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鉄道150年特集バックステージ⑩・新事実!「ラーメン構造」で構築された地下鉄トンネルで交錯するユダヤ系ドイツ人技師と、カンカン踊りを踊ったお針子の「記憶」

  小菅(こすが)マサ子さんは1916(大正6)年京都・鞍馬生まれ。昭和初期に名古屋から上京し、お針子として日本橋高島屋の裏手の店に住み込んで、着物の裁縫の仕事をしていました。同年代のお針子と一緒に店に寝起きする毎日。縫った着物は高島屋に納められていました。厳しい仕事だったけれど、芸能人の着物を縫ったという腕達者でした。

 毎日裁縫にいそしむマサ子さんの楽しみは、お針子仲間みんなで、できたばかりの東京宝塚劇場へ行ってレビューを見ること。「帰りの地下鉄銀座駅の地下道には大きな鏡が張られていた。その前で、さっき見てきたカンカン踊りをみんなで踊ったのよ」。

 マサ子さんは1940(昭和15)年、名古屋に帰って結婚します。その頃の銀座駅地下通路は、銀座線ホームの階上、松屋につながる一本しかありませんでした。鏡はこの通路の壁にあったに違いありません。しかし、いろいろ探したのですが、鏡がある地下通路の写真や記録を見つけることはできないでいます。

 本特集では、青山学院大学の高嶋修一先生に、1927(昭和2)年、浅草—上野間で開業した日本初の地下鉄、東京地下鉄道のトンネル設計に活躍した技術者の一人、ルドルフ・ブリスケの数奇な生涯についてお書きいただきました。実は企画としてはもう少し別なテーマをお願いしたかったのですが、高嶋先生がぜひこのテーマで、とおっしゃるのでお願いしたところ、日本の地下鉄史に埋もれていた新事実を発掘する、凄い原稿が出来上がってきました。ぜひ本誌をご覧いただきたいと存じます。

 ブリスケは第一次大戦後の敗戦国となったドイツで技術者としての仕事がなくなり、日本に来たと考えられます。1920年代当時新しい工法だった「ラーメン工法」は、構築物の横梁と縦梁を一体として結合させ、十分な強度を生み出しながら大きな空間構築が可能な構造で、神田川をひとまたぎするお茶の水橋(1931〔昭和6〕年竣工)が有名です。東京地下鉄道のトンネルもラーメン構造で構想され、ブリスケは1923(大正12)年の関東大震災を調査し建築家のアドバイスも得て、さらなる耐震構造を設計に盛り込んだことを高嶋先生は明らかにしています。

 このような功績を残して帰国したブリスケの人生は暗転します。ユダヤ人の彼はナチスの迫害にさらされることになるからです。その経緯はぜひ高嶋先生の記事をごらん下さい。幸い、彼は第二次大戦を生き延びることができました。

 『東京地下鉄道建設史 坤」には、ラーメン構造で作られた銀座駅の鉄骨構造の図面が掲載されています。ラーメン構造はトンネルの駅部だけでなく、上階の地下道部分も一体となっていました。黄色い矢印のところに鏡があり、マサ子さんたちがカンカン踊りを踊ったと思われます。そして2019年、銀座駅ホームの改修工事が行われ、化粧板を外した下からラーメン構造の鉄骨が現れました。図の赤矢印が、横梁と縦梁の接合部です。このとき露出した鉄骨の一部には空襲で落とされた爆弾による変形の跡も見られました。

2019年、改装工事で現れた鉄骨框構造。赤矢印の先がラーメン構造の横梁・縦梁の接続部。

 マサ子さんは1940年以来ずっと名古屋で暮らし、90年代に入って認知症を患い、記憶が保持できなくなっていました。しかし、1998年にわたくし(偽)が名古屋近郊のお宅に訪問してマサ子さんとお話しした際、(偽)が東京から来たと話したところ、突然冒頭のお話を始めたのです。この蘇った記憶は息子の行男さんも、介護の中心を担ったもと子さんも、聞いたことのなかったお話だったのです。認知症の世界とは、本当に不思議なものです。

 もうひとつエピソードを重ねることをお許しください。小菅さん一家はマサ子さんの認知症による物忘れ、妄想、徘徊などに悩まされて疲弊します。しかし、もと子さんがマサ子さんの感情の機微に気づき、絵筆を持たせたところ、絵を描くのは尋常小学校以来だったマサ子さんの絵がめきめき上達、絵画展で入賞を重ねるようになります。それにつれ、マサ子さんの生活も穏やかなものになりました。この頃はまだ介護保険発足前、認知症は「痴呆」と言われ隠すべきものだったのです。それをオープンにした小菅さん一家の周りで、地域ぐるみで認知症の介護を行う端緒が開かれます。当時、わたくし(偽)は、もと子さんの介護手記『忘れても、しあわせ』(角川文庫に収録)の担当編集者として関わっていました。

 手記刊行後の反響により、東京の毎日新聞ギャラリーでマサ子さんの絵の展覧会が開かれることになり、マサ子さんは58年ぶりに東京にやってきました。(偽)はマサ子さんを車に乗せ、日本橋、東京駅、改築中でしたが東京宝塚劇場などを回りましたが、マサ子さんの表情に、反応はありませんでした。

 ではそろそろ息子さんやお孫さんの待つホテルに帰ろう、と高島屋の前に車を止めたのが10時。店の大扉が開かれ、店員がお辞儀で客を迎えています。気がつくと、マサ子さんが後部座席のドアに手をかけて、身を乗り出すようにして見ているではありませんか。60年近く前のお針子時代の記憶が蘇ったに違いありません。「凄いものを見た」。わたくしはそう思いました。

 マサ子さんは2006年、90歳で亡くなられました。しかし、わたくしがこの時の情景を語っていたところ、映画監督の松井久子さんが小菅もと子さんの手記を映画化した「折り梅」(原田美枝子・吉行和子主演)の中で、マサ子さん役の吉行さんに、あの、高島屋の開店を見つめるポーズの演技をつけてくださいました(劇中の場面は異なっています)。小菅マサ子という無名の人の人生が、こうして刻みつけられた経験をしているので、日本には記録がほとんど残っていないブリスケを追って、ニューヨークのユダヤ人歴史センターの記録を渉猟しドイツに調査に赴いた高嶋先生のお気持ちはよく理解できましたし、素晴らしいお原稿をいただけたのも、ブリスケの人生への思い入れからと深く納得できました。このような形で「鉄道人物史」を編めるのは本当に幸せだと思えた一篇です。まさに、鉄道とはドラマなの
です。(偽)

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