オペラに苦しんだ話

 オペラは苦しい
 ことは、最近妙に脳がつかれるので、脳の疲れをほぐすために良いのではないかと思いつき、買い置きしていたモーツアルトのピアノ協奏曲集を聴いたことに始まる。
 これはブレンデルというピアニストのもので、たしかにこれは効き目がある、と直感した。とにかく脳がほぐされるような気持ちになるのだ。柔らかな室内楽の前奏の後からあたかも小鳥が小躍りするようにはしゃぎながら飛び出してくるような、モーツアルト独特の柔らかな音楽がまさに疲れた脳に染み渡る印象で、間違いなく巷間言われるような「リラクゼーション効果」があるように感じられた。
 モーツアルトピアノ協奏曲集を聴き終えると、次はベートーベンの交響曲全集に進んだ。
 この展開すら異様なのだが、当の本人は気づかない。
 この全集ものはゲオルク・ショルティがシカゴ交響楽団を指揮したもので、これも買ったのは良いが何曲か拾い聴きをしただけで放っておいたものであった。これを順番に聞いていこうという寸法であった。
 すると、面白い。すべてが新鮮である。ついこの前までThe Whoを聴きなおして感心していたのが、交響曲特有の音のスケール、重低音の響き、弦楽器の美しい摩擦音に魅せられていった。そう、レコードをカートリッジがこすることによって発生する生々しい音に、何やらこの桃源郷じみた心地よさの秘密があるように思われた。

 そしてたまたま購入した岡田暁男氏の書籍「クラシックとは何か」がその時の心境にズバリとはまり、西洋音楽全般に関心が広がっていった。 
 こうなってくるといつもの悪い癖で昼飯はもりそばやカレーなどを急ぎかっ込んで時間を稼ぎ、新宿のクラシック専門の中古レコード屋に駆け込みレコードを物色する日々が始まってしまった。つまりいつもの病気が再発したのだ。
 ベートーベン後期弦楽四重奏。四大バイオリン協奏曲集などの箱ものを中心に買い込み、週末は地元のリサイクルショップのジャンクレコードをあさり、やれ今日は10枚組の協奏曲全集とLP4枚で500円だとか、やや躁状態になってしまうのは何かに夢中になった際に私に起こる現象である。
 (ちなみにクラシックの箱もの、いわゆるボックスセットは無茶苦茶安い。ベートーベンの交響曲ボックスなど、1000円程度だったと思う。「まとめて買う」という行為がマニアックでないことが理由ではないか)
 おそらく本来はベートーベンに絞るなどして、交響曲9曲をじっくり聴き、次にピアノ協奏曲5曲をグールドのソリでじっくりと味わい、そののちに後期弦楽四重奏へ進むというのが一般的な流れであろうが、急いでその全体を俯瞰しようとしてしまうのだ。

 そしてとある日曜日である。散歩がてら寄ったくだんのリサイクルショップでジャンクレコードを漁っていると、なんとオペラの箱入りアナログ盤がごろごろと出てくるではないか。先に読んだ岡田暁男氏のエッセーには、ナポリの桟敷客の熱狂ぶりが大変魅力的に書いてあり、自分も同じく桟敷席で「ブラボー!」と叫んだり、演奏のミスがあればオケ席へ乗り込んでブーイングを浴びせてやろうなどと妄想は膨らむ一方であったが、あいにくオペラなど1作も観たことはなく、ナポリへ行く前には代表的なオペラくらい理解しておく必要があると考えていたのでこれはまさに天の配剤と思われた。
 「椿姫」、「ドン・ジョバンニ」、「魔弾の射手」、「魔笛」、「マダムバタフライ」・・・門外漢の私でもその名は知っている作品ばかりである。
  指揮もカラヤン、カルロス・クライバー、カール・ベームなど有名どころぞろいで、もちろん管弦楽団も一流どころである。しかも1セット108円(税込み)である。しかも1セットにLPレコードが3~4枚は収められているわけで、これはもう只より安いという次元のものであると思われた。
 中身を確認すると、レコードもほとんど傷んでいないきれいな状態であるし、日本盤のためライナーノーツに歌詞カードもついていて心強い。しょせんオペラの内容なんて絵空事や他愛のないものが多いらしいのだが、これで完全攻略確実と大いに高をくくり、先に挙げた5セットを抱えてレジで支払いを済ませた。しつこいようだが、しめて540円である。
 帰途につき、いつもは立ち寄らない成城石井でオリーブとプチトマトをワインビネガーであえたものを購入したのも、おそらく軽度な興奮状態が店を出てからも継続していたからだと思われる。訳が分からないが心はナポリに飛んでいると言いたかったのかも知れない。

