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鉄道150年特集バックステージ⑬・尾西鉄道を歩く・産業鉄道か、参詣鉄道か

名古屋駅関西本線ホームに上がると、待っていたのは電車と気動車。私が乗る9時42分発四日市行き各駅停車は電車、5分前に発車していった「快速みえ」は、非電化の伊勢鉄道・JR紀勢本線・参宮線を直通して鳥羽まで向かうため気動車です。

電車と気動車が同居する名古屋駅関西本線ホーム。


関西本線は私鉄の関西鉄道が1892(明治25)年に開業させました。単線の交換待ちで停車した蟹江駅には、開業当時のレンガ積みホームの跡が。国有化後、現在まで客車、気動車、電車運転のために、ホームが2倍以上の高さに嵩上げされているさまは、まるで地層のようです。


弥富駅に着きました。現在の2両ワンマン電車に似つかわしくない長いホームが、昔の「汽車駅」の面影をいまに伝えています。改札を出て駅舎を眺めます。改装されていますが1894(明治27)年築。地方にはまだまだ明治の駅舎が残されています。


そして貨物扱いの側線跡と覚しき用地の境に建てられた門扉に使われているのは古レール! アメリカ・USスチールテネシー工場製。「TENNESSE」の銘が見えます。肝心の製造年はボルトのあて板が溶接されていて見えませんが、同社製のレールは1907(明治40)年以降の輸入とされています。「工」の鋳出しは官鉄発注のレールを示しており、1906(明治39)年の鉄道国有化以降に入ってきたレールであることがわかりますね。一緒に溶接されているのは、昭和初期の官営八幡製鉄所製のレール。どこかに関西鉄道時代のレールも残されているでしょうか。じっくり探してみたいものです。

左側のレールがUSスチール製


再び改札から入り、跨線橋を渡った島式の関西本線上りホームには、名鉄尾西線の電車が折り返しを待っており、同じホーム上で乗り換えが可能です。絵葉書を見ると開通時と同じ形態。幹線に接続するローカル線や私鉄には、直接駅に乗り入れるこのような形態が多く見られました。

津島駅関西本線上りホームには名鉄尾西線の電車も発着。


本誌『東京人』11月号掲載の「物と人の流れが 地域経済を豊かにする」では、中西聡・慶應義塾大学教授が、この尾西鉄道によって地域経済がどのように伸びたのかについて書かれています。愛知県では紡績業が盛んになり、津島地域への原料綿と製品綿糸の輸送のために尾西鉄道の建設が企図されました。

弥富駅に入る尾西鉄道の列車。そのスタイルは現代と同じ。


尾西鉄道1号機関車は明治村に保存。

弥富駅を発車した名鉄電車は、右にカーブを取って関西本線から離れ、北に向かいます。小さな町を結んだいかにも支線の風景の中を進んで10分ほどで津島駅に到着。ここが綿製品積み出しの拠点であったわけです。駅は高架化されて昔の名残はありませんが、名鉄としては大き目の駅です。

尾西鉄道開通からしばらくすると織物輸送は伸び悩み、代わって津島神社への参詣客輸送が盛り上がりました。駅前からはまっすぐな道が延びており、津島神社に続いています。「天王通り」と呼ばれる道の両脇には昭和初期に建てられた商店のしもた屋が並んでおり、いまはひっそり閑としていますが、途切れない商店造りの家並みが、参道としてかなりの賑わいがあったことをしのばせます。

天王通り。神社までの1キロの間、元商店の建物が途切れない。


1キロ強歩くと津島神社の鳥居が見えてきました。ここは全国の津島神社・天王社の総本社で、「おてんのさま」と呼ばれる神社信仰のトップにある神社。楼門は1591年、本殿は1605年の建立と古いもので見応え充分です。


参拝を終えて、神社を背にして津島の市街地を歩きます。駅を中心にしたそれまでの東西軸の見方から、視点が神社中心になると、まちの様相が全く変わって見えてきます。神社から200メートルのところで、南北に弧を描いて通るのが津島下街道。元の鎌倉街道で、尾張最大の商業都市と言われた津島の交通路がこの道で、織田信長も往復したとされています。この旧街道沿いには、駅からのルートが繁栄する昭和初期以前の街並みが残されています。

津島下街道の商家。天王通りより古い家が建ち並ぶ。


昭和になってこの地方の産業が重工業に移行すると、その中心は伊勢湾臨海地域に移り、津島はゆっくり衰退していきました。しかし、いにしえの面影が壊されずに残っているまちなみは、鉄道以前のにぎわいが鉄道開通によって変容するさまがそのまま凍ったように見えました。津島は中世と近世と近代が同居するまち。実際に足を運んで感じること、それが鉄道旅行の醍醐味でもあります。(偽)

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