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鉄道150年特集バックステージ⑨・明治の貨車を未来につなぐ人びと

 大阪万博が開かれた年、1970(昭和45)年頃から「SLブーム」が社会現象となりました。国鉄の蒸気機関車全廃が1976(昭和51)年に予定され、各地で消えゆく蒸気機関車の写真撮影をしたり、列車に乗る趣味が盛んになったのです。若い人が中心の、いまで言う「撮り鉄」のブームよりも、より広い年齢層が加わっていたのが特徴です。現在、公園などに静態保存されている蒸気機関車の多くは、このブームに乗って「国鉄から自治体への貸与」という形で譲渡されたものです。

 それから半世紀。ほとんどの機関車はボロボロに腐食し、補修予算もつかなくなって解体・撤去が相次いでいます。しかし、一部で鉄道愛好家がボランティアで補修・清掃する動きが広がり、輝きを取り戻した機関車が地域で再評価され、まちのシンボルの座を取り戻しています。補修作業を行うボランティアたちには横の連絡を取って技術を交流、向上させる動きも出て、ここへ来て「鉄道愛好家の社会貢献」という、新しい関係性が生まれてきているのです。

 そんなボランティアの先駆け的存在でもあり、活動が鉄道史に直接貢献しているという点でもオリジナリティあふれる現場・貨物鉄道博物館を訪ねました。三岐(さんぎ)鉄道三岐線の丹生川(にゅうがわ)駅の貨物積み込み施設跡を利用し、蒸気機関車1両とディーゼル機関車1両、貨車13両、そして日本陸軍軽貨車2種が保存されています。

 集められた貨車は、明治から大正、昭和にかけて全国どこにでも見られた有蓋車・無蓋車から、液体輸送のタンク車や鉱石や砕石を運ぶホッパ車、そしてなかなか人の目に触れることのない、変電所の変圧器を運ぶ大物車までさまざま。車両にとどまらず、月一回の開館日に公開される旧貨物倉庫内には、貨車の行き先を表示する「車票」や貨物輸送に使われていた道具などが展示され、時代時代で鉄道貨物がどのような役割を果たしていたか、貨物を積み込む荷役(にやく)はどのように行われていたのか、総合的に理解できるような展示がなされています。

 本誌の記事に、貨物鉄道博物館常務理事の南野哲志(なんの さとし)さんに伺ったボランティアの内容が書かれていますが、博物館の運営のみならず、貨車の修復・塗装もボランティアの仕事。修復作業場で一部解体し、木部や鋼鉄部分のリベット組立など貨車の構造を分析して同じ工法で修復し、失われた部品は同じものを工作機械で作り出す、まさに博物館クオリティ。その過程は『貨物鉄道博物館公式ガイドブック第3版』にも収録されており、同館の実力がよくわかる本。必見です。こちらから通販もしています

http://frm.kans.jp

(貨物鉄道博物館トップページ・ずっと下までスクロールするとハンドブックの案内が出てきます)

 明治時代の貨車としては1906(明治39)年製の有蓋車、ワ1形5490号が収蔵・展示されていますが、2020年、新しく明治の貨車が2両加わりました。茨城県の関東鉄道竜ヶ崎線竜ヶ崎車庫で倉庫として使われていた、1900(明治33)年関西鉄道四日市工場製の元関西鉄道458号有蓋車の車体と、石川県で油槽として使われていた、1893(明治26)〜1898(明治31)年に英国ハーストネルソン社で製造された元ライジングサン石油ア1900形タンク車のタンク体。車輪や台車などの走り装置や、それらを取り付け、車体を乗せる台枠が失われており、貨物鉄道博物館では復元に取り組もうとしています。

 南野さんは「有蓋車は地元四日市で作られたもの。タンク車は溶接技術以前、リベット止めの鋼板で作られたタンクでも使えたことを伝えたいのです。双方とも明治という時代を物語るものですが、一方で大正・昭和と変わらないものもある。それを実物で知っていただきたいのです」と語ります。貨車の復元についてはぜひ本誌「いま会える、ふれあえる明治の鉄道」をごらん下さい。そして、東京からは少し遠いですが、足を運ぶ価値は十分にあります。貨物鉄道博物館の脇には、三岐鉄道のセメント列車と、同じ貨車に、行きは炭酸カルシウムを石炭火力発電所まで運び、帰りは発電所の廃棄物であるフライアッシュ(石炭灰)をセメント工場まで運んでセメント原料として活用する、日本ではここだけの往復輸送と、貨物鉄道の過去・現在・未来の姿を見ることができるからです。(偽)

*次回の開館日は11月6日(日)です。開館日以外でも屋外の車両展示は見ることができます。

*貨物鉄道博物館では、明治の貨車2両の復元費用をクラウドファンディングで行う計画を持っています。実施されることになりましたら、こちらでもお知らせしたいと思います。

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