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2023/12/22 思考フェーズの手前:虚無フェーズ

・虚空を見つめた後の真の言葉を重んずるべきである。


・人には、感動的な情景を「感動的」と知覚する前の動作がある。他に何も考えられないほどに、その状況を視覚いっぱいに受け止める。要するに虚無の時間だ。虚無の時間が長ければ長いほど、その人は該当する情景に対し「感動」や「美」を覚える。脳内はそれから言語化する作業に及んでいるのだ。

・しかし、他人の記憶が画像・映像化するにつれ、また文字による流布が一般化するにつれ、人々はその場で目にした光景を過去の誰かの経験で補完する思考回路を作成する。それにより、スペクタクルに条件が付与されて人々の脳裏には「山と朝日と雲があれば“綺麗”」というような定義付けが根底となってしまう。


・“現場”を見ればすぐさま“文字”に喩えることができる。それは、情報に溢れながらも時間を無駄にできない現代では非常に役に立つ機能だが、いささか情緒に欠ける。

・そのため、即決する思考回路を嫌い、社会を斜に構えて見ている者だって増えてきたし、若輩層では社会通年的な紋切り型の言葉や「刷り込み」に反発する風潮が台頭してきている。個人的には良い傾向だと思う。感情が廃れてしまうことを恐れて、自身で思考することに意味を見出しているのは、未来への希望とも捉えられる。


・しかし、その風潮はいかんせん様相が伴っていない傾向にあるようだ。所謂「逆張り」にも通ずるのだが、今まで是非を習俗で決めてきた事項を考えなしに“嫌悪”している。あまつさえそれを自己主張として誇示しているのだ。既に回路が単純なものに置き換えられているせいで、嫌悪においても形骸化が生じているのだろう。結局、思考を空にするシーケンスを排除してしまっているのだ。「自分自身はなぜ反対しているのか?」を蔑ろにしてはいけない。


・自身の価値観で是非を見極めるためには、はじめに書いた通り、言語化する前にただ見つめるだけの時間を作るべきだ。


・最初は故意的でもいい。綺麗な絵や山を見て無言にいる。できる限り何も考えないようにしてじっと目下の光景に目を向ける。すると、光景をテンプレートに喩えたとしても、自身の中に潜む感情は異なってくるはずだ。これらを繰り返せば繰り返すほど、自ずと原始的な思考回路が戻ってくる。ひどく抽象的な話で感覚に頼りきりなため、胡散臭い思われるかもしれないが、これにより文字に起こすより先に自分が伝えたかった真の想いが視覚化されていくだろう。

・勿論情報化社会において、簡潔な回路は必要である。人間社会の中で原始的な回路を用いることなどそうない。しかし、私は感性が鈍ることは死んでいることと変わりないと考える。


・死ぬより、時間を浪費して情緒を取り戻したほうがよりよい人生を歩めると信じている。


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