三百六十五歩のマーチの罠
耳触りがいいだけの言葉が嫌いだ。
化学調味料でつくった、味わいだけで何の栄養分も含まれていない食べ物みたいだから。
そんな言葉を嫌うあまり、耳触りがいいだけに感じるけど実は深い意味がある言葉をスルーしてしまうことがある。
水前寺清子が歌う「三百六十五歩のマーチ」の歌詞もそんな言葉の一つだ。
しあわせは歩いてこない
だから歩いてゆくんだね
一日一歩 三日で三歩
三歩進んで 二歩下がる
昭和生まれには馴染みの歌詞だ。
そしてとても耳触りがいい。
とても呑気で、いいこと言ってるでしょ感が強くてこれまでは苦手だった。というか聞き流してた。
でも最近向田邦子の小説にこの歌が出てきて、改めて歌詞を読み直したらまったく違う解釈ができることに気づいた。
そもそもこの歌は「毎日一歩ずつ歩けば幸せになれるよ」とは一言も言ってない。
さっきの歌詞の続きはこうだ。
人生はワン・ツー・パンチ
汗かきべそかき歩こうよ
あなたのつけた足あとにゃ
きれいな花が咲くでしょう
これは「幸せ目指してコツコツと頑張りましょう」という歌ではなく「幸せになれるかどうかはわからない、けど、それでも汗かきべそかき歩いて行こう。その歩み自体に(花が咲くような)尊さがある」という歌詞なのではないか。
続く二番にも三番にも、幸せになれるとは書いていないのだ。そう考えると全然呑気な話じゃない。むしろけっこう酷なことを歌ってる。
でも、確かに酷だけど、幸せになれないと人生に意味がないのではなく、それでも歩き続けること自体を肯定する歌は多くの人の心を救うはずだ。
振り返ると歩いてきた足跡が花の道になっている光景を目に浮かべると、目の前が暗くても希望を抱えて一歩踏み出せる気がする。
そう考えるとこの歌は本当の意味でマーチソングだし、これから自分が歩めなくなった時にはこの曲が力をくれるんだろうな、と思う。
それにしても、大人になると、こうやって言葉を解釈して自分の力にすることができるようになるんだなあ。
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