 帰宅すると娘に「オペラを買ったぞ!」と訳もなく征服者のような態度を示し「ナポリへいくぞ!お前も一緒に行くか!」と叫ぶと、娘は「いや、今はいい」とごく冷静であった。
 日曜日ということもあり、これを聴くのは夜のお楽しみとした。日曜の夜、一人オペラを聴き、豊かでしかもユーモラスな管弦楽を流せば、リラックスした空気は部屋に満ちて、人間の格が数段は上がるように思われた。

 さて、夜のとばりが下りるのを待ち、一人自室へ重たい箱入りのレコード5個と焼酎の水割りをもって上がっていった。
 5セットのうちどれから聴こうかと、軽いパニックに陥る。複数のレコードを買ったときは必ずこれがやってくるのだ。しかも今回は中身が全く分からない。
 トップバッターはモーツアルトの「魔笛」にしよう。モーツアルトのリラックス効果はすでに体験済みだし、生涯最後のオペラということでさぞや気合も入っていることと想像された。何か「フィガロの結婚」の序曲が全面的に鳴り響くイメージが早くも脳内を駆け巡った。
 ポリッシュ用の液体でレコードのA,B面を丁寧にクリーニングする。アナログ盤を聴くときのいつもの儀式である。そしてMCカートリッジの針を落とし、再生。
 そして歓喜の時を待つ。

 Å面を聴き終えて、いや、流し終えて、何やら想像もしていなかった事態が出来していることが実感された。しかしこのときはまだそれが何かは把握できていない。やや戸惑いながら盤を裏返し、B 面に針を落とす。高音のアリア・・・。
 次の瞬間、もう我慢ができず、カートリッジを上げ、少し息を荒くしながら階下へ降りて行った。焼酎の水割りをあおり、煙草に火をつけ大きく吸い込んで吐いた。
 深呼吸の要領である。
 この時点ではまだ何が自分の身に起こったのかわかっていない。思考を重ねた。

今の気分は?
「気分は悪い。すごく悪い。最悪だ。吐き気もする」
音楽を聴いて気分が悪い?
「音楽を聞いたことが原因ではない。何か重層的な要因がありそうだ」
予想外の事態か?
「明らかに予想と正反対の事態が起こっている」
内容は分かったか?
「まるで分らない。あれは何語だ。イタリア語なのか」
歌詞カードはどうだ?
「言葉がわからず、筋も大まかにしかわからないので、どこを読んでよいのか知れなかった」
音楽はどうだ?
「記憶に残っていない。超高音の女の声が記憶に残っている」

 そして結論として、次のことを認めざるを得なかった。
 そう、あの時、私に2つの災厄が降りかかったのだ。
 一つはゲシュタルトの崩壊。そしてもう一つは認知的不協和である。
 まずゲシュタルト崩壊であるが、3つの理解不能が重なったために起こったと思われる。それは、言葉(イタリア語?)の理解不能。これは想像を超えた不快感をもたらした。オペラは歌劇でもあるが登場人物が短いセリフを交換する場面がある。これが全く持ってわからない。
 自分の理解できない「言語」で「ストーリー」(らしきもの)が進行している(ようだ)。そしてそれを熱狂的に好む観客・聴き手がいる(らしい)という、理解不能が3つ重なるというのは実行不可能なトリプルタスクに挑んでいるようなものである。マルチタスクの心身への悪影響はよく知られたとおりである。
 もう一つは歌詞カード、つまり文字である。確かに歌詞カードに歌詞やせりふの日本語訳が載っているのである。それを追っていけば正しく理解ができるはずである。ただしそれがイタリア語となると事情が違ってくる。「目で追って」いけないのである。つまり歌とセリフと文字は間違いなくそこにあるのに、耳と目が的確にそれを捉えられないという焦燥感、不快感が沸き起こってしまった。
 最後に音楽が、把握できない。ワグナーの楽劇では、オペラに通いなれた客はいきなり寝てしまうと知って笑ってしまったが、当然見せ場や聞かせどころをを知っているからそれができるわけだ。しかしこちらはずぶの素人で、何ら予備知識はない状況で「すべてを理解しよう」とした。できると思っていたのだ。

 最悪のファーストコンタクトであった。私に歓喜と安逸をもたらすはずだったその新品同様の5つのボックスセットをレコード棚の上に置くと、ああ、とため息交じりに漏らしつつ、どこかの中古レコード屋が間違って高値で買い取らないものかと下司のように立ち直るのだった。

追記
そののち他の中古レコードと一緒にDU買取センターに下取りに出したのだが、値段はつかなかった模様である。もういい。

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