売所付きのファミマとローソンがある(セブンもほしいところだが…)。レストランもないのだが、Uber Eatsはまあまあのラインナップだ。あとは、パルシステムの食材配達。肉も魚も冷凍でも我が家にとっては十分おいしいし、使いたい時に使えるのがよい。

娘と一緒につくる「イベント」としての料理は別として、このインフラをいかに使って「ささっと作れて、サクッと笑顔で食べれる」食生活を送れるかに、我が家は努力の方向性を絞ったほうがよい。一から作る必要はなくて、コンビニ+ちょい足しで、なんならそのままで全然OK。そしたら夫だって娘だって食生活を担える。苦しくない。

一人でも多くのお母さんお父さんが「我が家の幸せってナニ?」「だからこそ何を大事にしたいか(価値観)」を見つけ、そこに集中できるとよいな、と心から思う。

そして同じくらい「我が家のキャパはどれくらい?」「我が家のインフラは?」という「我が家で無理しないでできること」という方向からも考えることが大事で、それが交わったところが「我が家の家庭料理」であり、「我が家の育児」なのだ。きっと。

娘との共通の趣味「銭湯めぐり」に使わせていただきます!