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この国で許容できる自己犠牲の限界について

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この国は、あるいはこの国の国民は一体どこまで他人を守るための自己犠牲を払うべきなのか。
例えば東北大震災の時、市民を避難させつつ津波に巻き込まれた消防士。
例えば小学校に現れた通り魔に対し児童を守るために犠牲となった教師。
あるいは浅間山荘でテロリストの凶弾に斃れた警察官。
彼らの死は報道を経て市民に讃えられ、あるいは悼まれ、時間をかけて許容されていく。
一方でコロナ禍に於いて、医療者は患者の為に生命を懸けて陣頭に立つべきである、と言う言説はわが国ではついに聞けなかった。
医療者であってもかけがえの無い生命である事は一般市民と変わりないというわけだ。
職務としてではなく市民としてという観点で言えば、電車内で凶器を振り回すものが出た時、または通りがかりの宝石店を強盗するものが現れた時、市民はどこまで自分の身を犠牲にして治安を守るべきなのか?
おそらく大多数の日本人は犯罪者に出会っても、たとえ被害者を見捨てる結果になったとしても自分の身を優先して守るべきである、と考えるだろう。
では例えば電車内で女性を強姦するものが現れたら?あるいは痴漢を目撃したとすればどうだろう。
それでも一般市民に自己犠牲を払ってでも治安を守る義務は無いと言い張れる人間はどれほどいるだろうか。
わが国の国民は特定の立場の人間には平気で死を要求する癖に、その責任が無制限に拡大するのを酷く恐れる性質を持つように思う。
ある日突然、事故を起こして赤の他人を巻き込まない為に運転をやめろ、と言われたとき、自分と家族の生活を犠牲にして運転を辞める覚悟をどれだけの人が持っているのだろう。
案外多くの人はそんな覚悟はできていないのではないか。
そんな気がするのである。

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